農文協・現代農業増刊8月号原稿
都市と山村の交流考
2004.07
やまめの里 秋本治
私がヤマメの養殖を始めて40年経ちますが、養殖を通していろんなことを考えさせられました。この間、人工養殖は困難とされたほど野性の強いヤマメが、自然界から離れて生簀の中で人工孵化養殖されることによって、野生的なたくましさがしだいになくなり自然界では生きられない魚になりつつあります。
こうしたヤマメの変化を振返ってみるとき、そこには自然界から離れて快適な都市文明を築いた人間社会の未来が養殖ヤマメと重なって見えるような気がするわけです。
生命は、自然界とともに発生して進化したわけですが、自然界から遠ざかるにしたがって生命力は弱くなり依存性が強く、性質がいびつになる。このようなことを養殖ヤマメは教えてくれたような気がします。
都市と山村の交流について、自然界を体験して学び、自然の食べ物を食べて味の原点を体験することなどは、人間性の回復にとって重要なことではないか、そんなことを述べてみたいと思います。
ブナ帯とヤマメ
私は、「九州ブナ帯文化圏」ということを考えています。九州山地の標高の高いブナ林帯において、長い歴史の中で人々が培ってきた文化や思想を九州のブナ帯文化として捉えたいと思うのです。ブナ帯文化として他の地域といかに違いを作っていくか、そこに本当の顔が見える地域のアイデンティティが育つのではないかと思うわけです。
「やまめの里」は県北・五ヶ瀬町にありますが、ここから宮崎市に行くのは、まるで黄泉の国に行くような気分です。冬、雪の中から車のヒーターをがんがんかけて出て行くと、宮崎はぽかぽかの陽気でフェニックスやワシントンヤシの並木があります。自然の森は冬でも葉の落ちないクスノキなどの常緑樹が生き生きと茂っています。
いっぽう、やまめの里では木の葉は落ちて裸の森です。秋になると山が燃えるように赤や黄色の紅葉に染まり、やがて木々は葉を全部落とし、水を上げるのを止めて冬を迎える。水を上げ続けていれば凍って細胞が破壊されるからです。そして白い雪が森を包む。私たちからみればそうした森が当たり前であって、冬、葉っぱの落ちない森というのは暮らしの中では考えられないわけです。
ブナ帯とは平均気温が六℃から十三℃、雨量が年間千三百ミリ以上の地域とされていますが、平均気温十三℃の地域は、私たちの五ヶ瀬町にあたるわけです。私は標高七百〜八百五十mの集落で暮らしていますが、東北の宮城県の仙台と同じくらいの平均気温で、イヌブナは標高七百m付近から、ブナは千m付近からあります。
日本にブナ林が広がったのはおおよそ一万三千年前、氷河期の終わり頃といわれています。その頃は宮崎平野もブナ林でした。その後、さらに地球が温暖化してブナは標高の高いところへ、そして北の方へと逃げていきました。現在では、南は九州の大隈半島の高隈山の一部、北は北海道の日本海側黒松内町まで分布しています。
以前に、「ブナ北限の里づくり」をしている黒松内町で国際ブナフォーラムがあり、パネリストとして出かけて北限のブナ林を観察しました。北海道にブナが渡ったのは約六千五百年前、地球が急に温暖化して海水面が上昇した、いわゆる縄文海進の頃といわれています。北海道にどうやってブナの実が渡ったのかは、ブナや松の実を食べるホシガラスが運んだとされています。
私がブナに関心を持ちはじめたのもヤマメからです。あるとき、ヤマメが生息する源流域にはブナ林があることに気づきました。ブナ林はヤマメが棲む豊かな水を供給してくれます。そこで、ヤマメやアマゴなど陸封型サケ科の魚の生息分布と日本のブナ林の分布図を重ねてみたら一致したのです。昔、ヤマメがいたが今はいないという地域は、源流のブナ林がなくなった流域です。
ヤマメは冷水魚のため高い水温域では生きていけません。昔は、海に下りていたのですが、地球が温暖化して海水の温度が高くなり、海に下りることができなくなったことから陸封型といわれるわけです。ヤマメの陸封された時代とブナ林の遷移とは同じ時代に違いない、ともに温暖化によって標高のの高いところへ、そして北の方へと移動したに違いないと思いました。
屋久島には素晴らしい原生林がありますがヤマメはいません。屋久島にはブナがないからです。台湾には、標高千五百m付近から台湾ブナがあるということです。調べてみましたら台湾の高山帯にある源流域に「桜花勾吻鮭」(イン、ファ、ゴウ、エン、グエ)と呼ばれるサケ科の淡水魚がいて天然記念物に指定されている。台湾の苗栗縣農村活性化シンポジウムに出かけた時、現地の人に確認したらヤマメでした。
6500年を生き延びた能力
本来のヤマメはじつに野性的で賢い魚です。高気圧が張り出した天気のよい日中はなかなか釣れない。低気圧が近づいてくる時や雨の日には、入れ食いのように釣れることがある。そういう時、釣り上げた魚はキュッキュッと鳴くんです。鳴くという言葉が適切かどうかわかりませんが、キュッキュッと鳴く。こういう時はあまりにも釣れすぎて気味悪くなり、途中で逃げ帰ったなどという話もあります。今ではこんなことはありませんが。
