日本列島誕生と祇園山

町制施行30周年記念講演会


講 師 東京大学教養部教授  浜田隆士先生
開催日 1986年(昭和61年)4月2日
場 所 五ケ瀬町町民センター


日本列島の背骨となる祇園山
 只今、甲斐さんから、大変ご丁寧なご紹介をいただきまして恐縮しております。今日の講演に「日本列島誕生と祇園山」という題を付けさせていただきました。そのいきさつを申しますと「九州の島ができた、祇園山はその中心である。その原点である。」という風に町では町長さんをはじめ大変な努力をして今、売りだそうとしておられると伺いまして、これは全くその通り。しかし、九州だというのも何か寂しいと思いまして、日本列島の一番背骨になる、一番中心になる部分が実は祇園山なんだ。そして、日本列島が最初に形を造る時の主役となったほんの小さな島のそのかけらが、祇園山に残っているということをご紹介して、先程、司会の方からお話のありましたように、私は延岡の出身で、お世話になりましたことに、万分の一のお礼でもできればと思います。

岐阜県飛騨地方の化石から
 私は、延岡で中学1年生までおりましたが、何しろ、終戦直前で非常に恵まれず、何もない時でありまして遊ぶといっても、するのもありませんので、裏の山ばっかり歩いて石ころを集めたりするのが趣味でありました。

 社宅のお隣に石屋さんがありまして、お墓の石を磨いていたんですね。それのかけらがいっぱい出ます。しかも、日本各地からの石材が来てますから、何となく、それを集めているうちに、石ころの魅力にとりつかれまして、小さい頃から下を向いて歩く癖がつきました。落ちているものがあれば、何でも拾うという奇妙な癖ができてしまいまして、それが高じて、大学に入る時、ちょっと石にこり過ぎまして、東京大学を受験しましたところ落っこちました。

 うちが丁度、貧乏でありまして、旭化成におりました父が亡くなった後で、母親一人だったものですから浪人する余裕もなく、どこか他の大学へ行きたいと思っていましたら、たまたま東京の近くには横浜国立大学がございました。ここに、もう亡くなられましたが今では、私の恩師として、大変感謝している方で鹿間時夫先生という化石の大家がおられました。

 この方は、東北大学の出身で、専門は骨なんです。化石の骨、例えばイノシシとかヘビとか、このごろじゃ恐竜が盛んですが、当時、日本には恐竜はいなかったと思われていたんです。ところが、この鹿間先生という方が、どういうものか非常に変わり者でいらっしゃいまして、自分のご専門以外に、いろんなことをやられる。特に、日本列島の生い立ちに関して、執念を燃やしておられました。

 この先生に「お前、少し古い方をやれ。」と言われました。大学の先生の命令というのは、これはもう、大変な至上命令ですから、私は言われた通りに、岐阜県の山の中に卒業論文で入ったんです。岐阜県の山といっても広いんですが、いわゆる飛騨地方です。そこへ入りまして、1日にバスが片道1本あるだけで、大変な山の中です。そこに入りまして、化石の勉強をしようと思って探したんですが肝心の化石がないわけです。

 「なんで、先生、こんな所に僕を放り込んだんだろう。」と思いまして、探していましたら、ありました。ちょっと普通の見方では、化石とは分からないように、変質してしまって、古い、古い非常に古い岩石の中の化石ですから、押しつぶされて、ペシャンコなんです。化石の格好をなしてないんです。だから私は、非常にがっかりしたわけです。

 化石というのは、本で見てて非常に綺麗で、形を見ればモノが決まる。「これは古代の生物だ。」という事が分かると、思い込んでいたものですから、がっかりして、それを先生に言ったら「いや、そんな事はない。お前しっかりやれ。」とおっしゃって困りました。そこで卒業論文は、それをしようと思ったんです。
考えてみますと、つぶれた化石の卒業論文で、学位をもらういうのも、大学を卒業するというのもおかしな話でして、ついでというか、むしろ、化石がそういう風につぶれてしまった原因を調べようと思いまして、ちょっと方向が変わって化石学というんでしょうか。石ころそのもの、鉱物の研究に主眼を置いて、化石はそのついでという格好で卒業いたしました。

昭和30年に祇園山入り
 ところが、私自信は化石に対して大変興味がありましたものですから、なんとかしたいと思っておりましたら、その、鹿間先生が「お前、化石を卒業論文で、ちゃんとやらなかったから、その罪で大学院へいけ。」と言われました。それで、東京大学の大学院を受けろと言われたんですが、大学入試の時に落ちているのに、大学院が受かるはずがないと思ったんですが、鹿間先生が大変熱心に推薦してくださいまして恐らく、僕の大学院の入試の成績じゃなくて、鹿本先生のご推薦のおかげじゃないかと思います。運良く、本当に運良く入れていただきました。

 大学院というところは、また厳しい環境ですから、何を勉強したらいいか。私みたいな何もできない人間に、大学院の勉強ができるだろうかと考えましたら、これまた、小林貞一先生という立派な先生がおられました。当時の主任をしておられまして、「君なぁ、人のやらんものやらなぁアカンネー。」とおっしゃるわけです。

