第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年

「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」

② 4月22日 男成神社

飯開氏 皆さん、おはようございます。当神社の禰宜(ねぎ)をしております飯開(はんがい)と申します。このたびは、西南戦役130年の記念シンポジウムで当男成神社へご参拝くださいましてありがとうございます。先ずは当神社ついてご案内したいと思います。当神社のご祭神は、建磐龍命(たていわたつのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、神武天皇(じんむてんのう)、神八井耳命(かみやいみみのみこと)となっております。阿蘇神社の主神建磐龍命(たていわたつのみこと)がこの地で元服されたことに習い浜の館の阿蘇大宮司阿蘇惟次公が嫡子惟義の加冠の儀を行ったことから男成宮と称し、以後阿蘇家の元服式は当社で行われていました。
 文書(もんじょ)によりますと建磐龍命(たていわたつのみこと)が緑川の縁に緑丸という鶴に乗って飛んでこられ、その川を遡られたので、この川を緑川と称するといわれております。今日これから行かれます沢津の奥の方にウゲの洞窟がありますが、川を遡ってその洞窟に籠られたということであります。その洞窟の上に稲積山という小高い山がありますが、そこに上られまして、自分の先祖を祀る適当なところはないかと四方を見渡されました。すると一つの良い山が見えたのでその山に来られました。そこを御岳山(みたけやま)といい、その麓が男成村のこの地であります。
 それで、こちらに来るまでは自分の別名が「金」であることを伏せておられましたが、近くの村に来た時、その村がたいそう気に入られたので「自分はこの国の主なるぞ、金なるぞ」と言われました。それでその村は成金という名前がついたと言われています。現在の成金という集落の名前の起こりであります。その後この男成へこられたわけですが、途中日が暮れてしまいました。そこでこの先の集落を日暮れ崎と呼ばれるようになったといいます。ついでに申しますと私は飯開(はんがい)という名前でめし・ひらきと書きます。私達の先祖が建磐龍命(たていわたつのみこと)の夕食を作って歓迎したということから飯開きと名乗るようになったと伝えられています。建磐龍命(たていわたつのみこと)の父親は神八井耳命(かみやいみみのみこと)で、神八井耳命(かみやいみみのみこと)のご先祖は神武天皇(じんむてんのう)と天照大神(あまてらすおおみかみ)であります。そこで、最初は御岳山(みたけやま)で自分の父親になる神八井耳命(かみやいみみのみこと)とご先祖の神武天皇(じんむてんのう)と天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りされたということであります。
 命(みこと)は、最初に農耕を指導されました。先ずこの男成村から人を集められてしだいに矢部のほうへ水門が広がるように広めていったということです。それでこの村を本村と呼びます。その先を稲村とよびますが、そこでは稲作を教えたといわれております。近世に至っても当神社は細川藩の崇敬も厚く、肥後八社の一つに数えられていました。
 この神社の宝物としては「智成」という名刀があります。今は県の美術館に行っております。「智成」といいますのは厳島神社では国宝になっています。この建物は明治9年頃に建てて明治12年頃に是を記念して氏子さんが外側の絵馬と一緒に天井の絵を奉納されています。だから西南の役ではこの建物だけはあったが、この絵はなかったと思いますね。花川柳と百人一首を一緒に奉納しましたということを書いてございます。
 さて、西南戦役ですが、130年前の今日、ここには池辺吉十郎が率いる熊本隊が集まりました。この神社に上る時に茶畑が広がっていましたが、そこには砲台跡があります。向うから官軍が攻めて来るに備えて防塁を築いたところです。
 この窓の外に見えるあの白い家がありますが、あそこに薩軍の本部を置いたといわれます。そして村中に分散して分宿されたことだろうと思います。あそこは元庄屋の家で私の母方の家でもあります。そこに泊まって翌日はこの神社で戦争で亡くなられた方の招魂祭をなされたといいます。130年前の4月22日の今日ですね。
 熊本隊は士族でつくられた隊ですが、ここに来る前は10小隊あったそうです。それを5中隊に改変して全軍をもって一大隊ということで、大隊長は池辺吉十郎ということで、かなりの数の兵隊だったろうと思います。隊長の池辺は矢部の桐野利秋と今後の方針を協議し、胡摩山越と奈須越を辿って人吉へ行くことになりましたが、途中は嶮しい山で食料も無いということから餅を数十石搗いて各数十個の餅を持って出発しました。
 それと「焼きの米」を集めて是を持って出発したそうです。この袋に入っているものが「焼きの米」です。これは私達も小さい頃からよく食べていました。今でいうインスタント食品のようで、お湯や水を注ぐとふやけてすぐ食べられます。封筒やポケットに入れておけばいつでも食べられます。これを持って行ったということです。熊本隊は「焼きの米」と餅が主な食事だったろうと思います。
 昨日お話のあった菊池氏は、肥後の守護職であったわけですが、阿蘇の大宮司のお兄さんに当たる人が菊地家に養子に行かれ、後は弟の惟豊という方に譲られたわけです。ところが阿蘇家は菊地家と折り合いが悪くてですね、帰ってきて弟に譲った大宮司職を取り上げてしまったわけです。それから二人は争うようになるわけですが、弟の惟豊という方はこの神社にお参りされて最終的にはまた兄に当たる方から大宮司職を取り返したという話しがあるわけですが、その時が阿蘇家が一番栄えたころで35万石の領主になっていて外国との交易をして朝廷にもいろいろと貢物をして非常に高い正ニ位という位をもらったという方です。
 招魂祭のあった時、当時の宮司が熊本隊の人たちにこうした男成神社の由来を説明して勇気付けたことが古閑俊雄の「戦砲日記」に書いてありますのでご紹介します。
「神官某当社ノ由来ヲ説キ以テ予等ニ示ス、夫レ当社ハ之阿蘇氏ノ建ル所、初メ阿蘇氏ノ祖先某危難ニ際シ、遂ニ遁逃シテ当地に潜ム、多年基運挽回ノ時ヲ伺ヒ此ノ地ニテ元服セラレ、遂ニ義軍ヲ起シ旧地ヲ回復セラレタレバ、此ノ地ニ社ヲ建テ男成明神と祝ハレタリ、公等モ一旦敗ヲトリ給フトモ時運巡回ノ日ナカランヤト、予等モ之ヲ聞キ奇異ノ思ヒヲナシ、即チ明神ヲ拝シ、詠歌一首ヲ奉ル、
 ミソナワセ□レモツクシノ男成
弓箭ベノ道蹈ミヤ迷ハシ
当社尤モ櫻樹多ク、折節弥生ノ比ニテ花悉く爛漫タリケレバ、
 駒トメテ拂フモ惜シク散ル花ニ、サクラ織リナスシタタレノ袖
同日当社ニ於テ御船戦死ノ面々ヲ假(か)リニ招魂祭をナス」
と、書いてあります。
 古閑俊雄が「当社尤(もっと)モ櫻樹多ク」と書いてあるので当時はサクラが多かったようです。今はもう葉桜ですが、その当時はこのあたりも春爛漫でヤマザクラの花びらがはらはらと散っていたであろうと伺えます。昔は、杉も大樹が多くてムササビをよく見かけていました。今、林床には絶滅危惧種のヤマブキソウが群生していますのでお帰りにご覧ください。
 それから、外に見えるあの白い家、私の母方の家ですが、そこの薩軍の本部を置いた家の近くには官軍の間者(かんじゃ)が捕まっていたそうです。助けてくれえ、助けてくれえという声が聞こえていたということを母方から聞いております。そして向こうの方に連れて行かれて処刑されたということも聞いております。偵察にきていた官軍を捕まえて尋問した後処刑したのでしょうね。ま、西南戦役で語り継がれていることは以上のようなことです。