つまり、ヤマメは天候の変化を予知できるのです。台風の前には流されないように小石を飲み込んでいるという話がありますが、それは違うと思う。急いで餌を食べるので小石まで呑み込んでしまうのです。そんな小さな石つぶぐらいで濁流に対処できるはずはない。水かさが増してくる前に、それを予知して餌をいっぱい食べ、流れが緩やかで湧き水などがある安全な場所に移動するのです。台風のとき、濁流の川岸で流れの緩やかな渦をまいているようなところをタモ網で掬うとヤマメが入ってきます。じつはこの天候の変化を予知できるかどうかが問題です。事前に予知して安全地帯に避難できる能力のある種は生き残り、そういう能力のない種は滅びてこの世に存在しないのです。
ヤマメは谷川の奥深くに陸封されてから長い年月、過酷な条件の中で生きてきました。縄文海進のころ陸封されたとしますと今から六千五百年もの間、狭い谷川で、種を保存し続けているわけです。百年に一度、あるいは千年に一度というような大豪雨や大干ばつがある。そんなときは、事前に安全水域に避難し、或いは干上がらない水域に移動している。
子供のころ、谷川でよくヤマメのつかみ取りをして遊んでいました。深い淵のヤマメはなかなか捕まえることができません。そこで、淵を造っている石や流木をこじ開けて淵の水位を下げ、ものかげに隠れて水面をのぞいていると、岩陰深く隠れている大きなヤマメが「あれっおかしいな」という表情を見せながらそっーと出てくるのです。
谷川では、大渇水になると、ちょろちょろの小さな水量に変わる。するとそこに水鳥だけではなくイタチやタヌキなどいろんな獣まで、手が届くヤマメをねらってくる。そこで、水面にかすかな動物の気配を感じたら、サッと矢のようにひらめいて岩陰の奥深くに逃げ込む。そういう隠れる場所を背にして暮らしている。それができない種は滅んでいる。外敵に対してもとても敏感になったのです。
“過密”が餌付けを可能にした
最初は、ヤマメを釣って池に集め、いろんな餌を工夫して与えてみましたがまったく食べてくれません。自然界のヤマメは生きた餌でなければ食べないのです。これが最初の養殖の壁です。そこで、今度は産卵期に生け捕って人工孵化を試みることにしました。孵化稚魚からの餌付けです。ところが、産卵期になると成熟したヤマメは釣れません。産卵が近づいた魚は餌を摂らないのです。どうしたものかと夜の谷川へ出かけてみました。すると、日中は岩陰に隠れているヤマメが、流れのない岸辺の浅いところ、水が巻いていて落ち葉などのゴミが溜まっているところに出て集まっているではありませんか。カーバイトの光だと逃げません。そこで、そーっと網を入れると簡単にすくうことができるのです。
夜釣りの経験がヒントです。ヤマメの夜釣りでは、夜の九時ころまでは釣れますが、それ以降は不思議とピタッと食いがとまってしまうのです。これは、夜の九時以降になると場所を移動するためということがわかりました。そこで、産卵期にカンテラを灯してタモ網とビニールの袋を下げて毎晩のように谷川へ入って行きました。村の人びとの白い目を気にしながら、夜の谷川へ一人で入るのはとても恐ろしくてさびしいものでしたが、こうして成熟した親魚を生け捕り採卵しました。
最初の餌付けに成功した餌は、ゆで卵の黄身と牛のレバー、それに脱脂粉乳をふりかけてすり鉢でこねた練り餌でした。脱脂粉乳は餌の粘着性を高めます。餌を食べるようになると当然成長しますが、そこに次の壁がありました。体重が二グラムくらい、体長四〜五センチともなると敏捷に泳ぐようになり、野性的なたくましさがみなぎってきます。すると、人影に驚いて餌を食べなくなったのです。水槽をのぞくと逃げまわりゴトゴトと音を立てて壁にぶつかり弱ってしまいます。
やはりヤマメは養殖できない魚かも知れない。そんな不安が頭をよぎりました。それでも、一つの水槽だけはなんとか餌を食べてくれるのがいました。なぜだろうと注意深く何が違うのか観察しました。最初は、棺おけのような木製の水槽六つを造り、そこで飼っていました。その水槽は、同じ大きさで水量も同じ、光線の具合も同じです。しかし、よく見ると魚の数が違うことに気づいたのです。ヤマメの密度が高い水槽では餌を食べ続ける。密集させると逃げようとしないことがわかりました。人間世界でも赤信号みんなで渡れば怖くないなんて言いますが、過密では明らかに性質に変化が現れます。
その後、大量の餌が必要となったので、傍らの水槽でニジマスを飼い、卵の黄身の代わりにニジマスをチョッパーですり潰して、それにニジマス用の配合飼料の粉末を少量づつ加えていき、しだいにその割合を増やして馴らしていったのです。そして、四代目になると大きな変化がありました。生餌ではなくて配合飼料の硬いペレットを群がって食べるようになったのです。こうして養殖が楽な魚に変っていきました。
野鳥はヒナが育つ時、餌の捕り方まで教えますが、ヤマメは産卵した後は子どもとも対面できません。このため親の生活史が卵にしっかり遺伝情報として書き込まれるのでしょう、人工の餌を食べていればその稚魚もそっくりそれを引き継いでいるのです。
産卵行動、そして卵にも変化
ヤマメの成熟には光が大きく作用します。日照時間が短くなるにつれて成熟していくのです。秋に雨が多くて日照時間が短い年は産卵期も早くなります。そして、オスはメスより十日ほど早く成熟し、産卵に参加できないまま死んでいくのが多い。そこで、養殖ではオスだけを選別して産卵の一月前に二週間位夜間に電照します。するとメスの成熟と同じ時期にオスも成熟するので効率がよくなります。
