第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年
「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」
④ 一ノ瀬越登山口
栗藤公民館で
奈須 皆さんどうもお疲れ様でございました。ここが栗藤公民館でございます。ここから今日は、西郷さんが歩かれた道を、一緒に歩くような気持で一ノ瀬越という峠に上がっていただきたいと思います。そして鞍岡に行くということですが、今から丁度130年前の今日、西郷さんがここを上られたということです。先ほど沢津の緒方さんところで見せて頂きましたが、あれからずーっとそのままの路で、その辺は少し改良しておりますが、これから上は当時通られたままのそのままの路を歩いて上ることになります。天下の西郷さんがここを駕籠に担がれて上ったという思いで上りますと足も軽いのではないかと思います。丁度その日も雨が降っておったということですが130年たった今日も雨が降っているということは西郷さんもさぞかし喜んでいられるのではなかろうかと思います。
それで、この村にもいろいろとお話しが残っておりまして、西郷さんが行かれる時、この村から元気のよか人は一軒から一人なり二人なり出てですね、一緒に西郷さんを担いで上がったということを元治元年(1864)生まれの爺さんが私達が子供のころそのような話しをしていました。数えてみると爺さんが14歳くらいの時です。14歳では一人前ではありませんが、荷物持ちくらいはできたっちゃなかろうかと思います。そういう話を爺さんと婆ばさんがして聞かせておりました。そればってんが子供のことで上の空できいておりましたので、まちっとしっかり聞いとけば良かったと、今頃になって後悔しておるところです。(笑い)
その時出た村の人で、勝三郎さんという家の爺さんの兄貴になる人ですが、この人はとても体格がよくて力持ちだったそうです。この人が駕籠担ぎには一番重宝であったため「これからもずーっと担いでいってくれんか」といわれて先の方まで担いで行ったそうです。ところがその後何日たっても戻ってこられんもんだから村の人たちは「もう勝どんはやられたばい、どこかで殺されたばい」というて話しおらしたところ一週間ぶりにひょろっと戻って来らしたそうです。それくらいどこか遠いところまで行かれたということです。その時どこまで行かしたか聞いとけばよかったとですが、その頃は隠れ隠れということで、西郷さんに加勢したら賊軍の汚名を着せられて討ち殺されるという話があって、もう内緒で、爺さんたちが話しておられる時も、ひそひそ話しで話しておられるとば聞いております。そういう時代でありました。
先ほど、沢津の緒方修一さんとこで見せて頂きましたが、そこからここの村の松崎さんというところに嫁いでこられたお母さんがおられまして「沢津のもとやに西郷さんが泊まっとらすげなけ、おまやあ卵を持って行け」ちゅうてからですね、定熊さんていうそこの爺さんが当時11歳か12歳位だったのでお前が持って行けというてメゴばかるわせて卵ばやらしたそうです。今では卵はスーパーに行けば百円で買えますが、その当時は、お産した時か病気した時くらいしか卵は食わせんでお客さんの接待にとってあったということです。それくらいに当時は卵は貴重なものであったわけです。
それで大人が持って行くと疑われたり、恐い目に逢うことがあるので子供を使いにやったとです。すると西郷さんが、さっきの話のように奥の座敷の暗かとこに居らしたそうですが、子供だもんだから「上がれ」というて上がらせてもろうてですな、座敷に入れてもろうて「やあ、よく来たな」というて頭ばなぜてもろうたそうです。まあ、天下の西郷さんから頭をなぜてもらうなんちゅうことはめったこったなかことでほんなこて世の中に一人ではないかと思います。そんときは、こぎゃんしてワラズトに包んでいったのではないかと思います。この中に5つ入っております。卵は幾つ持って行かしたか分らんけれども、鶏を一羽持って行かしたそうです。メゴはこぎゃんツヅラテゴだったろうと思います。今日は直系の義正さんという人に話してもらうはずでしたけれども丁度今風邪ひいてから来てもらうことができませんでした。
