第12回・霧立越シンポジウム『柳田国男100年の旅』

日本民俗学の父・柳田国男ゆかりの地「椎葉」を訪ねて

第一セッション 基調講演
日時  平成20年7月19日(土)
場所  美郷町・南郷茶屋会議室
演題  「柳田国男・椎葉への旅」

受付 14:00~15:00 
        総合司会  綾部正哉氏
15:00~15:05  開会の挨拶 秋本 治氏
15:06~15:10  講師紹介  黒木勝実氏
15:10~16:30  講演   永松敦先生(宮崎公立大学教授)

①基調講演「柳田国男・椎葉への旅」

講師紹介:黒木勝実氏
 本日は、「柳田国男100年の旅」にご参加頂きありかどうございます。それでは、さっそく本日の講師をご紹介します。講師は宮崎公立大学で民俗学を担当しています永松敦先生です。  先生は、椎葉とのご縁が深い方で大学在学中には、椎葉に一年間も住み込んで椎葉の民俗文化について調査研究をされ、早稲田大学の椎葉神楽調査隊にも加わられて26地区に保存伝承されています椎葉神楽を文字と映像に記録するという大変すばらしい業績を残されております。
 大学卒業後は、福岡市博物館に勤務の後、椎葉村の職員として博物館の建設に関わり、全国でも珍しい椎葉民俗芸能博物館の建設計画から資料の収集、展示までの一切を取り仕切り、その後も10年間椎葉の民俗文化の発信に大きく貢献されました。椎葉の民俗資料や焼畑、神楽など、椎葉は民俗文化の宝庫であることを遺憾なく発揮していただきました。そのような活動が認められまして現在の宮崎公立大学から招聘されることになりまして、今日に至っております。
 本日は、柳田国男100年の旅の出発に際してましてご多忙のところ時間を割いてご講演いただくことになりました。題して「柳田国男椎葉への旅」を1時間半講演いただきます。以上で講師の紹介を終りますが永松先生どうぞよろしくお願いいたします。


永松敦先生講演

はじめに
 皆さんこんにちは、宮崎公立大学の永松です。秋本さんとか黒木さんにはいつもお世話になっております。椎葉に赴任している時、秋本さんからタイシャ流のシンポジウムで呼んで頂いたり、霧立越も歩かせて頂きました。黒木勝実さんとは学生時代からずっとお世話になっておりまして、この方のお願いで「して」と言われたら他のスケジュールを全部蹴ってでも来ないといけないのです。私のほうは、名古屋大で国際シンポジウムがあって発表することになっており、実は今日からだったんですけれども、一日ずらしてもらって今日ここで話をして、名古屋では明日9時から講演しなきゃいけないという状況です。江口さんにもお世話になっておりまして、訃報を聞きましてほんとに驚きました。
 さて、『柳田国男100年の旅』は、これはなんと言っても牛島盛光先生です。元々熊本商科大学の先生で、この方の「日本民俗学の源流」という本があります。牛島先生が椎葉村誌編纂に関わられた関係で「柳田国男と椎葉村」の項を執筆された時、柳田国男の書簡、お手紙や葉書とかいろいろ集められて、どこをどういう風に、どのルートを通って椎葉に入られたか、というのをかなり細かく検証されています。
 それで、この「通り」のお話を、今日のテーマだと、そうすべきだとは思ったのですが、それは、皆さん方も恐らくそれくらいの本は読んでおられるでしょうから、僕が話しても「この人は全然勉強して来ずにただこれを読んで話をしている」と思われるのも何でしたので、ちょっと硬めの資料を用意しました。で、その辺りの皆さんの反応を見ながら話のウエイトをあっちやったり、こっちやったりしようかなと今考えております。