なぜ、オスの方が早く成熟するのか考えてみました。自然界では産卵期が近づくと瀬を上ったり下ったりしてペアーを探していますが、オスどうしが出会えばケンカをします。このときは体が白く変化し、いかにも獰猛な顔つきになります。そして猛然と相手に体当たりして激しくかみ合います。弱いオスは傷ついてそこから白い水生菌が付着して広がり、やがて産卵に参加できないまま死んでいく。強いオスが生き残ったところでメスは成熟するのです。これは強い子孫を作るための行動ではないかと思うわけです。ところが、養殖ヤマメはそういう激しい戦いをしなくなりました。生簀でぬくぬく育てられ生存競争がきびしくなくなったからでしょう。いま、川には養殖ヤマメを放流したものばかりです。だから谷川のヤマメもケンカしなくなりました。
ヤマメ養殖の最初は、成熟した親魚からの採卵だけではなく、自然産卵が終わった谷川に入り、産卵した砂の中から卵を取り出すことも試みました。すると百個の卵があったとすると全部がキラッとして生きた卵でありました。なかには砂をかけるとき、無理をしたのでしょうか、一個か二個くらいは白くて死んでいるのもありましたが、ほとんどが生きていました。
ところが、近年の養殖ヤマメは自然産卵力が弱くなってきて、自然産卵した産床を掘り返してみると無性卵が多く、百個の内十個も正常な卵はないくらいです。成熟するとコンクリートの池では産卵行動はまったく起こしませんが、砂のあるところでは産卵行動を起こすようになります。その産卵行動のようすに、かつての野生ヤマメのようなダイナミックさがありません。昔の野生魚は、谷川から遠く離れたところから見ても、キラキラッと光る白い腹をひるがえして砂を叩く力強い産卵行動が見えたものです。地元ではそのさまを「瀬擦り」と呼んでいました。こうした産卵行動が養殖ヤマメは弱くなった。人間が卵を取り出してきたため、本能的なものはあっても遺伝情報に書き込まれなくなったからだと思います。
ニジマスは明治9年に北米から日本に入ってきた魚です。北米での養殖期間も入れると百数十年間人間が人工採卵を続けてきた。ですから、ニジマスの棲息環境に最適の河川に放流してもニジマスは自然産卵できない。放流した固体で終わってしまう。ヤマメもニジマスのようになりつつあるのです。非常に飼いやすくなってきた反面、自然界で生きられない魚を作ってきたのかと思っています。食用魚としての生産は仕方ないことですが、放流用は自然産卵させることが必要になってきた。
ミミズに逃げ出すヤマメ
野性のたくましい能力を持ったヤマメが、養殖を重ねていくとしだいに野性や警戒心がなくなり、天候の変化に関係なく水温によって餌を食べるようになりました。魚は水温が体温ですから水温によって新陳代謝の早さが変わる。温度が半分になると摂餌量も半分になり、成長は二倍の時間がかかる。逆に温度が二倍になると摂餌量も二倍になり成長は半分の時間ですむ。十℃の水温で一日生きたことと一℃の水温で十日生きたことが魚の成長にとっては、ほぼイコールなんです。積算温度の考え方です。もっとも温度には限界がありますが、このように、養殖するにはコントロールし易くなってけっこうですが、自然界で生きていくことができなくなりつつある。本来大好物のはずのミミズを池に放り込んでも逃げてしまうのです。
人工孵化して養殖に取り組んだ頃は、人間が作った配合飼料は食べないし、人が水槽の縁に立っただけで、もう逃げ回ってその日は餌も食べなくなる。そんなヤマメが、いまでは池の縁に人が立つと餌を求めて群がってくるのです。まるで違う性質のヤマメになってきました。ここまで変わるとは思わなかった。信じられないくらいです。
平成十四年、岡山県の西粟倉村、東粟倉村、大原町の3町村合同による「全国源流のむら会議」に出かけたときのことです。パネリストを囲む夜の懇親会で私の隣に座った地元の方が、「国の天然記念物のオオサンショウウオが近年異常に繁殖している」というお話をされました。原因はどうも放流アマゴのせいではないかということになりました。アマゴはヤマメと同じ陸封型の魚で、静岡から大分にかけての太平洋側に注ぐ河川の源流に棲む魚です。近年ヤマメのように養殖が盛んに行われているのですが、その放流アマゴが天然アマゴと違って逃げないので恰好のオオサンショウウオの餌になっている。野生動物は、餌が豊富だと増えてくるのです。
現場からの問題提起
以前、全国湖沼河川養殖研究会で私は三つの問題提起講演をしました。研究会は全国の水産試験場関係者の組織です。まずひとつは、「全国の水産試験場の皆さんが地域固有種を大事に保護され、人工孵化して増殖の研究をされていることは非常に大事なことかも知れませんが、それは自然界で生きられない魚をつくっていることになるのではないでしょうか」と。それは「自然産卵できない魚をつくっては、川に魚を増やすことができないのではないか」ということです。
