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「鞍岡祇園神楽」

解説

やまめの里
秋本 治

伝承の経緯
 「鞍岡祇園神楽」は、五ケ瀬町鞍岡(昭和31年に町村合併で五ケ瀬町)の「祇園神社」に伝承されているお神楽です。「祇園神社」のご祭神は須佐之男命で、貞観11年(869)山城国八坂郷の祇園神社を勧請したものといわれます。古くは、地域の小集落ごとに行なわれるお祭りにも民家で舞われていました。もっとも盛んに神楽祭りが行われたのは、大石の内地区の「おてんとさん」です。「おてんとさん」とは、天照大神をお祀りした「天津神社」のお祭りをいいます。また、「おてんとさん」のことを「おひまち」とも言いますが、お社に「お籠り」して日の出を迎える「お日待ち神事」です。

 毎年旧暦10月14日の満月の前夜に行われていました。それぞれ、その年に収穫した自慢の農産物をお供えしましたのでお祭りはまるで産業祭のようでした。境内には夜店が立ち並び、月光の中で草相撲があり、夜を徹して神楽33番が舞い通され、村人や近隣の村々から集う老若男女で賑わっていました。満月の夜は生きとし生けるものは皆ハイテンションになるといわれますが、夜祭り特有の雰囲気がありロマン漂うお祭りでした。近年は、11月中旬の土曜日の夜に行なわれるようになりましたが、今でも33番の神楽が舞い通されています。

神楽の舞台
 神楽の舞台となる「神庭」は、舞台の一角に幕を引いて幕の前に岩戸と榊を立てて天岩戸を定めます。天岩戸が東の座となって東西南北の方位が決まり、その四方に七五三の下がりをつけた注連縄(しめなわ)を張り巡らします。「注連引けばー、ここも高天原なるぞー、集い給え四方の神々ー。」と神楽唄にありますが、注連縄を引いたその中は神聖な場所と見なされて神庭となります。

 天岩戸は、天照大神がお隠れになった神話の場所で、古事記に「かれ是に天照大神かしこみて、天の岩戸にさしこもりましき。ここに高天原皆闇く、葦原の中ツ国悉に闇し。」と書かれているところの場面です。「八百万(やおよろず)の神々が神集いに集い給い、神儀りに儀り給いて、常世の長鳴鳥を鳴かしめ、天の真榊を根こじにこじて、笛太鼓手拍子よろしく、天の宇受賣命が伏せ桶を踏みとどろこし、小竹葉(ささば)を打ち振り神懸かりして、胸乳をかきいだし調子面白く舞い給えば、天照大神のお怒りを解き給うなり。」という神話が神楽起源とされる場所になります。

神楽の構成
 神楽は、麻苧で編んだ舞衣(まいぎぬ)、狩衣(かりぎぬ)、千早などをまとい、烏帽子(えぼうし)、天冠、毛笠などを冠り、命(みこと)づけの神面(おもて)などを着け、鉢巻や襷を掛けたりして、手には扇、鈴、太刀、鞭、御供鉢、幣などを採って舞います。所謂「採物神楽」と呼ばれる古典的な舞です。

 舞いは、東の座に向うことから始まりますが、一人舞いの場合は西の座から東の座へ、次いで南の座から北の座へと定められた足を踏みながら移ってそれぞれの座で所作を行ないます。また、二人以上で舞う舞いは、定められた足を踏みながら東の座と西の座に分かれて向かい合って所作を行い、次に南の座と北の座で向かい合い、最後に下の並び(西の座)上の並び(東の座)と並んで所作を繰り返します。このように東西南北それぞれに所作を行なうことを四方を割るといいますが、これを基本として33番の舞いが構成されています。このため演劇風な要素を取りいれる余地が少ないので、古来の形そのままを伝承されているといえます。

 神楽を舞う人のことを舞子と呼びますが、舞子は神楽を舞う時にそれぞれ神の命付(みことづけ)がなされます。すなわち、手力男の命、天照大神、須佐之男命などなど、いろいろな神の身代わりとなって舞います。命付により、舞いはその神を表現することになり、舞いの意味が深くなってきます。「神楽は、神の身代わりをなし、神を慰めるもので、礼儀を重んじ厳粛の中にもまた賑やかでなければならない」とされております。

 奏楽は、笛、太鼓、撥、手拍子(シンバル風のもの)の4人により奏します。当地の神楽は六調子が主体となります。神楽笛は、シノダケの一節を切り取って指で寸法を測りながら穴を開けてつくります。太鼓は締太鼓と呼び、山の木をくりぬいて鹿の皮をなめして貼り付けます。笛も太鼓も生きた楽器で、焼酎を吹きかけたり、卵の黄身を塗り込んだりしながら使い込んでいくわけですが、作り方のマニュアルもなく全て口伝で伝承されています。