 「何でも人がやってるものじゃダメだ」と。「初めてのことをやれ」と。「そやなぁ、今ちょうど神戸君(工業技術院、地質調査書の神戸博士のこと)が、祇園山に行っとるわ。お前も行ってこい。」とおっしゃいます。それで、連絡をとりまして、カバン持ちのようなかたちで、初めて鞍岡入りをしたのが昭和30年だったと思います。

 以来、大学院というのは5年間かかりますから、その5年間通いづめというと、ちょっと大げさですが、お寺の松井さんところにお世話になって、あそこで庭いっぱい石ころを拾ってきては、地図を描いて過ごしました。夢のような時間でした。アッという間に過ぎて論文を提出しなければならなくなりました。私なりに、一生懸命がんばってやりましたら、運良くパスしまして、そこで東京大学の理学博士号をいただいたわけです。そのテーマの中心になったのが、この祇園山だったんです。

博士論文のテーマが祇園山の化石
 私は延岡に生まれ、東京に移りましたが、いわば私の研究上の生活から言いますと、祇園山育ちと言えるかも知れません。本当に、ここで勉強させてもらった。運がいいというのはホントに、こういうことをいうのじゃないかと思います。私は就職とか、そういうことはよく分かりませんで、無我夢中で祇園山の石ころなどを磨いておりました。

 どこへ、就職するかなんてことは、全然、頭になかった。ところが、運良く「教養学部に助手の席があるから、お前行け」と。後で伺いましたら、アメリカへ留学している先生が「もう、帰ってくるのがいやだ。」とおっしゃって、ポッカリと穴があいてしまった。これ、どうしても埋めなきゃいけないって言うんで「お前、余っているから行け」ということだと思います。それが、運良く私の就職となりました。一年も浪人せずに。そういう意味では、東京大学の入学試験には落ちましたが、一年も無駄なく、結局、就職で東京大学へ戻ってきたというんで、普通の人と逆さまのことをやりました。

 普通なら、東京大学へ入って、他の所に行くというんでしょうけど、私は東京大学に入れずに、他の所から回って、最後に東京大学へ勤めて、今まだ、そこへ席を置いているという、どうも変わりっぱなしというか、いささか、普通の人と違う動きをしてしまいました。

 頭が悪いものですから、よく先生に「僕は、あまり良く分かりませんので」というと、「化石の勉強というのは、頭でひねるものではないよ。足であるきなさい、目で見なさい。」この言葉をいただきまして、本当に今では、とても感謝しております。理屈じゃない。山へ行ってモノを見なければ、化石は分からないわけで、机の上で計算しても化石は出てこないわけです。まして、日本列島の誕生が、机の上でコンピューターで出てくるわけじゃないんです。やっぱりその証拠がほしいわけです。

 祇園山ってのは何だ。何者だ。お化けか。というのが私のテーマになったわけです。ところが、祇園山というのは、こういう険しい山で、石もたくさんありますが、自然というものは偉大なものでありまして、私の博士論文になったテーマは、その祇園山の化石の中で、ほんの一部、ほんの繊細な一部分だ。それを学会で発表したら、これも運良く非常に評価を受けまして、あちこちで、おもしろい、おもしろいと言ってくださいました。

 また当時、今から何十年前の話ですが、この後でスライドや実物をお目にかけて、ご説明したいと思いますけれども、サンゴの化石があります。サンゴといっても、ご婦人が飾りに使うような、ああいう立派なものではなくて、いわゆるサンゴ礁をつくるような、今で言うと熱帯地方の浅い海に住んでいるような、サンゴの仲間なんですが、そのクサリサンゴという仲間だけで論文を書いたわけです。

どんな石ころにも地球の歴史が書いてある
 ところが、実際に祇園山から出てくる化石というのは、そんなものじゃないんです。もっと、もっと沢山の種類があって、もっと、もっと深い意味を今だに謎として秘めている化石が残っているんです。だから、例え方が変ですが、私と同じような立場の人が、何人かこれから出てくれば、この人は、ハチノスサンゴで、この人は、腕足類で、この人はオーム貝でといった風にして博士号があと、5、6人は軽くでると、うまくやれば10人位だって十分養えるだけの下地が、この祇園山に秘められているんです。

 これは、正直言いまして、いわゆる学問の世界での貴重さでありますから、実際に後でご覧になっても「ナニ、この石ころが」というような物でもあります。しかし、私、思いますに本当にどんな石ころでも、例えば、その河原に落ちている、灰色のひとかけらにも、あるいは畑を耕したときに転がっているひとかけらにも、それは地球の歴史という一ページが、地球の歴史の一行が、必ず書かれているわけです。

 我々は大地の上に住んでいます。その大地の事が分からなくて、実際の落ちついた生活ができないんではないかと私は思うわけです。もちろん知らなくったって食べていけますし、ちゃんと生きていけますけれども、やはり故郷を知るというのは、ご先祖様のこともさることながら、遠い遠い人類の先祖、あるいは生物の先祖のことも知っているという事は、人間を豊にしてくれる。