秋本 ありがとうございました。当神社の禰宜の飯開様よりご説明いただきました。皆さんからのご質問をお受けしたいと思いますが、その前に「焼きの米」についてお尋ねします。餅はお米があればすぐ搗くことができますが「焼きの米」は数日の内に造ることはできないのではないでしょうか。「焼きの米」の造り方や、当時は保存食としてそれぞれのお家に保存されていたのかどうかなどをお聞きしたいと思います。

飯開 「焼きの米」は秋口に稲を青刈りし、押し麦のようにして潰して干し上げますから、農家に保存してあるものを集めたのだろうと思います。それをお金で買ったのか、差し出したのかは分りませんけれども、十分に保存してあったのだろうと思います。ここにありますので食べてみてください。お湯を入れて、砂糖も入れたりして食べていました。私達が子供の頃は封筒に入れてポケットに入れておいて、今、皆さんが食べていらっしゃるようにそのまま食べていたのですね。

秋本 これは、軽くてお湯や水を加えたら食事ができる。今、アウトドア用に開発されている携帯食のようなものですね。薩軍が人吉に行くのに、この「焼きの米」が大きく貢献したのではないでしょうか。この「焼きの米」が手に入ったので脊梁山地の食料のない難所を越えられ、また、反転して取って返して鏡山の攻防戦などが展開できたのではないかと思います。もし「焼きの米」がなかったら、戦況も変わっていたのではないかと思われますね。
 この「焼きの米」は、昔からこの地方の特産物のようですが、私も数十年前にこの地で初めて口にした時はびっくりしたものです。この男成村は昔から米がよくできて、美味しい米の産地としても有名だったようですね。なぜ米がよくできたのか、何かがありそうです。実はこの神社の裏に掘割があって、そこでは地層がはっきり見えますのでそこを見てもらいたいと思います。今日は、土壌学が専門の先生と地層の専門家がいらっしゃるので、そこを見てもらえばなんらかのヒントがあるかもしれません。
それでは、他にご質問はありませんか。