それからご紹介します。今言いました定熊さんの直系の孫になります兼次さんです。それからこちらのアイコあ姉さんとセツコさんです。やっぱ定熊さんの孫になります。義正さんからは、皆さんによろしく言ってくれということでした。
そして西郷さんは、駕籠で行かれるわけですが、駕籠も一番軽い駕籠だったそうです。西郷さんは何してん重かったそうです。そして駕籠にやっと乗りおらしたと、乗り降りがやおいかんかったというようなお話しを家の爺さんたちが話しとるのをそれこそ上の空で聞いておりました。今日はこのような会を開いて頂きましたので私達の爺さんたちも世に出ることができました。皆さんたちの前でこうしたお話しができることで爺さんも婆さんも大変喜んでいることと思います。大変ありがとうございました。(拍手)
一ノ瀬越を上りながら
某 この路は昔からの路ですか。
奈須 今日、通って行く一ノ瀬越えという路は、私達が子供の頃は、皆ここを越えて鞍岡の祇園町というところへ買い物に行きおりました。盆とか正月とかですね。イワシとかはワラズトにいれてぶら下げて帰りました。2時間半くらいでは行きましたね。浜町には5時間かかりおりました。浜町よりこっちが近かとです。鞍岡に知り合いができたりして「よう来たなあ」と言われるもんだから喜んで行くと泊まっていきなっせとかですね。路の途中は、秋なんかは梨とかグミとかアケビとかいっぱい実っていてですね。楽しかったですよ。
某 西郷さんは、今この上り坂は上を向いて駕籠に乗っとらしたでしょうか、下を向いて乗っとらしたでしょうかね。前を向いて乗っとらしたら坂ですから後ろにひっくり返りますね。逆さまにひっくり返ると大変ですね。後ろを担ぐ人はどうしたでしょうか。たいぎゃあ重かったでしょうね。
一ノ瀬越で
奈須 はい、お疲れ様でした。一ノ瀬越の峠です。ここまで、うちへんの爺さんたちが駕籠を担いできて、ここで向うの人たちが迎えに来ておられたそうです。ここで交代してお金をもらって帰ったとうちの爺さんたちはいうていました。西郷札ではなかったそうです。現金だったということです。そん時うちの勝三郎さんという人は、そのまま担いで鞍岡に下りていったということです。体格が良かったので重宝がられたものだろうと思います。それからこっちが「トンギリヤマ」で10分くらいで行きます。こっちは「黒峰」で20分くらいで行けます。その間のここが「ヒナマメ峠」といいます。今は杉が植えられて見えませんが、前は、鞍岡側から見ればまったくそのものに見えおったものでそういう名前がついたごたるとです。だからこっち(鞍岡)の人たちがヒナマメと言いおらして、こっち(緑川)の人たちは言うてはおりません。(笑い)。去年きれいな奥さんがここで休憩しとらして「ヒナマメってどんなマメですか」って聞かれるもんだから答えようがなかったとです。(笑い)
某 一週間も帰って来られんかったら江代までいったかも知れませんねえ。地元の道案内と書いてあるのはその人のことかも知れませんね。
奈須 分らんとですたい。まちっと詳しゅう聞いとくばかりだったなあと思います。どのへんまで行ったかを。そうすると行かした路がはっきるするはずでした。その時はなるだけ分らんごと分らんごとちゅうところでしたもんなあ。
某 「言うな」っていわれとったっちゃあなかろうかなあ。
某2 そりゃあ内緒にしたでしょうなあ。
奈須 昨年までならもっと詳しく知っとらす人もおらしたとですけどなあ。今度のような西郷さんについての催しものをしてもらいましたのは全く初めてですもんなあ。これまで全然そんなことを考えることもなかったし、お話しすることもなかったもんなあ。もっと早ようにこうしたことをされておればなあと思いますたい。