もう一点は、ヤマメの禁漁期についてです。例年、産卵期の十月から翌年二月末までが北海道を除く全国の大部分の地域において禁漁期に設定されています。これが間違いではないかということです。なぜならば、完熟したヤマメは九月下旬になると餌をとらなくなる。だからその期間は、どんな釣りの名人でも餌を摂らない魚を釣れるはずがない。
反面、三月の解禁では、産卵期にサビたまま冬の冷たい水温で餌もとれずにやせ細って岩陰で冬を越し、三月になって水温が上がってくると、飢餓状態のヤマメは餌に猛然と食らいつく。このとき解禁となるので、入れ食い状態で根こそぎ釣り上げてしまう。しかも、この時のヤマメはサビてやせ細り色も悪く、食べても本来のヤマメの味ではない。それより三月、または三月四月の二カ月間を禁漁にして十分餌を食べさせ、川岸にヤマブキの花が咲く「ヤマメの旬」の頃、丸々肥えて光り輝くようになったヤマメを解禁するのが一番いいのではないかということです。
三番目には、川に魚が住める環境がなくなっている。川底には砂が堆積して水がさらさら流れる程度に埋まってしまい、青々とした淵もなく、ちょっと雨が降ってもどろどろになって濁る。日照りが続けば水量が極端に減少し、空谷となってしまう。全国的に魚が棲めない川になってしまった。
コンクリートの池で、いくら懸命に人工孵化をやって増やしても川に魚が棲めないのでは意味がない。みなさん方、水産関係者からこそ森を直そうという運動が起こらんといけないのではないか。そんなことをお話したのです。質疑の時間になった。だれからも質問がない。「おかしいなあ、反感をもたれたかな」と思っていたら、会の後のパーティになって、東北の試験場の場長さんとかいろんな人がやって来て、「じつは俺も森に原因があると思っている。あの時、もし私が手を挙げて”そうだ”と言ったら、”おまえやってくれ”、ということになる。行政は2番手でないと、先頭切って行動を起こすことは難しい」というお話をされました。
滅菌室へ向かっている?
以前、O−157という大腸菌の問題がありました。O−157という菌は、米国なんかにもともとあった菌といわれますが、日本だけが集団発生しているという。また、東南アジア旅行に行った日本人が赤痢になったという。その国に赤痢情報はないのに日本人だけが発生している。これはなんなのだろうと思うわけです。
ヤマメの病気が全国的に蔓延したのは昭和五十年代です。ギンザケなどを外国から輸入を始めたときです。それまで日本になかったウィルスなどが入ってきた。サケ科の魚にはIPNとかIHNとかBKDとかいうウィルスの病気が全国に蔓延しました。内水面に予算を一番持っている県は、海に面していない県です。そのとき、そういう県は大きなお金を投じて、地下水を深いところからボーリングしてポンプ・アップし、きちんと囲んだ所にニジマスの親魚を入れて、担当の人が完全に消毒して白衣を着て育てた。そこで卵を取り出して、無菌状態の卵を民間に分譲して内水面の振興を図ろうという政策でした。
ところが、海に面している県は、どうしても海の漁業に力が入ってしまうので、宮崎県もそうですが内水面の予算はいくらもない。だから、ほどほどに防疫対策をやって、「卵はヨード剤で消毒をきちんとやってください。進入車の消毒もやってください」程度で済ませた。
全国的にものすごい被害があったのですが、いま、私どもの養魚場で若い職員たちはIHNとかBKDとかいってもみんな知らない。昭和50年代では稚魚がバタバタ倒れたんだよといってもそういう病気があることすら知らない。ところが、いま、全国養鱒部会などで発表される資料を見ると、問題になるテーマは、いまもってIHNなどの対策です。毎年これだけの被害が出ます、こういうワクチンを開発中です、などとやっている。それは、無菌状態で生産されている先進県においてのお話です。予算の無かった後進県ではそんな病気は出なくなっている。宮崎なんかも早々と終息宣言を出しているのです。
私たちはヤマメの養殖は無投薬で育てております。一般的には魚病が発生すれば、血液を漉すところのキドニー(腎臓)の組織を採り、培地で菌を培養して菌を特定し、更にその菌を分離培養して薬剤の感受性テストを行います。そしてもっとも感受性の高い薬剤を見つけて投与するわけです。ところが、薬剤を使うことによって菌はすぐその薬剤に対して耐性を持つようになります。するとつぎは別の薬剤を使う。そうすると今度は耐性をもっていた薬剤に感受性が戻る。このようないたちごっこを続けているうちにどの薬剤もしだいに感受性が低下してきます。感受性がプラス二になったとかプラス三になったとか一喜一憂していたのが昭和五十年代でした。
私たちはいま、親魚に病気がでてもそのまま放置します。対策は密度を低くして水量を増やし、池を清潔にするという環境改善策だけです。その生き残りの親魚が実は貴重なのです。その子孫は同じ病気にかからなくなる。多少出ても大きな被害にはならない。ひどく簡単なことですが、これで無投薬の養殖になります。