質問(会場から) 飯開さんは飯を開くと書かれるということですが、こちらには、他に飯干さんや飯星さん、スターの星ですね。これらの姓が多いようです。私は飯干などの姓を聞くと「あっ矢部だろう」と思ったのですが、これはやっぱり昔からお米にかかわる苗字が多いのでしょうか。

飯開 そういうことだと思います。私達の姓は夕飯を供応したことから飯開になったといわれておりますが、飯がつくことは何らかの形で昔、米に関することからついたものであろうと思います。米どころだったということだと思います。

秋本 他に質問はありませんか。

奈須 今、「焼きの米」を頂いて大変美味しかったです。ひとつ知ったかぶりをいたします。私達が子供のころは、焼きの米は各家庭で造っておりました。造り方は完熟した米ではなくて7分から8分くらいに熟した稲を青刈りにして、村の親戚など7~8人が集まって「焼きの米」づくりというて、共同で造っていました。米をせいろで蒸して、臼で搗いて、釜で炒って仕上げるのですが、とてもかばしかった(香りがよかった)ですよ。今のも美味しいですが、その頃の「焼きの米」はもっと美味しかったですね。保存するために造っていたので西南戦役でも各家庭に造ってあったのを持ち寄って西郷さんに差し上げたとではなかろうかと思います。それで「焼きの米」は急にできるものでは絶対無かとです。

秋本 今の話しを聞いて私どもも反省しております。もっと事前に調査していて、今回の一ノ瀬越や霧立越の体験では「焼きの米」を弁当がわりに準備しておけば良かったのにと今思いました。(笑い)。他にございませんか。それでは掘割の地層の良く見える所にご案内して頂きます。米どころの意味がその地層から見えるかもしれませんのでよろしくお願いします。

飯開 はい、よく見えるところがありますね。ご案内します。ただ、昔から水はけがよくて水不足気味だったようです。そこの上に堤があってそこから水を引いていたようです。あとからは、遠くから用水路を引いて規模を大きくしておりますけれども。

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秋本 先ずはこの地層を見てもらって。古賀先生どうですか。

古賀 もし、火山灰土があればこの土の上に被っていると思うのですね。火山灰はここではもう残っていない。私は土壌が専門でございますが、九州では阿蘇の火山灰、それから桜島、開聞とかいろんな火山灰が四国や山陰までも飛ばされています。北九州までも何回もの噴火の火山灰が何層もあります。火山灰が残っていれば何層もこの地層の上に残っているはずです。ところがここでは火山灰はなくて飛ばされている。この少し近くまでは火山灰が見られるということです。畠の広がったところでは火山灰があると思いますが、ここでは火山灰は流されている。
 そうすると、このあたりの見える地層がいつの時代の地層かということになりますと、ちょっと今すぐでは分りません。ここの男成村付近では、美味しい米がよく取れるということですが、美味しい米が良く取れる条件というのは、火山灰が厚いところではやはり美味しい米はとれない、もう一つは排水が悪いところではもちろんいい米はとれません。それで、先ほど「水が引いて水が不足気味であった」と言われました。そういうところは乾燥するから非常にいい米が実るという場合が多いのです。
 そういうおおまかなことは言えると思うのですが、そのようなことがこの近くの水田で水不足の中で米つくりが始まったけれども、水を引いて米つくりを創めたらその努力によって水管理さえやっていけば排水のいいという条件でいい米がつくれたというように思います。

吉田(高速道路管理事務所長) 私は仕事がらトンネル工事などをやってきていましてそちらの方からしか分らないのですが、この地層は皆さんごらんになってお分かりのように基本的には岩になっていません。土砂ですよね。これは地質学的には、上の方の地層ですから、歴史的には非常に新しい地層ということができます。古い地層だと岩になっていますから、だからここにトンネルを掘ろうとすると非常に難しいということが言えます。掘り易いということはありますが、掘り易いだけではトンネルは崩れてしまいますのでね。硬ければ崩れませんので、そういったことでトンネルは掘り易いけれども難しいという地層です。
 そして地層が水平に幾層も入っています。これは水に起因することが考えられます。池の底とか川の底とか海の底とかそういうところで幾層も堆積した地層を積んでいって、何時の日かそれが干上らないとこういった形の地層にならないというのは皆さん学校時代に習われたと思います。そういう典型的な層と思います。水の力を得て自然に堆積していったもので、その後水が抜けたか、陸が上がったのか分りませんけれどもそういった痕跡ではないかなあということができます。

秋本 ありがとうございました。そういうことで、この付近は火山灰が流されて少なく、かつては水底でいろんなものが堆積して積みあがった地層で、その層は水はけが良いということ、これが良いお米が昔からとれる環境にあったということかもしれません。そういう土地で、しかも昔から「焼きの米」造りが盛んに行われていたということであります。それを知っていて熊本隊がここを選んだかどうかは分りませんが、時代背景を考えると非常に納得のいく土地柄ではあります。それでは次の場所に出発したいと思います。