 まして、この祇園山が、日本列島が最初に出来たときの小さい、小さい、ホントに小さい、ひとかけらですが、それが日本列島を造る核になった。中心になったということが分かっていただければ、これは気持ちとして、大変、豊かになるんではないかと思うわけです。いささか、祇園山の宣伝になりますが、私自信が今、申し上げましたような経過をたどって祇園山に大変お世話になって、その一部分でも明らかにできたということは、非常に幸せに思っています。

 今日は、そういう私の短い人生、この頃だいぶ延びましたので、まだまだ先があると思います。見かけ上、こんなんですけど、もう少し元気にやれると思いますので、もう少し勉強して、私の関係している仕事が、少しでも皆さんに、特に祇園山を町の中心に抱え込んでおられる、五ヶ瀬町の皆さんに少しでも知っていただき「ヘぇーそんなものか」と思っていただければと思うわけです。

化石から地球の歴史を読み取る
 さて、先程、私が博士論文でテーマにとりあげたサンゴの化石といいましたけれども、この特定のサンゴでクサリサンゴというのがあります。クサリというのは、あのチェーンですね。自転車のチェーンとかそのクサリなんですが、大きさはサンゴのひとつひとつの直径が1ミリから1.5ミリ〜2ミリという大変小さいものです。だから、石ころの中に入っても、それを知らなければゴミかなぁという程度のちっちゃなものです。

 小さいからといって、価値がないわけではなくって、これをきちんと研究いたしますと、例えば昔の気候、暖かいとか寒いとか。あるいは海流の強さ、もう少し詳しくやればそれが住んでいた海の深さ、そういった事まで分かる。最近、情報化社会という言葉が使われますが、化石というのはそうした過去の、その生物が生きていた時の情報をとりこんだまま、石になっているわけです。

 ただ、彼らに口がない。化石は、何もモノを言わないわけです。だから、その化石を見てそこから何を読みとるか。何を吸みとるかというのは、人間側のしなければいけないもので、それが化石の勉強であり、化石を知ることであり、地球の歴史の一ページを知り、日本列島の成立の一行を読みとることなんです。だから、この化石が日本列島の一番基本になった所にいたのかという考えが、少しでもわいてくるということは、これは素晴らしいことで、人間ならではの仕事なんです。

 何も語ってくれないとこから読みとる。こういう楽しい大自然を相手の、しかも、遠い遠い過去の世界を歴史を物語ってくれる語り部を、この町の中心に持っているということなんです。どの位、古いかというと、先程のご紹介で4億3千万年前という数字が出てきました。これは数字で言えば、このころは、数の多い予算規模ですし、3億円、5億円というのは犯罪にまで登場してくる位ですから、億という単位は特に珍しいことではありませんし、我々人間、日本に1億人という数で住んでいますが、年数で1億というのは、なかなか理解しにくいものです。

 お父さんの代から、おじいさんの代から、ウーンとたどっていって、天の岩戸の代まで逆あがったってしれているわけです。まぁ、2〜3千年というとこがいいとこです。でも2〜3千年というのは、2の下に0がたった三つしかくっつかない。億というのは八っつもつかなきゃいけないんです。これは、大変な時間でして、順々に名前をあげていって、何々じいさんと言っても、億の単位まであげていくには人生、延びて50年、いや、昔50年といって、今、仮にきりよく100年としても何代かかるかというと、まぁ、100歳で子供を産むわけじゃありませんから、億の単位をするには、ちょうどその半分で50歳で、あるいは25歳で、それの4分の1の年数であると、4倍の世代がかかる。大変な数です。

 例えば、1億年のためには、1千万の1千万代の千倍、4千万代の人間の語り継ぎが必要なわけです。でも人間はそんなに古くありません。せいぜい200万年程度しか生きていませんから、そこから先は、何になったかというと、段々、下等な生物になって、この祇園山が誕生した時は、人類はもちろんおりません。極めて原始的な、お魚の類しかいませんでした。陸上には、生物はいませんでしたから、専ら海の中でサンゴとか、これからご紹介するサンヨウチュウとか、あるいは腕足類という、今の私たちが知っているハマグリとか、アサリとか、そういう貝とは、また違うもう一つの原始的な貝の仲間が、全盛を極めていたわけです。

 その世界というのは、私たちが今想像できる、あるいは今、南方の海で、熱帯の海で、サンゴ礁で見ることができる世界とは違った世界です。だから、その世界を復元してみるということは、一種のロマンというんでしょうか。夢のような話でして、なかなか具体性がつかめず、年数が古くて、よくわからずという、はるか遠い彼方にあるようですが、実際にモノとしては、石ころとしてあるわけですから、その石ころを見て、石ころを勉強していくなかで、その遠い世界が、そこに浮かび上がってくるという、風になればと私は思っているわけです。

 その糸口として、私はクサリサンゴを取り上げたんですが、その化石の研究で分かった4つほどの、おもしろいトピックスをご紹介して、「日本列島の誕生と祇園山」というお話にしたいと思っています。

