第10回・霧立越シンポジウム 西南戦役130年

「西郷さんの歩いた脊梁山地を探る」

⑦  4月23日 内の八重



那須保氏
秋本 こちらは内の八重の那須保さんです。86歳だそうです。お話しを聞かせてください。明治10年4月に西南戦争があってこちらを薩軍が通られたんじゃないかということですが、当時のお話はご存知ですか。
那須 はい。わしも詳しいことは知りませんです。ここの奥のほうに胡麻山ちゅう部落があります。そこに泊まったちゅう話しは、わしが家内のばあさんになる人が嫁入りして行っとったとですよ。その胡麻山の小谷ちゅうところです。そこで、あとがうまいとこ栄えていかんごたるからというて出戻ってきたつですよ。じゃが、その人が嫁さんして居る頃に、はっきりと西郷さんやら誰やらは知らんですが体格のいい人が駕籠にのって、あれが西郷さんじゃろうかちゅうて見たそうです。
 今のごたあなし、昔ですから男と女との区別が激しかったですもんな、その家の旦那さんに対して見込みがないから、それじゃから出戻って居ったですわ。わたしゃ直接は聞かんじゃったとですよ。とんと子供じゃから、じゃけんどわしの家内がいろいろ話したり、部落の年寄りの人がいろいろ話したり、ここの石垣の根元が昔のままの路でそれをずーっと行って川に一旦下ってから、渡って、斜めにずーっと向かいを行って、そして、あの鉄塔が立っとるとが目にかかるですが、あの鉄塔のところを行く路が昔は往還ちゅうていいおったですが、そこから先にどこかへ行って泊まったとかいうことは私は知りません。ただ、ここを通ったちゅう話は、そりぁ部落でもいろいろ話しがありおった。だから、通ったことはもう間違いないです。
 この家にも泊まったと聞いております。あの石垣の下にある杉と同じ年代の杉がここにあったです。西郷戦争の時は大方かなりの大きさになっちゃおらんかったか知らんですが、そこで下々の兵卒がここで野宿する。階級のいい人は家の中で泊まったという話は、わしどもが親父から聞きおった。そして私が昭和23年に火災の災難に会うたもんじゃから、もうその木は切りこかしてにゃあですが、その時やっぱり木の中がこういう、うとになっていて、もう外から見たって包みこまれて分らんかったです。
 その杉の周りで階級の低い兵卒の人たちが焚き火をして夜を過ごしたけ、その木が焦がれて、その跡が巻きこんで分らんかったものが切り倒したらその跡がでてきおったとです。「兵卒が焚き火をして焼いたからこの木はうとっぽじゃぞう」いうてわしどんが親父たちがそういいおった。かたやま木といいおった。かたやま木というのは片側を火で焦がしたもんじゃから片側が枯れとる木のことです。幹がかたいっぽしか生きとらん木のことです。それをかたやま木のなんのいうております。
秋本 食料のことは聞いていませんか。
那須 食料のことは聞いておらんが、わしどんが爺さんが弾薬かるいを命ぜられて、命ぜられるちゅうがもう、部落の全員ですたい、わしのとこの爺さんと、この奥のところの爺さんの二人は年寄りじゃったもんで遅れてきたちゅうて叱られたという話しはわしどんの親父さんから聞いちょる。
秋本 昔、この路を行って小崎に行かれたことがあるですか。
那須 あります。小崎には何回も行きおった。
秋本 馬が通っていましたか。
那須 もう馬ばかりです。ここ当たりは、馬見原のほうに行ってみたり、盆正月の日用品の。そして小崎を越えて球磨郡に行ってみたりした。
秋本 ここから小崎を越えて球磨に行くにはどれくらい時間がかかったでしょうか。
那須 ここから小崎までは生一日かかるので球磨までは2日がかりではなかったでしょうか。馬見原はここから8里というて一日で行って来れました。駄賃付けが朝暗いうちにちょうちんつけて出かけ、帰りには夜詰めてちょうちんつけて帰りおりました。泊まる人はもう馬見原に泊まってですね。駄賃付けの唄なんかもあるとですよ。
秋本 ここのお家は椎葉往還の道沿いで便利だったんでしょうね。
那須 そうそう、この庭のすぐ下が往還で、昔の道が胡摩山にもここから続いておるとですよ。そこを今は林道が工事されておる。私も行ってみたいとですが息がばこうて大儀なもので。
某 その路を人が通りおったのですか。
那須 はあい、もう人があっちへ行ったりこっちへ行ったり、馬を引いたり、天秤棒で担いだりして通りおったとですよ。わしどんが子供のころはイワシやサバを塩の中から掘って出すようなものを馬見原から天秤棒で担いで来おったとですよ。この辺の人たちはもう殆ど馬見原ばかりで、上椎葉の人たちは球磨の方へ行ったりこっちに来て馬見原に行ったりでした。買い物は殆ど食料品で、衣類はわしどんの母たちが機織して造くっとったですよ、自分で。
 食料は山にコバ切って山作ばかりで昔は米ちゅうものは無かったらしい。それで幕末の頃、ちょうどそこから見ゆるが、高い墓石があるとですよ、その人がこの部落を指導して、八町井出といいますが、一町は60間かなあ、ああいうことも憶えとったが、ここの井出の距離が八町あったものじゃろうと思いおる。八町井出ができてから、それから田んぼが徐々にでけて、それより内は盆とか正月は米を食べおったじゃろうが、普段はもうソバ切が一番ごちそうじゃった。わしどもがおっかさんやらなにが言いおった「一番のごっつおがソバ切りじゃわ」て。出汁は鶏やらイリコたいなあ。ミソ醤油の日用品は、自分で造る人もあった。じゃけんど耕作地の少ない人は買いに行ったりなんかして。
 山には獣がおるし、川にはエノハがおるし、コバ切りに行って昼ごはん食ぶっときゃ、こんどは谷間じゃから岩の下に手をさしこうで、そうすると大きなエノハがおるけ、ミソをなにして昼のおかずにしていた。もう手探りすればあんた岩の下では魚はじーっとしとるから。さわると頭と尻尾は分るから頭の方を指で突いて引っ張り出すとよ。川に網を立てると魚がぞろぞろしとったけ、今度は大きいとだけを選って小さいた、また川に戻しおったですよ。どういう難儀しおったかわかるが。
某 いやあ、焼畑のソバ切食って、猪汁に鹿刺し、川では大きなヤマメを捕まえて食べる、今では最高の贅沢ですねえ。(笑い)。