某 100年の時、矢部の林先生が一人で調査されて広報誌に連載されていますねえ。そのときの記録に沢津の緒方さんとこにあった椀や杖のことが書いてある。
永谷 ちょっとお話しをさせてください。今、我々が立っている所、一ノ瀬越の尾根に居りますが、これは丁度太平洋側と日本海側の分水嶺になります。黒峰から始まった日本の中央分水嶺がこれなんです。で、これを行くと小川岳、向坂山、三方山、国見、五勇とずーっと南の方に行って市房山、それから霧島の方に行っている。これが中央分水嶺です。九州の脊梁でもあるが日本の背骨でもあるということです。こっちが緑川、こっちが五ヶ瀬川ということです。
奈須 今、長谷先生がおっしゃったとおりです。これは北の方には、黒峰から神の前を通って幣立神社を通って阿蘇へ繋がっております。
永谷 そうです。それで三年前から日本山岳会の100周年記念事業で北海道の宗谷岬から鹿児島の佐多岬までの日本分水嶺の調査に手掛けました。全国に38の支部があります。熊本もその一つの支部ですが、熊本は、大分から九重を引き継いで脊梁の白髪岳まで踏査をやりました。その中で一番難所といわれたのがこの脊梁の薮でした。GPSで図上に落としていくのですが、ところがその前に奈須さんたちが整備しておりましたのでとても助かりました。
奈須 今、長谷先生が「奈須さんたちが開けなはったので」と言われましたが、ほんなことは長谷先生たちがですね、スキー場の端にテントを三つ張ってですね、泊りがけで小川岳の方を切り開け始めなはったんです。その姿を見て私どもは感激してですな、感動してはじめたのです。倉岡さんの指導の元にですな、「あすこば開け」、「ここば開け」っていいなはるけ、「はい、はい、はい」って下刈機をかるうてからですな、伐り開けました。
ところが、ここの山が「九州中央山地森林生物遺伝子資源保存林」という長い長い名前がついた日本でも一番厳しい制約のついた山だそうです。人が入ることもできんし、スズタケ一本つんもったりすることもいかんと言われとった時ですね、それが平成7年6月9日に制定されております。私どもが切り始めたのが平成9年です。まあだ、できたばかりのほやほやの時ですな、犯罪を犯したもんじゃけ(笑い)。その時の営林署長さんな野北という人でした。
野北署長さんに宝屋というところで酒を呑むかたで「署長さん、あすこは通り易かごと伐りましたばい」と言うたら「そりゃなんな」って言うてえらいことになったのです。行きなはっとによっぽど行きよかごとと思ってからですよ。そしたらそれがやかましゅうなってですなあ。もう今年の正月はろくな正月じゃなかばいちゅうてから、11月頃だったけんですな。それから役場の倉岡さんと藤島さんと3人で署長室に謝りに行きました。最初は椅子に座っていたばってん、とうとう床に座って手をついて・・・(爆笑)。署長さんが、もう署長を辞めなんごとなるといいなはるもんだけですな。けど最終的には「来てもろうて良かった」と。あぎゃん言うてからそのままだと私の立場がのしなるはずじゃったと。もう、署長ば辞めんならんごとなるといいなはるもんだから。そうばってん、最後には許してもろうたもんだけ助かりました。
それから先は、森林官が付いて作業を行うことになってですな。付いとって払えば刈り払ってもいいということになりました。それで付いてもらって、ずーっと刈払いました。それでもスズタケ以外は刈払うことは出来んだったとです。なあに、戻らした後は、かもうたこたぁにゃぁけですな、どんどん伐りましたたい。(爆笑)。だけん今は楽に通れるようになったとですたい。そういういきさつがありましてこの路はできたとです。わしどんが切ったおかげで倉岡さんたちはふてえめに合わしたとです。ほんに署長室でひざまじいてですな(爆笑)、そぎゃんことがありました。それが今は立派な道になりました。お蔭様で登山者の方に喜んで頂いているので大変嬉しいことです。(拍手)。