人も、たえず多くの菌やウィルスに接触しながら生きています。そこに自然界の摂理が働いてバランスがとられているのだと思います。ものすごい数の菌やウィルスの中で絶えずバランスをとりながら生きていくのが生き物本来の姿です。そこを強引に薬品で殺して全滅させようとする。すると菌やウィルスは、その薬品に対して耐性を持つようになる。イタチごっこが始まるわけです。今、抗菌グッズとかが売れているといいます。こうして、すべての菌に触れない、自然界に接しない生き方をしていると、一度ことが起こったら大惨事となる。この延長線上には、私たちは滅菌室でなければ生きていけない方向をめざしているのではないかと思うことがあります。
都市文明の未来
宮崎県出身の神奈川歯科大学の鹿島勇先生は耳石の研究で有名な方です。耳石は遺伝子につぐ情報をもっているということで、先生のお話では、生命が誕生するときに、まず一番最初にできるものは耳石だそうです。耳石が発生しないと生命にはならない。地磁気を感じる耳石が最初に一個できて、つぎに食物を食べる顎ができる。後から耳石は三個になって、一個は途中で消えて最終的には二個になるそうです。なぜ三個できて途中で一個消えるのかそこのところがまだわからないとおっしゃっていましたが。
ヤマメの卵も調べてもらいました。養魚場の卵と天然のヤマメがいる谷川の砂から掘り出した卵を送りました。天然と養殖ものには耳石に明らかな違いがあるということです。耳石がなかったら、サケだって生まれた川に帰れないし、渡り鳥は渡って行けないし、ミツバチだって南北の方向に巣をかけられないでしよう。地球上にある生命はまず耳石から生まれるというお話しは面白かった。
ヤマメの受精卵は、卵殻の中に囲卵腔液があり、その中に卵黄膜に包まれた卵黄がある。卵黄は育つときに食べるお弁当になりますが、その卵黄膜の一角に白い点となった油球の部分が肉眼で見えます。そこは囲卵腔液より比重が軽いとみえて、水中に受精卵を置くとこの白い点が必ず上にくるのです。卵を動かすと白く見える部分は位置が変わりますが、またしばらくすると元の位置に戻ってくる。つまり地球の重力を感じて生命の発生する場所、天地を決めているのです。だから、受精卵をいつまでも動かし続けていると卵は死んでしまいます。鶏は逆で卵を動かさないと死んでしまう。そして鹿島先生のおっしゃる地磁気を感じた物質の耳石ができ、ものを食べるための顎ができる。そこでようやく生命体となる要素が揃うことになります。生命体は地球の重力や地磁気を感じて自然界と交信しながら発生していると思うのです。
天候の変化の予知能力も、こうしたことから生じるのかも知れません。昆虫も天候の変化の予知能力は高い。スズメバチやアシナガバチは、台風の少ない年は高い所に大きな巣をかけ、台風の多い年は地面近くに小さな巣をたくさんかける。あっちこっちに危険分散しているのでしょう。それでは一番高等動物の人間には、どうしてそんな予知能力はないのかという疑問が浮かぶわけです。
一九九二年にヨットで世界一周された今給黎教子さんのお話では、航海を始めて三ヶ月経ったころから、低気圧が来るのが体で感じられるようになったということでした。もともと人間にはそのような能力があった。それが、だんだん自然界から離れて都市化され退化した。まさに養殖ヤマメのようになってきたと考えてもいいのではないでしょうか。
だから、野性というのは大事なテーマだと思うのです。将来、千年単位で考えた場合、人間の正しい遺伝子を後世に伝えられるのは、自然とのかかわり合いの深い暮らしをしているアフリカのブッシュマンのような狩猟採集生活者ではないかと思うことがあります。弥生時代以降、自然界から離れることによって、快適な暮らしができる方向で究極の都市文明を築いた日本人。どうやら自然から隔離されたような都市文明には未来はないような気がします。
「山師の作法」に学ぶ森の哲学
ブナ林の遷移によって育まれ発達した縄文文化。高千穂神社の後藤俊彦宮司は「一万年も続いた縄文時代の暮らしの作法やその思想は、今日でも受け継がれている」とおっしゃいます。起工式や竣工式など一般に行われる神事は縄文文化と弥生文化の融合であると。神事は、先ず七五三の下がりをつけた注連縄を張り廻した中を神聖な場所と定め、その中で玉ぐしを奉奠してお参りするわけです。その張り巡らした注連縄は、水田稲作文化の象徴である藁を使う。弥生時代からの藁文化です。その藁文化の中で捧げる玉ぐしは木の枝です。これは、森や木に神が宿るというアニミズム(自然崇拝)の縄文思想だということです。
自然や森を敬うという縄文時代から続いた森林への思想を考える時、その生活作法に哲学的な真理をみることがあります。山師というと、ペテン師などという表現に使われますが、本来は山で暮らす専門職のプロフェッショナルな集団を指す言葉であったものと思われます。例えばノリ山さんといえばノリウツギの皮を剥いで樽に詰めて運びだ人たちです。この皮で和紙を作りました。
ゲタ山というのは、クルミの木を割って下駄一足分の大きさに削り、山から運び出す人たち。ハツリ山とは、鉄道の枕木や家を作るときの柱などをハツリヨキと呼ぶ斧で削る人たち。木を切り倒す人は伐採山、その事前の準備をするサキ山、切り倒した木を谷に落として集めるコバ山、鍬などの柄木をつくるモッカン山。シイタケを栽培するナバ山。一時バット山というのもありました。山のトネリコという野球のバットを作る木を探して切り倒し、ろくろにかけるサイズに荒削りして山から運び出す人たちです。いまでもシイタケを栽培する人をナバ山さんと呼んでいます。シイタケのことを当地では「ナバ」と呼ぶからです。