1930年代岩手県北上山地でクサリサンゴ発見
 大変、不思議な事がいっぱい出てきました。それは何かというと、クサリサンゴというもので、日本では、私が勉強を始める前に2種類知られていたんです。それは、どこからかというと岩手県北上地方。ここも最近は、過疎に悩んだりしている部分も有るようですが、やはり山の中です。1930年代、昭和の一けたの時代に東北大学の先生が、そこを調査なさっている時に、もう疲れまして、夏だったそうですけど、ある沢の中でどっかり腰を下ろして、お弁当を食べようとした。

 大学の先生というのは、昔から、そんなものだと思うんですが、石ころを勉強していますと、ご飯を食べているときも、おちおちと食べなくて、その辺りの石ころが目につくものらしいんです。お弁当を食べながら、ヒョイと足元の石に目をやったところ、川の水で濡れた石の中に、パッと模様が見えたとおっしゃるんです。この方はまだ、ご存命でいらっしゃいますんで、直接、お話を伺ったんですが「アッ!!」と思ったそうです。

 それは、教室でドイツの教科書で世界のシルル紀という、当時は3億年位前と言われたんですが、3億年前から4億年前、昔の化石というのは、これが標準的であると、これが出たらこの時代だと決まるという非常に重要な化石だということが頭にあった。見たことはないわけです。それが「あるではないか。」と言うので、もう弁当どころか、それを持って跳んで帰って教授室のドアをノックした。「うん、入りたまえ」というようなことだったらしいんです。入って、その化石を目の前に差し出したら、一瞬、言葉が出なかった。

 しばらくして、「そうだ」とおっしゃったのが、日本列島のここ祇園山と同じ年代の最初の発見でした。1930年代のことです。奇しくも、私の年代と同じ位です。そこで、2種類、その大先生が報告なさったのが始まりでありまして、それ以来、ずっと見つからなかった。

1940年代高知県でも発見
 1940年代に、今度は私の先生である小林先生という方が、四国の河原で発見された。「四国にもあるのではないか。」というので、名前はあるいはご存じかもしれませんが、高知県の横倉山です。

 仁徳陵が置かれている史跡で名が通っています。石炭岩で、できていますからちょうど、ここの祇園山を見ているのと同じように、ノコギリのギザギザした山です。伝説の山です。それがありまして、そこで化石が見つかりまして、それを九州大学の先生が調査なさいました。そして、そこに入っている化石は、北上地方と同じであるとおっしゃったわけです。

 北上地方で見つかった化石には、クサリサンゴの上に北上という名前を記念に付けまして、キタカミクサリサンゴと言います。そのキタカミクサリサンゴが四国でも見つかったというので、当時、学会では非常にビックリしたニュースだったんです。

1950年代祇園山で発見
 ところが、それからしばらくしまして、1950年代に入りまして先程、神戸先生がここを調査なさって地質図というのをお作りになった時に、祇園山にもそれが出るということをおっしゃったんですが、これも、キタカミエーシスなんです。「何だ。北上というのは、九州まであるのか。」という事になりまして、これはおもしろい事ですね。サンゴというのは海の中に住んでいますけれども、動けない。くっついている。イソギンチャクの親戚ですからくっついている。

 そうすると、地域、地域の特性が強くて、北上地方には北上のものがあって、四国には四国のもの、九州には九州のものがあってもいいではないかというのが、それまでの考えだった。ところが、どう詳しく調べても北上のと同じであることになった。これは不思議なことなんです。それどころか、神戸先生から資料をいただきまして、私が5年間に研究した結果、なんとクサリサンゴの種類が、5種類、6種類と増えてきたんです。

北上と四国と祇園山のクサリサンゴ
 この祇園だけじゃなくて、今申し上げました北上と四国と祇園山を合わせて、私は、日本中のクサリサンゴ集め、そして幸いにして環境が東京大学で、恵まれていますから、世界中のクサリサンゴの仲間を比較して分かった事は、北上と四国と九州が共通しているという事は、同じ地域であって、しかも同じ時代であるという事です。

 つまり、この祇園山というものは北上、四国、九州と並んで日本列島で一番古くて、一番初期の島をつくった時に生きていた化石なんだという事が分かった以外に、どうしても研究してこれ以外にないという答えが出てきたのが、中国大陸で見つかっているものと同じ種類が一つある。もう一つは、これは当時、ホントに不思議で仕方がなかったんですけれども、オーストラリアと共通する種類が1種類入っている。不思議で仕様がないわけです。

 オーストラリアというと、今では飛行機が発達していますが、ジェット機で10時間、もっとかかりますか。12時間位かかりますかね。運賃にしても大変な、お値段かかりますが南半球の大陸です。北半球の日本とは、本当に縁遠い所ですが、こことどうしても、どう考えても共通しているものが見つかった。その時、私はちょうど博士論文の時期ですから、なにかそれに理屈をつけなきゃならないわけです。