柳田国男の背景
 それでは、本題に入ります。明治41年の7月13日に柳田国男先生が来られています。有名な話ですが、1週間椎葉を歩かれました。それが、皆さんも歩かれるルートなんですけれども、この時にどういうお立場で来られたかというのがすごく大事だと思います。柳田先生は兵庫県のお生まれです。途中で関東の方に住まわれまして、そこで非常に農民が貧しいという事で、「なぜ農民は貧なりや」と、なぜ貧しいのか、この人の出発点はそこなんですね。
 少年時代に土蔵にこもって本を片っ端から読んで、とにかく柳田国男先生の読書量ってものすごいんです。それで、小さい時からもう民俗学者なんて言われる。10代頃から詩とか歌とか、歌集も出されているというスーパースターでありまして、その頃の本を、実は椎葉の博物館に勤務していた時、僕も買い集めているんですよ。
 それで、明治41年に来られて、翌明治42年に有名な『後狩詞記』という本、今日お話する「狩の巻き」というお話ですが、その本を出されました。それから丁度90周年という時、今から9年前に椎葉の博物館で特別展示と、それからその方面の権威である後藤総一郎先生とかいろんな先生をお招きして、講演会を椎葉でやったことがあるんです。その時の展示に使う為の本をいろいろな古書店から買い集めました。
 一般的に、柳田先生の本を読むのは、筑摩書房から出ている『柳田国男著作集』とか『柳田国男全集』を買えば済むことじゃないかと思われると思うのです。私もずっと90周年の仕事をするまでは、そう思っていたんです。全集の方がいいと。ところが原本読むってすごく大事なんですよ。何が大事かというと柳田先生のお仕事は昔話の本からもういろいろあるんです。昔話の本などは、大き目の本の版で絵を書かれているんですね。これは、どうしてこういう形にしたのかというと、日本の民話をお母さんと子供で読んで欲しい。だから、その版が大きくなって、それを見てもらうとき、その本の体裁とか装丁というか、そういうものによって、柳田先生の意思というのがすごく伝わってくるんですね。それが、全集になると活字は一緒なんだけれども、思想が全然伝わってこないんだというのが、僕はすごく勉強になりました。
 例えば、民俗学者になられる前の本では「なぜ農民は貧なりや」と考えられて、東大の農学部に進まれるのです。それで農商務省というところに勤められます。今の農林水産省にあたると思うんですが、いわゆる農政学、農業政策をやられる。農民は、自分が小さい時から働いても働いても豊かになれていない。農業って何なのかと。それをヨーロッパでいろいろ見てこられて、そこで日本でどういう風にしたらいいのかと考えられるために、東大で勉強されて、農商務省という国の役人になられる訳ですね。その立場で九州旅行をされる、そこがすごく大事なところなんです。
 明治の内に熊本とか、あちこち行かれて「いや、実は九州の中に焼畑をやっている面白いところがあるんよ」というようなことを聞かれる。それで、宮崎に行って宮崎県知事に会われるわけですね。そこで、「私も椎葉に行きたい」といわれた。「えー、そんなところに行くんですか」という話になって、「いや、それでも行きたい」と。当時、電話もない電信の世界ですよね。それでこういう人が行くというと村は大ごとになる訳ですよ。「うわー、何でそんな国の役人がこんなところまで来るの」という話になって、と。そんなところまで牛島盛光先生が検証されて、いろいろと整理されているのですね。その頃、明治の頃に作った石碑とか、道しるべなんかも結構あるんですね。それを牛島先生ずっと写真撮られて「ここも通ったんだ」と。
 ところが、昭和30年代にNHKの「ここに鐘は鳴る」という番組で、柳田先生が晩年の頃ですね、出演されて、その時に当時中瀬淳村長の息子さんかな、出演されていますね。そこで話されたのが「椎葉には、どこから入られたんですか?」とアナウンサーに聞かれて「いや、人吉から入りました」と。しかし、それは絶対嘘なんだということを牛島先生が一生懸命検証された。人吉からじゃなくって、神門から笹の峠を越えて入られたんだということを検証された。まあ、研究なんですけれども。そういう意味で柳田先生がまだ民俗学者ではない頃に来られたというのがすごく大事なんです。民俗学者という立場ではなくって農政学という立場で山村の農法を見たい、しかも焼畑を見たいというのがありました。