森の作法の基本は、自然界はすべて山の神が支配しているという思想です。山に入ると山のどこにでも山の神がいる。川に行けばどこにでも水神さんがいる。そういう神々に対して失礼にならないようにしなければならない。礼儀を重んじなければならない。人間の力では自然をどうすることもできない。それはまさに神である。そういうことから、作法が生まれ、作法を守らなければ「バチが当たる」というふうにわかりやすく説いていると思うのです。山の神という言葉を「自然」という言葉に置き換えてみればよくわかります。
山師が使う道具に「ヨキ」と呼ぶ斧があります。ハツリ山が使うものはハツリヨキ、伐採山が使うものは伐採ヨキ、枝打ちや小物を削る手ヨキなどがあります。このヨキには、そのいずれにも柄の取り付け部分から刃先にかけて三本の線ともう片方に4本の線が刻んであります。この4本の線は、「太陽の気」と「土の気」、「水の気」、「空気の気」の四つの「気」を表しているといわれます。4つの「気」が入っているのでこの道具を「ヨキ」と呼ぶわけです。もう一方の3本の線は、山の神に捧げるミキ(神酒)に通じるといわれ、また、陰陽五行の節の三合の理ともいわれます。山にヨキを置いて帰るとき、そのヨキは4本の線を地面に向けて置くことが作法です。木の命を奪う道具に木を育てる4要素を入れてヨキと呼ばせるなんて、まさに自然循環の思想ではないでしょうか。
「のさらん福は願い申さん」
猟師の狩猟儀礼作法に学ぶことが多くあります。お隣の椎葉村に昔からの狩猟儀礼作法を伝承し実践されている尾前善則さんという方がいらっしゃいます。私どもが開いている霧立越シンポジウムで狩猟儀礼作法のお話をして頂きました。
猟師は「のさらん福は願い申さん」の心でなければいけない。「のさらん」とは授からないものという意味で、狩りの作法を守っていれば山の神が必ず獲物をくださる。獲物は山の神からの授かりものであり、授かったものだけで充分です、それ以上は望みません、ということが根底になければならないといわれます。そして海のオコゼを山の神に捧げるというオコゼまつりのお話がある。これは民俗学者の柳田国男さんも聞きもらした部分だと思いますが、彼が椎葉の狩りにまつわる言葉や風習、儀礼、作法をまとめた「後狩詞記」には「オコゼまつりという奇習がある」とだけしか見えません。「山の神は女性の神でオコゼは見苦しい顔をしているから山の神がオコゼ見ると喜ばれる」というお話もありますが、オコゼまつりのお話はもっと奥が深いのです。
猟師には、コリュウシ(小猟師)とウーリュウシ(大猟師)という二通りの猟師がいるということから物語は始まります。コリュウシは花咲かじいさんのように正直な猟師で山の神を大切にする猟師。ウーリュウシは強欲な猟師で、サカ(逆)メグリでもやってしまう。家の大黒柱に磁石を立てて干支の方位(右回り)に順番に猟に入っていくことが正しい作法で、これを逆に入ることがサカメグリとなる。サカメグリになる方位に傷ついた鹿や猪が藪に潜んでいて、猟犬をけしかけるとすぐに獲れると思われる時でも、コリュウシは犬を括って出てくるという。
あるとき、ウーリュウシもコリュウシも山に猟に入りました。山では山の神がお産をしかけていました。最初にウーリュウシが山の神のところを通りかかりました。すると山の神は「ウーリュウシよ、実は今こうこういうわけでお産をしかかっている。のどが渇いた。何か持たないか」と山の神が声をかけた。ウーリュウシは「そういうものは持たん」と言って何も差し出さなくてスタスタと通り過ぎた。
次にコリュウシが通りかかったところで、山の神はウーリュウシと同じように「コリュウシよ、実は今こうこういうわけでお産をしかかっている。のどが渇いた。何か持たないか」と声をかけた。コリュウシは「こういうこともあろうかと持っていました。」と稗とか粟で作った甘酒みたいなものとか、ご供物を山の神に捧げた。山の神はたいそう喜んで「お前のような猟師でないといけない。これからコリュウシが山に入った時は、獲物を必ず差し上げましょう」と言ったという。
以来、ウーリュウシが山に猟に入ると獲物は逃げてしまい、コリュウシが山に猟に入ると、まるで獲物が飛びかかってくるようにして獲れるようになった。そこでコリュウシは毎日のように山に猟に入って行く。そうすると、我が家でも食べきれないくらい獲れる。それでも面白いので、毎日のように猟に入って行く。隣近所におすそ分けしてもまだ余る。
そこでコリュウシの奥さんは考えた。「そうだ。町に肉を売りに行けばいい。」竹で編んだショウケ(ざる)に肉を入れて町へ売りに行きはじめた。ところが肉は重たい。そこでショウケを頭の上に乗せたら運びやすいことに気がついた。頭の上に乗せて町に売りに行く。なりふり構わず面白いから働いた。コリュウシは毎日のように獲物を獲って来る。奥さんは毎日のようにショウケに肉を乗せて、町に売りに行くという暮らしが続いた。