サンゴの化石が移動した
 そこで、サンゴというのは、従来考えられているよりは、もっと適応する力が強くて、環境、例えば、気候とか海流とかというものが同じであったら、同じである可能性が強いんだという事を言って、お茶を濁した形になりました。でも、具体的になぜ、中国と日本とオーストラリアとが共通しているかという事に、よく意味が分からなかったわけです。今から、ともかく長い遠い遠い昔の話です。

 ところが、世の中が変わってまいりまして、私が大学院を終わりまして、教養学部に勤めて助手を10年近く、助教授を10年弱やって教授になった頃から、世界は極めて激動の時代に入りました。それは何かというと、政治的なことではなくて、地球の歴史の考え方に激動が起こりました。それは、動かざる事大地のごとしと、我々が習ってきた大地は、地震ではもちろん動きますが、そんな動きではなくて、ゆっくりゆっくりですが地球上をはい回っていると言うんです。

 そんなバカな事があるかということです。私が大学院を終わる頃のおもしろいエピソードがあります。こういう学説を出した、今で言うと先見の明のある学者の説が出た時に、ある日本の大先生は、「冗談じゃない。俺は生理的に、そういうのは大嫌いだ。」「そういう考えは嫌いだ。」「大地が動くなんて、冗談じゃない。」とおっしゃったという話が伝わっているくらいなんです。

1億年で1万キロ
 ところが、地球物理学だとか、衛生を飛ばして観測をするとか、最近のようにレーザー光線を使って、遠い星とハワイと日本との間の距離を測るという風にしてみますと、驚くべきことに、日本列島自身も世界の各地も動き回っているんです。その速さは、年間、数センチですが、これは大きな値です。我々、じっとしているようですが、実は年中ふらついているということであります。

 年間、数センチですが考えてみるとすごいんです。年間仮に1センチであっても、1億年たったら1億センチです。1億センチというのは1万キロです。太平洋の幅というのは、そんなものです。だから大陸というのは、太平洋位の距離を1億年かければ、動いてしまうという事になるわけです。「ホントかな?」「まゆツバじゃないか」と思われるかも知れません。ところが、それの証明というものは、地球物理学の方で、できてきたんですけど実感がわかないわけです。つまり計算だとか、何か測定しまして答えが出ても実感がわかない。

 そこで、何か、それを目で見てわかる証拠で、例えば、あそこにあったものが、居間、ここにあるんだという証拠がほしいとみんなが思ったわけです。なかなかうまくいかない。が、幸いなことに、最近、それがはっきしてきました。その一つが祇園山なんです。

オーストラリアにも同一種
 どうなっているか。オーストラリアと共通であったサンゴの種類があります。これは、大変、おもしろいことなんですが、私は学会の研究発表で、オーストラリアに行っておりました。今から7、8年前です。そのときに私のことをよく知らない現地のオーストラリア人が、「君、きょうはおもしろい所に案内してあげるよ」と言うんです。

 で、車で山の上に上っちゃった。石が出てるんです。石灰岩が出てるわけです。 「ウン、ウン、これは化石が出る所だな。」とわかったんですが、「ちょっと見てごらん、ここにおもしろい化石があるんだ。」と見せられたのが、クサリサンゴなんです。しかも、そのクサリサンゴというのは、キタカミクサリサンゴと同じ仲間で、実は私が博士論文のときに、これは北上クサリサンゴという新しい種類で、従来、知られている分類ではない非常に変わったものだと新しい分類を提案したんです。案内してくれた若い人は、そのことを知らないわけです。

 知らないんだけど、その実物の所に私を連れていって、その男が「このサンゴはネ、実は非常に珍しくってネ。」ということを一生懸命に私に説明してくれるんです。彼は、私がそれを書いたってことを全然知らないわけです。それで、私はおかしくなったんですが、その時に感激したのは、私は錯覚を起こしたんです。まるで、大学院のときに、この祇園山の裏で、大石の日なたの昔の石切り場の所でコツコツとサンゴのかけらを切り取っていた時と同じ雰囲気なんです。

 なぜならば、石の色が同じで、ご承知のように役場の入り口に置いてある、赤い斑点が入って、凸凹とした石は、化石を沢山含んでいる石なんですが、それと同じものが、オーストラリアにあるんです。入っているものが同じなんです。化石が同じなんですネ。で、私はイタズラっぽいものですから、それを日本に採って帰って、学生に北上の石と、四国の石と、祇園山の石と、オーストラリアの石の四つを並べたら、誰も区別できない。全く区別できない。

太平洋の周りが一か所に集まっていた
 専門的に見ても区別できないはずです。同じ種類なんです。同じ石なんです。しかも、時代が同じときている。それがわかったのが今から10年近く前です。それでもまだ謎だったんです。今は、そのことがもっといろんな面で、例えば、サンヨウチュウであるとか、腕足類であるとか、わかってきたし、今、申し上げた私が新しく提唱したサンゴの仲間というのは、オーストラリアと日本で共通だけじゃなくて、インドネシア、ヒマラヤ、そして、ずうっと奥へ入って、今、シルクロードで盛んにいわれているタシケントという中国とソ連のちょうど境にある、領地としてはソ連ですが、そこまでずうっと広がっている。みんな同じなんです。これは、実に不思議なことなんです。