 ところが、それまでのこの人の研究テーマというのは、まぁ小さい頃から天狗の話とかいろんなことを書かれていて、民俗学ではないといいながらもそういう民俗、宗教っぽいものにすごく興味を持っていた。その中でも特に、『山人研究』いわゆる『ヤマビトの研究』というのをすごくされていて、日本人の祖先というのは、平地民じゃなくって山人であるということ、山の人なんだということをすごくいうんですよ。それで、どうして山人なのかというと、稲を携えて来た人というのは後から来た人だと。分かりますか?。だから、いわゆる南方系とかあるいは大陸から稲が伝わって来る訳です。よそから来るんです。
 その前に、山人、山の中に住んでいる人達、その山の人の伝承というのは、まぁ長野県辺りでは「ダイダラボッチ」とかありますけれど、大男であったりとか、そういう原住民がいて、その人達は実はアイヌに繋がっていくということ、とか、まぁそういう構想を持っていられた時期があるんですね。ところが、平地民がどんどんやって来て同化してですね、その中に埋もれてしまったんだということをいうんです。これが明治40年位の発想ですから。
 これは大変な話なんですよ、戦前にですね。我が皇(すめらが)命(みこと)の、いわゆる天皇家が持ってくるわけです稲というのは。新嘗祭なんかで分かるでしょ、いかに新しい米を作ってその穀糧を天皇が食べて新しい次期天皇になるか、という事をやる訳で、それに対して「いや、それは後からやって来た人で、本当の日本人は違うんだ」とものすごくいうんです。僕もこれ読んでてぞっとしましてね、大丈夫なのかなと。だから、遠野物語という一番有名な本、『後狩詞記』というのは明治42年、その次の明治43年に出た『遠野物語』というのを読んだ時に、この中に「平地人を戦慄せしめよ」という有名な一文があるのをご存知ですか。いわゆる、これを読めば遠野の山人の話がいっぱい出てくるんです。これが本来の日本人なのであって「平地人をやっつけてしまえ」というような結構過激な事を書かれているんです。
 それが他の本を読むと、日本人は稲を携えて来た我が皇(すめらが)命(みこと)の一行の人々を指している訳です。分かりますか?。だから、後からやって来たんだとものすごくいうんです。これ、戦前にこんなこといってて国家の役人でしょ。大丈夫なの?。と、いうような事を結構過激にいっているんですね。まぁ、私は柳田研究者ではありませんから、先程いいました『後狩詞記』の発刊90周年の記念事業で、後藤総一郎先生、この方も亡くなられたんですが、おしい方だったんですが明治大学の教授なんですけどね、その方にその話をしましたらこう言われました。「大変だったんだよ。遠野で講演をされて憲兵にストップを掛けられたこともあった」とか。柳田先生は、そういう思想の持ち主ですよ。
 ところが、その後、同化されていったというのが日本民俗学会の、そこは柳田先生に対する批判です。米中心になっていくという批判があるんですけれど、ただ、そうしないと生きていけない部分がどうしてもありますから、僕は批判に値しないんじゃないかなぁと、いつまでもその思想はもっておられるし、その「山人研究」というのは後々、後の民俗学者である、折口信夫(しのぶ)の『まれびと研究』という本に繋がっていく部分というのがあるんですね。ところが折口信夫(しのぶ)というのは「死者の書」でも有名で文学作家でもある。信夫と書いてしのぶと読むんですけど、折口先生の方が短命で早く亡くなるんですよ。柳田先生の方がすごく長いです。昭和37年位じゃないですか、生きておられたのは、元気だったのが。明治の頃は、まあ大正デモクラシーという時期も相まっているかもしれませんが、かなり思い切った事を言われているという、確信的な思想的なものを持っておられました。
 どうやって、その農民を豊かにしようかということで、当然その国家公務員ですからヨーロッパとかでは社会経済史などいろんなことを学ばれて、「産業組合法を作るべきだ」、「農民の中に組合を作るべきだ」。などと盛んに言い出します。だから産業組合法なんかの本は、早いうちに出されたりしているのですねえ。そういう柳田先生を語る場合、民俗学者になる以前の思想というのをしっかりおさえておかないといけなくって、それで椎葉に来ました。