あるとき、コリュウシの奥さんは、谷川の橋を渡って町に降りて行くとき、橋の上で立ち止まって川をのぞいた。すると川の水鏡に自分の姿が映っている。よく見ると髪は抜けて禿げてしまい見苦しくなっている自分に気がついた。そこで「女でありながらこんなに醜い姿になってしまった。」と非常に嘆き悲しんで、とうとう身投げをしてしまったという。その亡がらがドンブラコ、ドンブラコと流れてとうとう海に流れついた。海のオコゼはコリュウシの奥さんの化身である。――そういう考え方なのです。ですから、オコゼを持って、山の神にお礼参りをする。そうすると、また山の神が再び獲物を授けてくれる。これがオコゼまつりに伝わる説話です。
この説話は非常に哲学的だと思います。ウーリュウシのように強欲であってはならないという戒め、これはよくわかります。それから、コリュウシのように山の神を大切にして作法を守り、正直で花咲かじいさんのようであると、山の神は獲物を授けてくれる。けれども、自分たちの暮らしに必要のない部分まで獲ってしまったために奥さんはとうとう身投げをしてオコゼになってしまったのです。
サカメグリの戒めも、現代で行われている禁猟区や保護区の設定を暮らしの中の作法として組み込んでいる。秋になると葉っぱが落ちて鳥も去って行き、春になるとまた木の芽がでて鳥も戻ってくる。自然は絶えず循環していてその循環の中に組み込まれた生き方をすることを説いていると思うのです。
山の青年たちの自身と誇り
ヤマメの養殖は、昭和四八年には年間五百万尾の稚魚を生産するようになりました。そして私は生産したものを外に売ることばかり考えていました。ところが過疎化という言葉がだんだん出てきて、このままでは山奥に人が住まなくなるのではと考えるようになったのです。村に人がいなくなって養魚場だけやっていても面白くない。ヤマメを武器にしてむらおこしができないかと考えました。そこで、やまめを放流して釣り客を呼ぼうと、波帰川に区画漁業権を設定してもらい「五ケ瀬えのは国民釣場」をはじめました。波帰村で「えのは振興会」を結成して取り組んだのです。「えのは」とはヤマメのことです。入場料を千円頂いて二十匹まで釣ってもらおうというわけです。ニジマスのようには釣れませんので大規模にはできませんが今日までほそぼそと続いています。
また、公民館を建てようという機運が盛り上ったとき、公民館と合わせて婦人会で山菜の加工場も作ろうということで、制度事業で加工場を作ってもらった。これも今日までほそぼそと続いています。また、民宿をやりましょうということで5軒ほど民宿をやってもらった。ちょうど宮崎国体が昭和五四年に開かれ、当地は山岳競技が行われたのでこれを目標に民宿を始めたのです。
ところが、小さな村の小さな取り組みは、なかなか注目されない。お客さんも来てくれない。そこで何か思い切ったことをということからスキー場を考えた。そのような取り組みの中で、村の青年たちが立ち上がってきたのです。これが一番大事なことだったと思います。
平成元年にスキー場が実現するめどがたったとき、村の青年たちが非常に自信を持ってきました。それまでは、青年たちが県内のさまざまな集まりに出席したときに、自己紹介が一番嫌だったという。自分たちでも山奥の行き止まりのところで、冬は雪が降って寒い、夢も希望もないところと自分から思い込んでいる。だから自己紹介が嫌なのです。ところが、スキー場のニュースが流れ始めたとたん、スキー場がまだ実現しないうちから「あのスキー場ができるところだ」と胸を張って言えるようになったというのです。それが地域の誇りであり自信となったのです。スキー場実現に向けて、青年たちも一生懸命応援して頑張ってくれました。
平成七年には、霧立越という九州脊梁山地の尾根伝いにある古道を切り開いて十二kmの歩道を開設しました。かつて馬の背で物資を運んだ駄賃付けの道です。標高千六百mのブナの原生林を辿るため高山植物や野鳥、獣たちなど動植物がとても豊かな森です。「霧立越の歴史と自然を考える会」を組織して会員がインストラクターとなりガイドすることにしました。名づけて「エコ・ツーリズム、霧立越のロマン二万三千歩の旅」。こうして年間五千人ほどのハイカーが霧立越を楽しむようになりました。
会員は二十名ほどで、全員が名調子で案内できるという訳にはいきませんが、青年たちがインストラクターと称してガイドする。インストラクターと言われると、なんだか気分がいいものです。その内の何名かはすごいのがでてきた。普段見慣れない植物でも、そこは山育ちの青年たち、学名とか和名を知らなくても地方での呼び方はだいたい知っている。名前の説明だけではなくて生活との関わりはどういうものであったかなども説明ができるようになった。たとえば、ミカエリソウについて「これは、茎から霜柱が立つのでシモバシラとかコオリグサともいいます。地球の気候が変わるときに植物はそれに合わせて進化してきたのです。冬を迎えるときは、水を揚げるのを止めることを植物たちは覚えた。そうして無事凍結する冬を越すんです。ところがこの植物は、それができなかった。だからいつまでも水を揚げ続ける。それで霜柱がいっぱいつく」と、そんな話もできるわけです。
霧立越には五百種近い草本木本類があります。かなりな数を説明ができるようになると、「先生これは何でしょうか」と葉っぱを持ってきて尋ねられるようになる。先生と呼ばれるのは大変なことです。山の中に住んでいる者も街の人に教えるものがある。「先生」と呼ばれるのはたいへんなことです。山の中に住んでいる者にも街の人に教えるものがある。先生と呼ばれる。これは山村の青年たちにさらにたいへんな自信と誇りをもたらすことになるのです。