 東南アジアに行きますと、メコン川という河があります。これは黄河、揚子江、メコン川というのは三大河川で、みんな違うところに流れていますが、源流は同じなんです。今度、NHKで黄河の源流なんかやってますが同じとこなんです。ほとんど、100キロと離れていないところから流れ下っていますが、それの一本のメコン川の下流に、ある沢がありまして、そこを調査して歩いていたら、今度は北上の山のなかにいるのと同じ錯覚を起こす。石が同じなんです。こんな不思議なことがあるかと思っていましたら、極最近、アメリカの学者がとんでもないSFみたいな事を言い始めました。日本、中国大陸、オーストラリア、しかも、こともあろうに南米のチリ、北アメリカのオレゴン州とか、ワシントン州という地域、つまり太平洋の周り全部、それが一か所に集まっていた時期があるんです。

 何処にあったか。太平洋のある場所に一つの塊であった。それが大陸移動のためにバラバラになって、あちこちに散ってしまって、今、離れ離れになっていますが、元はひとつなんだと。この説明、説得力があるんです。

パシフィカ大陸のヒントが祇園山
 そんなこと、誰も見た事無いんですが、何しろ、共通しているものがあるという事で、それの否定の仕様がない。そういう、謎解きのようなことがおこりました。これをPasifika(パシフィカ)、つまりパシフィック、太平洋というんです。太平洋の夢の島パシフィカ大陸と呼んだわけです。だから、日本列島というのは、パシフィカ大陸の一部分ですね。中国大陸と一緒であった頃の一部分。バラバラになった一部分。これには、もう一つ証拠がほしいわけです。太平洋のどこにあったか。どっかにあった。そのヒントが祇園山から出てるわけです。

 後で、ご覧いただきますが、そこに置いてあるサンゴの化石の中に、どれを見ても成長のシマ模様がない。皆さん、木材の年輪をご存知ですネ。年輪があるというのは季節の変化があるからです。夏型、冬型という風にして疎密の疎の部分、密の部分が繰り返していくから年輪ができる。熱帯地方の木材、ラワン材には年輪がないですネ。ブワーッと年中、太っているわけです。年輪がない。

 祇園山のサンゴはブワーッと太ってしまりがないわけです。年輪がない。これは熱帯である証拠なんです。だから、九州島の発祥の地であっても、今のこの九州のこの位置で発祥していたら、当然ここは温帯地方ですから季節変化がある。年輪が必ずできなきゃいけないわけです。それがない。

 つまり、南方にあったんです。もし、赤道地方からここまで来るとすると短くても3、000キロ、長くて4、000キロ、斜めに来れば5、000キロになります。年に1センチ動いても大したことはないですネ。5億年あれば来ちゃうわけです。いえ、5、000万年で来てしまう。これはどこを通って来るかとか、どんな向きに動くかということで随分、変わります。ともかく、数億年あれば、十分、やって来れる。

太平洋のヘソはガラパゴス島
 さらに、新しい証拠が集まりました。大陸だけが動いているんじゃなくて、海底も全部、動いているってことが、ますます、はっきりしてきました。そして、どうやって動いているかというと、太平洋というのは、一枚板の海底ではなくて、二枚に分かれている。どこで、分かれているか。有名なガラパゴスという島があります。恐竜の子孫だというような海トカゲなんかいます火山島です。この火山島が実は、太平洋のおヘソなんです。今、東太平洋、もう、ほとんど南米大陸のすぐそばにありますが、これが太平洋のおヘソで、そこを中心にして太平洋というのが、東西に分かれて、両側へ。そこで新しく太平洋の底ができているっていうんです。

 これは、驚くべきことなんですが、まちがいないことなんです。その割れ目というのは、一か所ではなくて、長い縦の割れ目なんですが、その割れ目はどこに続くかといいますとアメリカ大陸の中に入って、ロサンゼルスの下を通って、サンフランシスコへ貫け、アラスカまでいく有名な地震帯があります。そこなんです。だから、アメリカ大陸というのは、大変、奇妙なんですが、広がっていく太平洋の割れ口の上に乗っかっている大陸なんです。変な話ですけどそうなんです。

 では、太平洋ってどうなっているかというと、西半分だけは、きれいに造られた分だけ広がっていって、西へ西へと動いていっている。ところが、造られている東半分というのは、今度は、大西洋から動いていまして、大西洋の方が新しく分かれてきたものですから、その大西洋の勢いに押されて、アメリカ大陸が全部、西の方へ動いている。ヨーロッパ大陸は、東へ動いている。

太平洋の広さは2億年分
 だから、東へ向かっている太平洋の東半分と西へ動いている大西洋の割れた半分のアメリカ大陸がぶつかって、重なっている。アメリカ大陸は上にあって、太平洋が下へ入って、そして、それどころか、太平洋ができていくその上へ、北アメリカがのし上げていく。大変、大ざっぱなんですが、こういうことになるんです。(図1)