 お神楽33番は、夜を徹して舞いながらしだいに夜明けが近づくと天岩戸準備の舞となり、朝日の昇る時刻に合わせて、天岩戸から天照大神をお連れするという構成です。太陽の象徴である天照大神は稚児が舞います。太陽は、夏に向かって天高く昇り、万物のものを育て、秋にはしだいに力尽きて低くなっていくと考えたのでしょう。太陽の力の蘇りを願うために天照大神は、未来のエネルギーを秘めた子供が舞うことにしたものと考えられます。

式3番
 「式3番」は「3番神楽」とも呼ばれて神楽の基本とされ、祭礼になくてはならないものです。「式3番」は次のように構成されています。

1番 地神楽
 神楽始めの舞いで4人で舞います。白袴、白足袋、白衣の上に舞衣(まいぎぬ)を着け、烏帽子(えぼうし)を被り、手には扇と鈴を持ちます。
 舞衣は、麻苧で編んだ手作りのものです。当地方では、古来より麻苧が盛んに栽培され、各家庭で機織されていました。麻苧は換金作物としての他、「たなし」と呼ぶ作業着や農作業や狩猟などに必要なロープが作られ、その麻殻は茅葺き屋根の下地として利用され、囲炉裏の焚きつけに使うなど暮らしになくてはならないものでした。
 また、麻の色は神の色として今日でも棟上祝いの吹流しや、神の宿るみてぐらの「幣」に付けられて、麻苧は神聖なものとされています。現在使用している舞衣は、昭和のはじめころまでに奉納されたものです。麻苧の栽培は昭和20年代後半まで続けられました。

 命(みこと)づけは、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、神直毘神(かむなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の4神です。
 八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おおまがつひのかみ)は、禍いをもつ穢れの神です。神話では、伊邪那美神(いざなみのかみ・女神)を追いかけて黄泉の国に行った伊邪那岐神(いざなぎのかみ・男神)が逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊(みそぎ)をし、中ツ瀬に降りて流れに潜ってすすがれた時、洗い落とされた汚垢(けがれ)から生まれた神です。八十(やそ)とは多くの穢れを指し、大(おお)とは、大きな穢れの意です。
 神直毘神(かむなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)とは、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊(みそぎ)をした時、その禍(まが)を直そうとして生まれた禍(わざわい)を直す神です。
 地神楽は、このようにして穢れの神と穢れを直そうとして現われた神の舞で、神庭を清めるもので「神鎮の舞」として一番はじめに舞われます。また、打ち振る鈴の音は、神の降臨を誘うものといわれています。

2番 場神楽
 この神楽も4人舞いで、採物は、舞衣、毛笠、扇、鈴です。命づけは、大国主命(おおくにぬしのみこと) 事代主神(ことしろぬしのかみ) 少名毘古那神(すくなひこなのかみ) 建御名方神(たけみなかたのかみ)で非常にテンポの早いリズム感に満ちた舞いです。
 大国主命は皇祖神の系譜に入らない出雲神話の神で、天照大神から国土の奉還の命を受けて国譲りをしました。
 事代主神(ことしろぬしのかみ)は知恵の神で、国譲りの時、大国主神は事代主神に神意を伺わせ、その託宣によって国譲りを決定しました。
 少名毘古那神(すくなひこなのかみ)は、大国主神と共に国を経営された神。大国主の大と少名毘古那の少との関係は陰陽にも通じるといわれます。
 建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主神の子で力持ちの神。神話では『建御雷神(たけみかづちのかみ)と力競べをして、建御雷神の手を掴んだ。すると建御雷神の手は氷柱に化し、次いで剣刃に変わった。そして、今度は建御雷神が建御名方神の手を握ると、その手は葦のように柔らかくなってしまった。建御名方神は恐れ驚き慄え上がって「命だけは助け給仕え。この地以外はどこへも行かない。父・大国主神と兄・事代主神の命令や意思には背きません。この豊葦原の中津国は天津神に奉ります」と申された。』とあります。

3番 地荒神
 一人舞いで、千早を着て毛笠を被り、神面を付けて鈴、扇を採って舞います。命づけは、猿田彦神(さるたひこのかみ)。
 神話では、『邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨した時、天之八又(あめのやちまた。八方辻の意)で高天原と下の葦原中津国を照らしている神がいた。天津神は「吾が御子の天降りする道を遮るのは誰か」と問い給えば「吾は国津神なり、猿田彦と申す。天津神の御子が天降りされると聞いたので御先導申し上げようとここまで来た」と答えた。そこで邇邇芸命(ににぎのみこと)は猿田彦神に道案内を命じた。鼻の長さ七咫(ななあた)、背の高さ七尺余、口尻は明るく輝り、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のごとくして照り輝くこと酸醤(ほおづき)に似たり』とあります。このようなことから猿田彦神(さるたひこのかみ)は道案内の神といわれ、高い鼻の赤い面を付けて祭礼の神輿の先導をつとめます。