知らない植物があるとさっそく調べる。教える楽しみがでてくるのです。自分で植物やキノコの図鑑を何冊も買い込んで調べている。その見分け方なんか達人になってくる。そうするうちに先生と呼ばれるようになるのです。今まで全く自信を持っていなかった人たちが先生になっている。自信を持ってくると非常に行動的になってきた。これが都市と山村の交流でもいちばん大事な部分ではないかと思います。
いまでは、地元に伝承されているお神楽や戦国時代に肥後人吉の丸目蔵人が始めたタイシャ流、源義経が奥州平泉に落ち延びるとき安宅の関で山伏装束で問答を行ったことを伝える臼太鼓踊りなど、郷土の民俗芸能の伝承にも熱心に取り組むようになったのです。
百年の森づくりへ
いま、「考える会」は、エコ・ツーリズム霧立越から、新たな石楠花ルートを開発したり、地図にも載っていない「幻の滝」を探検して発見したり、霧立山地固有種のキリタチヤマザクラを発見したりして活動を続けています。山伏がいたのではないかと思われる深山の「ガゴが岩屋」と呼ばれる岩屋群や化石の路頭を発見し新たなエコ・ツーリズムのルートづくりにも取り組んでいるところです。
このような取り組みに併せて、そのつど専門家を招き「霧立越シンポジウム」を開催して学んでいます。それもすでに本年で十回を数えるようになりました。このようなことから、森林環境についても深く考えるようになったのです。
日本は、戦後の拡大造林政策でおびだしい植林を行いました。アジアで森林資源をため込んでいる国は日本です。将来、アジアは木材資源を日本に頼らざるを得ないでしょう。そこで日本は、今はじっくりと森林を管理育成しなければならない時代といえます。
問題は、日本の政策です。二千五百万ヘクタールの森林を管理している人は、高齢者の十万人弱でそれも年々減っています。人工林は、最後まで人の手を加え続けなければ森林は崩壊していく。人手の絶対数が足りなくなる。
戦後の拡大造林政策は、四十年を伐期とする考え方です。今、宮崎県は日本一の木材生産県といわれていますが、言い換えると伐期が来た森林が一番多いということです。ここに一つの大きな問題があります。
人工林でもっとも歴史のある林業は、吉野林業で、江戸時代から今日までしっかりした林業の基礎が築かれたわけです。それは、百年の森をつくるという理念があった。数奇屋風書院づくりなどの小径木の需要と樽をつくるための樽丸という大径木の需要があったことが原因ですが、十年置きに収穫しながら百年の森をつくるという考え方があった。
また、国有林の施業計画も明治時代に国有林が制定された当時は、二百年の輪伐という方針でした。自然界における樹木の自然更新は、大体三百年ですから、やや自然の摂理に近い考え方です。それが、拡大造林政策では、四十〜五十年で全伐という考え方で植林したわけです。壮大な実験を国は山村で行ったことになります。ここに環境破壊や経済効果のマイナス要因があるといえるのではないでしょうか。
四十年を周期とした全伐方式から少なくともかつての吉野林業のような百年以上の森をつくるという政策に明確に転換しなければ、日本の人工林と森林環境は守ることができないと思うのです。民間の事業は、経済が伴わなければ実施できません。このため、国や県の予算で先行投資として百年の森をつくるための除間伐等を大々的に進める必要があります。四十年と百年の森とでは当然施業の方法が違ってくるからです。
間伐材を是が否ともお金に替えようとするから、それが目的になるから事業がおかしくなる。間伐材はお金にならなくてもいい。土地に返すと肥料にはなります。目的は、百年の森を作ることだからです。そうして森林資源をため込んでおけば、いずれ国は将来、輸出や木材流通に木材取引税などの税金を課して投下資金を回収することもできます。
また、高地等の人工林不適地は、失敗は失敗として認めて元の自然に返せばいいし、なにより渓畔林の修復が望まれます。自然林では、渓谷沿いにはシオジ、クルミの広葉樹が覆い茂っていました。これらの樹木は、川の中まで根をのばして谷川をがっしり掴んで自然環境を守っていたのです。こうした渓畔林を元の姿の森に修復するだけでも土砂崩壊等の災害は減少し、自然環境が良くなります。
ちびちびと小出しにした森林対策より、このようなマスタープランを作成して抜本的な事業の導入をはかると、山村に大きな雇用の場が生じる。国は雇用対策として見かえりのない予算をばら撒くより、資源をため込む方策に転換したほうがよほど理にかなっているのではないか。
町村合併は、ますます過疎地を増やし、山村集落が消えていきます。山村に森林を管理できる人がいなくなれば森林の崩壊が起ります。国有林も森林管理署が統合されて、都市部の森林管理署管轄になりました。都市部から将来人手のいなくなった山村にどうやって入り込んで森林管理ができるのでしょうか。
都市と山村の交流は、都市の人々の人間性回復と同時に、山村の森林の維持管理に必要な十万人を育てることにもつながるものと思います。(完)