 斜線が大陸です。アジア大陸とアメリカ大陸。そして、太平洋というのは、あのようにできているんですが、大西洋ができていく広がりに押されて、太平洋の広がりがアメリカ大陸によって、覆い隠されてしまったんです。こんな変な構造ができてしまった。同じことが実は日本列島で起こっているわけで、日本列島の下に、太平洋が潜り込んでるんです。

 太平洋の底というのは、日本列島の地下に折りたたまれてしまっている。どの位、折りたたまっているか。日本列島で一番古い地質時代は、4億6千万〜8千万年位前なんですネ。祇園山が4億3千万年前ですから、それより、ちょっと古い所が一か所だけあります。でも、それは、あまりはっきりしてないので、私の考えでは、4億数千万年というのは、どこでも同じ日本列島の古さだと思います。つまり、太平洋の4億年分が完全に日本列島の下に、4億年、昔は、全部、潜り込んでいて、今の太平洋は、この潜ろうとしている部分が2億年なんです。太平洋の広さというのは、2億年分の広さがある。

1億年前に顔を出した祇園山
 太平洋の歴史は2億年、日本列島の歴史が4億数千万年、ひき算をしますと2億数千万年分が消えてしまった。どこへ消えたか。日本列島の下、しかも、本州、四国、九州の外側の日本海とは違う側の地下に潜っている。潜った部分がその後の地殻変動で下から盛り上がってきて、顔を出したのが祇園山であり、横倉山であり、北上山地なんです。

 だから、九州島誕生というよりは、日本列島が最初にあった。どこかにあったんです。そのパシフィカというどこかにあった、その時代にあった島が太平洋が広がっていくにつれて、海底といっしょに動いていって、そして、アジア大陸の端っこにぶつかって、潜り込んでしまった。

 だから、一度は、この祇園山は地中深くに入っちゃったんです。ウーンと深く入って、地球の中でいろんな熱とか圧力で、押し合い、へし合いされていたのが今から、勘定しやすくしますと1億年位前にポッコリと顔を出してくるんです。それが、まあ、正直なところ九州島の誕生なんです。だから、九州が生まれて形ができたのは、1億年位の頃からなんです。

 それまでは、形をなしてなくて、どんなかというと、アジア大陸の東の端のグジャ、グジャ地層が落ち込んでいるクズかごのようなものです。いろんな物の寄せ集めになって入っている。それが1億年の頃の地殻変動で形を造っていく。それの中心が祇園山だったんです。四国の横倉山だったんです。北上山地だったんですネ。

 それを中心にして、今の日本列島が、だんだん成長していく。その成長の歴史が、この付近ですと、例えば、フズリナが出る石灰岩があったり、貝殻が出る石灰岩があったりして、だんだん地層が若くなっていきます。それは、この祇園山の地層を中心にして、日本列島が育っていく過程なんです。ということは、まさに、日本列島の発祥の地は、日本列島というか、日本の基を造ったのは、このパシフィカであり、その親戚は、今は、世界中にばらまかれてしまった。そして、日本列島は太平洋の2億年の広がりをもった先にたたみ込まれた。2億数千万年の一番古い部分がひょっこりと顔を出してきたのが、祇園山であるという風に理解していただければいいわけです。

 だからこそ、私が大学院の時に勉強したクサリサンゴがオーストラリアのと全く同じであるというのは、実は、そのパシフィカというのは、オーストラリアと同じ地域にあったんです。同じ、地続きであったかどうかは別としまして、その近くを同じような海流が流れていましたから、サンゴはおそらく、その周りでは、ほとんど同じだったんだろうと思います。中国大陸もそうだったわけです。

 この30年間、私が勉強してきた間に、ガラガラッと音をたてて、地球の歴史の考え方が変わってきました。そして、今は大地ほど動きやすいものはない。大地は動くものである。大地こそホントに動いているもので、地球の表面を常に新しく、造りかえていくものなんだ。その中で古い歴史が折りたたまれて、出てきて、あちこちにその歴史を語ってくれるんだということになります。

祇園山は化石だらけ
 こういうバカでかい話っていうんでしょうか。ホントかウソかわからないようなことは、たったひとかけらのあの石灰岩の中の、杉林があって、椎茸が生えていて、その上に転がっている石ころが、何気なく足元にあって、蹴飛ばして歩いている石ころが、そういうことを語ってくれるわけです。でも、これはちょっと熟練を要します。

 何も知らないで、石を見て『ウン、これは太平洋の歴史だ。』なんてことを言ったら、おかしいと思われるでしょう。やはり、それは、それなり人間の知恵ですから学校の先生とかに、ちゃんと教えてもらって、これはどういう化石だよ。どんな所に生きてたもんだよ。ということがわかってきますと、だんだん、その石に親しみがわいてきて、しかも、ここに出てくる石はただの石ではない。すばらしいものなんだ。歴史を語ってくれる。しかも、日本列島の、核となったんだ。それも太平洋のある部分で、オーストラリアと隣同士だったんだそうだということがわかるというのは、ものすごいことです。