文書の出所を解明
 その時に出会った人が良かったんですね。中瀬淳村長、これは素晴らしい方ですよ。この方が居なければ、恐らく柳田さんは大成しなかったとおっしゃいます。そういう面では、中瀬淳村長は、すごい陰の功労者です。読めば読むほど、調べれば調べるほど中瀬淳さんというのは素晴らしい村長さんです。ほんとに一生懸命お世話をしていろんなものをお見せして、こんなんがあり、あんなんがあるよなんてね、この本の中でも中瀬淳村長と共に一緒にお世話した桑弓野の郵便局長さん、黒木勝実さんのお父さん、黒木盛衛さんですね。もう亡くなって写真もあがっていますけれども、やっぱり親子で同じことされているんだなぁと。黒木盛衛さんて、柳田国男先生の総合作品でちゃんと触れているんですよ。話がちょっとそれますが、猫を飼うのに猫箱といって囲炉裏の側に置いておく猫を飼う箱があるんです。それを柳田国男先生の元に手紙を送られて、そのことが柳田国男全集の中にちょこっと出てくるんですよね。そういう事を昔から代々されておられるという感じなんですけれども。
 柳田国男先生が1週間椎葉を回られた。その時に、いろんな庄屋さんの家を点々と歩かれるんですね。松尾の庄屋掛だったり不土野の庄屋とか歩かれています。ところが、大河内だけは庄屋ではなくて村会議員さんの家に泊まっているんですね。僕もちょっと不思議だったんです、なんで泊まったのが庄屋さんじゃないの、と。ここで有名な「後狩詞記」の本になる狩猟の「狩の秘伝書」を見せてもらうんですよ。僕もちょっとこれ、わからなかったんです。
 ところが、この人が帰って九州旅行のお金が余ったと。まぁ、今だと公費が余ったらしめしめと思うんでしょうが、勿体ないから、せっかくだから、と、椎葉の本を出そうと思われるんですね。それが「後狩詞記」なんですけれども。その本を作るのに中瀬淳村長に「もっといろいろ資料を送ってください」と、狩の聞き書きとか。それで書くんだけれども足りないので「もっと送って」となって、三通往復書簡があります。この三通とされていますが、もう一つペン字のものが一通あるんですよ。それは博物館に展示されてると思うんですけれども、そういうものがあってどんどん書いて送られるんですね。
 それでまとめた物が『諸国叢書』という本で今、成城大学民俗学研究所が持っています。私は、これを全部写真を撮らせてもらいました。そうすると「後狩詞記』として出てくるのはその諸国叢書の中のほんの一部なんですよ。それ以外何を送っているかというと、『椎葉山由来記』それから『椎葉山根元記』の写し、それから村会の議決書みたいなものが入っていたり、それからその後に大事なのは大川内の民家の系図がずーっと載っているのがあるんです。長い紙にちゃんと書いてある、もの凄く丁寧にされているんですね。それを僕は全部写真にして、パネルにして博物館に展示しました。この前の台風被害に遭わなかったというから博物館持っているはずなんですけれども、それをずーっと展示してたんですね。全部の、中瀬さんが一生懸命やった仕事を全部出したんです。中瀬淳村長は偉い人だと僕は出したんですね。
 それを見に来られた人が下の郵便局の今朝義さんと大河内の方が来られて「これはうちの家計図だ」と言われたんです。「えっ、これはしめた」と思いましたね。ここに出てくる、その「後の狩の巻き』に出てくる那須さんという江戸時代の人の名前なんですけど、それがきっちり出てくるんですよ。だからこの『狩の巻きの文書』というのは、江戸時代の大川内掛庄屋が持ってた文書だという事が分かったんですね。これは凄く大きな事だったんですよ。だから何で村会議員の家に行ったのという話になると、なんかその時に、家の跡継ぎか何かの問題でちょっと家が空き家になっていた頃があったと。それで大事なのは全部一番近い血縁関係の人の所に置いていて、そこで柳田さんに泊まってもらってそれを見たんだと。だから、これが元々ほんとの大河内掛庄屋の文書だった、という事が始めて分かって、あれは展示して成功だったですね。良かったと。そういう事がありました。だから、ここが今日のお話のポイントなんですけど『椎葉の狩の文書というのはじゃあ誰が持っているのか?』という問題なんですよ。これが柳田研究が新しく切り開いてくれた分野なんです。
 こういう「狩の巻き」とかいろんな「文書」があるのは、椎葉の識字率が江戸時代もの凄く高かったからと思われます。膨大な量の金銭文書が残ってますよ。何でこんなに字を知っているんだろうか、という位ですね。椎葉の人って学生時代から、今から30年位前から年賀状のやり取りしてますけど年配の人とか凄く達筆なんですね。抜群にうまいですよ。それぐらい字を知っておられる。はっきり言って僕が小さい頃ってのは、まだ文字が読めない書けない人が多かったのですよね。うちの親戚にもいますよ。九州の田舎の方にいますけれどまだ読めないおばぁちやんがいました。椎葉の識字率はそんなものじゃない。ほとんど書けるし読めます。素晴らしいところだなあと思いましたけど、それくらいみんな書くんですよ。そういう文書類がもの凄く沢山作られて書写される。書き写されるんです。それをずっと紐解いていくと庄屋さんの子供の手習い本なんかにもなっていくんです。だから『狩りの巻き』のような山の神の唱えごとなんか全部ほとんど平仮名で書いてますから、平仮名の手習い本として凄く利用されるんですよ。椎葉の中の寺小屋みたいな所でどんどんどんどん書写されるから、どんどんどんどん増えていくというね。そういう現象があるという事が凄くよく分かって、字が皆書けるんだなというのが凄く分かりました。