 以上の3番が、式3番と言われて祭典に舞われる神楽です。神話は、皇祖神の系譜を持つ天津神と皇祖神の系譜以外の国津神に分けられていますが、神楽では、1番で場を清めて神を鎮め、2番で国津神が登場、3番は天津神の降臨を道案内した猿田彦の舞いとなり、その後天津神が登場するように構成されています。
 国津神を縄文系の神、天津神を弥生系の神としてご覧いただければ分かり易いかと存じます。日本神話は、渡来してきた弥生人が縄文人を征服して大和国家を築いたことを伝えたと思われますが、渡来してきたことを天から降りてきたとして大和国家起源を神格化したものであることが伺え、民族学としても興味があります。

 こうしたお神楽は、地域の遺伝子となって日本神話を伝える仕組みが構成されているように見えます。九州山地には多くの神楽があり、地域毎に命づけや楽の調子、舞い方それぞれに違いがあります。神楽の違いは、集落の違いからくるもので、昔、村の最小単位を構成していたコミュニティによって異なります。したがって違うことに意義があるように思えます。
 かつて村の中心となるものはお祭でした。お祭に1日で歩いて集まれる範囲がコミュニティをつくり、村の原点が構成されました。神楽の違いは、地域のアイデンティティとなって住民のスピリッツを形成していたと思われます。


素盞鳴尊の八岐大蛇退治
 この神楽は、9番の「岩くずし」から始まり、13番「酒こし神楽」、22番「八雲舞」に象徴されています。

9番 岩くずし
 2人舞い。白衣に鉢巻を締めて襷、鈴、扇、太刀を採って舞います。この神楽は、酒こし神楽の前に舞われるもので、命づけは、須佐之男神(すさのおのかみ)と須賀八耳神(すがのやつみみのかみ)です。襷の舞いで襷を掛け、次に刀を抜く舞い、そして抜身の刀を持って舞います。悪魔除けの舞いといわれています。
 神楽途中で唱える唱儀に「 3.抑々天神七代、地神五代と申す内、今、出雲の国、築の宮、素盞鳴尊八岐の大蛇を退治給うこれなり。4.さあれば尾の中に一つの剣あり其の剣、大神宮に納め奉る草那伎の宝剣これなり。5.此の剣、今尾張の国熱田神宮に納め奉る物これなり。―」などとありますので、素盞鳴尊が八岐の大蛇退治を表現する準備の舞いであることがわかります。

13番 酒こし神楽
 この神楽は、二人舞いで、千早と着物を着て襷を掛け、手拭いを被って、毛笠、神面を付け、手には桶、ショウケ(ざる)、杵、碗などを採って舞います。
 命づけは、足名椎神(あしなづちのかみ) と手名椎神(てなづちのかみ)です。高千穂地方では、酒こしの舞いは、伊邪那美神(いざなみのかみ・女神)と伊邪那岐神(いざなぎのかみ・男神)の国産みの舞いとされていますが当地では足名椎神と手名椎神になっています。
 神話によれば、足名椎神と手名椎神は大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、肥河(ひのかわ)川上の夫婦神です。足名椎神は夫、手名椎神はその妻。8人の娘があり毎年1人づつ八俣大蛇(やまたのおろち)に人身御供(ひとみごくう)を求められていました。
 ある時、須佐之男命(すさのおのみこと)が肥河(ひのかわ)を逆上っていくと足名椎神と手名椎神が娘を囲んで泣いているところへ出合いました。訳を聞けば、最後に残った櫛名田毘賣(くしなだひめ)もやがて捧げなければならないということです。そこで須佐之男命は一計を案じて、足名椎神と手名椎神に八塩折酒(やしおりのさけ)という強い一夜酒を造らせました。その酒を八つの樽に注いで八俣大蛇が出て来るのを待ちます。やがて酒好きの八俣大蛇が出てきて八つの頭を八つの樽に突っ込んで酒を飲みはじめます。そこで、八俣大蛇が酔ったところを見計らって須佐之男命は、剣を抜き八俣大蛇を退治しました。神話のストーリーでは、退治した八俣大蛇の体内から日本尊命(やまとたけるのみこと)の草薙の剣が出てくることになります。八俣大蛇退治の場面は22番の八雲舞にあります。
 このように神話の中で最初に酒造りのお話がでてくる場面は、この足名椎神と手名椎神ですので、ある意味では神話に沿った神楽と言えるかも知れません。
 当地方の神楽は演劇風要素が少なく、単調で古典的な採物神楽ですが、唯一、酒こし神楽には演劇風要素が採り入れられており、四方を割りながら楽に合わせて面白可笑しく舞うことになっています。酒を造って八俣大蛇を退治できるという喜びに満ちた舞いですが、夜神楽で深夜になると眠気を催すので座を賑やかにして目覚めを促す意味もあるということです。