 これは、極めつきのお世辞でありますけれども、本当にそう思うんですが、北上地方は、もう化石は採れません。これは、日本のちょっと残念な状態なんですが、天然記念物に指定されたとたんに、採り尽くされてしまいました。皮肉な話です。『貴重なものだ。』って言われると、みんなワーッと行くわけです。それでみんな盗っていっちゃう。

 あわてて、金網を張りました。もう中には何もないんです。でも、『これは、天然記念物』って柱が立って、金網が張ってありました。行ったって金網しか見えません。記念に写真を写すと金網が写っちゃうんです。これじゃあ、生きた教育にならないんです。

 四国・・・・。みんな化石を採りきて、持っていってしまったから、今はもう石のかけらだらけになってしまった。ここも非常に採りにくくなりました。

 祇園山・・・・。どこへ行ってもゴロゴロしてます。化石だらけです。だから、私、個人では、天然記念物なんてものに指定しなくって、あるいは、指定しても、どうぞ、皆さん、ご覧ください。どうぞお持ち帰りくださいってやっても十分なだけ、たくさんあります。ものすごい量です。ともかく、ひと山といっても、岩全体が化石じゃなくて、その中に、いくつか散らばっているんですが、それにしても大変な量です。

 といって、もちろん化石を採るために、いろんな所にご迷惑がかかるわけです。歩き回ったり、椎茸の中を歩いたり、倒したり、石ころを上から落としたりっていう被害がもちろんゼロではありません。それは、それなりに対策を講じることができるわけなんです。

「五ケ瀬町の石」へ
 私がこの祇園山を見て感じることは、この豊富な歴史の記録を十分に、ホントに生かす、つまり、囲ってしまって人に見せないとか、もう絶対、手を触れさせないなんていうことではなくって、みんなに見てもらって五ヶ瀬町のシンボルなんだと。きれいなシンボルの花がありますから、シンボルの石なんていいんじゃないですか。『町の石』なんてないですかネ。

 みんなが家、一軒に一つ位ずつは、その化石を持っていて、お客さんが来れば『これは、こういうことなんですよ。』と語ることのできるような、自慢ができるような、そういう親しみがあって、ごく普通にあって、この五ヶ瀬町に存在する祇園山として、日本列島の歴史をしょっているという自信を、皆さんがもっていただければ、こんなに幸せな所はない。しかも、それをできる条件があるんです。今、そういう風に非常に強く感じてます。

 昨日も着いてすぐに、久しぶりに山へ入って、化石をじっくり見てきました。また、きょう、これが終わってから調べに行くつもりなんで、こんな汚い格好のまま壇上に上がりました。

 本当に私は恵まれている。それ以上に・・・・と言ったら大げさかも知れませんが、皆さんは、ご存知なくても、そういう立派な大地の上に、立派な石の上に住んでおられるということをおわかりいただければと思って、今日、話をしたわけです。

  補足

 あとで化石をご覧いただいたら、その感想もお持ちいただけると思いますが、先程、私は非常にたくさん資料がある。だからみんなに見てもらう。みんなに採ってもらうということが大切だということを申し上げましたが、化石というのは、非常に個性があります。

 ですから、どの化石も採ってみると今のスライドのようにきれいだとは限りません。ですから、私の感じとしては、博物館というんでしょうか。大学にはよく博物館とか、標本室とか置いてありますが、この五ヶ瀬町には誇りにすべき資料を大切に、しかも、わかり易く、どなたが来ても納得していただけるような代表的な化石をひと揃え、役場にでも置いていただく。それがいいんじゃないかと思うんです。そうすれば、皆さん方もよくわかるし、皆さんの次の代も、次の代も子孫に、この山はこういう歴史をもっている。こんなものが出る。

 そのうちに陳列してあるものよりもいいものが見つかったら『こっちの方がいいじゃないか』という話になるわけです。そういう風にして、だんだんとみんなで、地元の大切な資料を育て上げ、そして、いつもオープンにみんなにわかっていただけるようなことができたらと、これが私からのお願いです。

質疑応答
藤田町長・・・・・・・ちょっと質問があります。『九州島発祥の地・祇園山』それから、『日本最古の化石のある山・祇園山』と、こういう言葉を使っても差し支えないものかどうか。

浜田教授・・・・・・・私は大賛成で、両立いたします。つまり、日本列島というのは4つないといかんわけです。そのうちの南の島としての九州島の発祥の地がここです。これと類似したものが大分県にも熊本県にもありますけれども、ほんの一握りのかけらでして、実際、今、行っても、何も採れません。もう、崩れてしまって。

 こんなに立派に山の格好まで全部そろって昔の形が残っているのは、ここだけです。まして、九州発祥の地でありますし、全体からいえば、くどいようですが北上、四国、九州ともう一つ位あってもいいと思います。列島を形つくるという意味では、ここは非常に地の利を得ています。

 日本列島は鎖ですから化石の鎖として、そういう日本列島のバックボーン(背骨)と発祥の地との両方をお使いになったら、一番、よろしいのじゃないかと思います。どうぞご安心ください。