22番 八雲舞
 八俣大蛇退治の舞です。命付けは、須佐之男命(すさのおのみこと)稲田毘賣神(いなだひめのかみ)足名椎神(あしなづちのかみ)手名椎神(てなづちのかみ)の4神で、舞衣、千早、毛笠、神面、鈴、扇、太刀、大幣、襷などを採って舞います。
 この神楽は、酒こし神楽についで多少演劇風な要素を持ちます。先ず、ワラ細工で八俣大蛇に見立てた蛇のつくりものを準備してからはじめます。
 足名椎神(あしなづちのかみ)手名椎神(てなづちのかみ)の舞いのなかで稲田毘賣神(いなだひめのかみ)がおどろおどろとしているところに、須佐之男命(すさのおのみこと)が登場して剣を抜いて大蛇を退治します。そして大蛇の下に隠していた草薙の剣を取り出して高く掲げる舞です。


天岩戸
 天岩戸の場面は、24番の伊勢神楽から始まり32番まで続きます。その内の代表的なものを記します。

26番 宇受賣舞
 天照大神を天岩戸からお迎えする準備の舞いで、命付けは天宇受賣命(あめのうづめのみこと)。狩衣に神面を付けて天冠を被り、背中に幣を立て、大幣と鈴を採って舞います。「笛太鼓手拍子よろしく、天の宇受賣命が伏せ桶を踏みとどろこし、小竹葉(ささば)を打ち振り神懸かりして、胸乳をかきいだし調子面白く舞い給えば、天照大神のお怒りを解き給うなり。」という神話にあるところの神楽起源の舞とされています。
 偉大な天照大神に近づきますので神の宿るみてぐらの幣も大幣という大きな幣になり、天冠を冠ります。舞は、立幣、横幣、かたげ幣(担ぐ)で、幣を主にした所作をおこし、それぞれ四方を割る舞です。
 天宇受賣命(あめのうづめのみこと)は、女性の神なので内股で足を踏み優しく舞うこととされています。

27番 柴引き
 天岩戸の前の榊を抜く舞で、命付けは手力男命(たじからおのみこと)。千早を着て襷を掛け、毛笠、神面を付け、鞭を採って舞います。鞭は、竹の棒の両端に房をつけたもので、ある時は、測量用具に見立て、ある時は、鍬などの農耕具とみなされます。手力男は力持ちの神で、力強く所作を行うには千早を着て襷を掛けます。千早は、千早ぶるという神にかかる枕詞になります。周りに悪魔がいないか見極めながら、榊に近づいて所作を行ないます。

28番 戸取り
 この神楽は、天岩戸を押し開く舞で、命付けは同じく手力男命(たじからおのみこと)です。柴引きと同じように千早を着て襷を掛け、毛笠、神面を付け、鞭を採って舞います。
 「左手(ゆんで)の扉は、日向の国の阿波岐原に投げ捨て給う。右手(めて)の扉は、戸隠し山に投げ捨て給う。」という勇壮な舞です。

29番 手力(たじから)
 同じく手力男命(たじからおのみこと)の舞ですが、手力男命の力強さを表現した舞で、天照大神に近づくため再び天冠を冠り大幣を採って、立幣、横幣、かたげ幣(担ぐ)という幣を主にした所作をおこしそれぞれ四方を割ります。いよいよ天照大神をお迎えするという喜びの舞でもあるように見えます。

30番 たたら舞、31番由布の舞、32番舞開き
 30番から32番までは、基本的には、別々の舞ですが、普通一般的には3番通しで舞われます。命付けは、手力男命の舞で、狩衣、毛笠、天冠、に神面を付け鈴、襷を採って舞います。
 たたら舞では、襷を手に持って舞います。天岩戸の前にかしずいて楽の調子が変わると由布の舞になり、襷を両手に掛けて舞います。これは、天照大神に対して乱暴はいたしませんという表現です。
 舞開きは、天岩戸の前にかしずいて、つぎの唄を歌うところからはじまります。
1.榊葉はやー、何時の月日に植えそめて。天の岩戸にやー、口を定むる。
2.岩戸出てやー、四方の国地も明らかに。しめくぎ縄のやー、しるしなるらん。
3.うれしさにやー、我はここにて舞遊ぶ。舞い姿ぞやー、開く天の岩戸
4.大神宮のやー、まします道に綾はえて。にしきとはえてやー、神はまします。

「岩戸を出てやー」との歌いのところで天岩戸に見立てた幕の中から天照大神をお供する舞になります。この時、天照大神は稚児が舞います。稚児は神面をつけ天冠を冠り両手に鏡を持って出て参ります。