巻物と文書
 それで、初めて柳田さんが見た文書。この人は中瀬淳さんとの話で何に感動するかというと、まず狩りの秘伝書見たんです。これはすごいものだということがわかったんですね。で、私が作った資料に『寛政5年、那須資徳』という資料の資に徳という字、ちよっと見て下さい。この人が実は庄屋さんの人だというのが分かったという事です。
 『狩りの巻き』という巻物があります。秘伝書というと巻物というイメージが強いんですが、まぁ『狩の巻き』というのは巻物なんです。ところが、九州の中で椎葉も含めて鹿児島も含めて『狩の秘伝書』が巻物の形をとるというのは非常に少ないです。どちらかというと普通の本を開く形なんです。巻物もあんまりないです。ところがお手元の資料に出したのは何かというと巻物入れです。同じ猟師でも東北地方の「またぎ」といわれる熊狩りをする人達ですけれど、秋田のまたぎは有名なんですが、巻物入れというのは、絶えずこういう物を毛皮に張ったものを持っているんです。これ何で持っているのかというのと、巻物にする意味は一体何かと言うと、持ち運びが便利だからです。だから、狩りに行く時には必ずこれを持って出ないとだめというまたぎの掟があるんですね。ところが、九州の猟師の場合はこれを持って歩くという習慣がない。それが大きな違いです。僕は、たまたま子供と一緒に「日本漫画昔話」をみていましたら、秋田県の大館市の話で、この文書を持っているといわゆるお墨付きなんです。
 例えば木地師ってご存知ですか?。五ヶ瀬町は木地屋の里ですけど、木でお椀を作って放浪気味であっちこっち行って勝手に木を切り取ってお椀とか作って売っていく職人がいるんです。五ヶ瀬に行かれるとよく分かると思うんですが、その人の特定の為に自分達は惟(これ)喬(たか)親王というですね、天皇家の子孫であるという、まぁ偽文書なんですけど、偽の文書を皆持っているんです。巻物を持っていて、それを見せて「我々は、何処の山でも天皇のお墨付きの文書ですから七合目以上の山の木は全部使っていいんだ」という、そういう書き物を持っているんですよ。各自持っているんですよ。だから何処でも使えるんですけど本部は何処にあるかというと、滋賀県です。滋賀県から全国にザァーとその木地師が活躍をしていくんですよ。もう、それは東北から九州ここまでですよ。だから五ヶ瀬の木地屋もそうなんですけどね。そういう文書を持って権威付けを計っていく。巻物にするというのはポータブル化で持ち運びしやすいという事なんですね。
 秋田の子供のまんが昔話はこういう話で『江戸時代に定六という猟師がおって有名な鉄砲撃ちだと、それが巻物をこの日は忘れて持たずに行っちゃったと、他の領地に行ってしまってそこで猟をやってイノシシを射止めた。それで持ち帰る時に「お前誰の許可があって猟をやっているんだ」と言われて捕らえられた。私は「またぎ」だからやっているんだ。と言い張るんだけれども持ってない。そこで飼い犬の猟犬が家までわざわざ取りに帰って来るわけです、その巻物を取りに。神棚に納めてあるのを取りに帰って戻って来たんだけども、その時には処刑されていた。そして、その犬はもうカチカチに凍って固まって死んでしまった。』それを祭っている老犬神社が秋田県の大館市にあるんです。それ位「またぎ」というのはこれを持ってないといけない。その「またぎ文書」の巻物は、どういうふうに書かれているかというと、お産の穢れ、血の穢れは絶対ないから山に入らせてくれと、そういう文書なんです。

秘められた物語
 ところが、椎葉の「狩りの巻き」の場合はそうではありません。内容は、山の神のお産を助ける話です。どういうことかというと、「ダイワ」、「ショウワ」という二人の猟師が山に狩に行くわけです。ところが、一人の猟師は山の神のお産に出くわするんですが、山の神のお産は血の穢れというものがあるから避けた。それに対してショウワの猟師というのは、ワリゴというお弁当をたべさせて山の神の介抱をしてあげたんです。それで山の神の子供がいっぱい生まれた。山の神は「あなたには、いっぱい獲物でお礼をやるから」という事で獲物をたくさん獲らせるというお話なんですね。
 その「狩りの巻き」の文書と、椎葉の中で伝えられている昔話にはちょっとズレがあるんです。昔話の方では沢山獲れて困る。それで嫁ごに肉を売らせに行った。町まで売らせに行ったんです。ところがどんどんどんどん獲れてですね、毎日毎日売りに行った。その間に、川が流れていて橋があるんです。その橋から、ある日自分の姿を水鏡に写して見ると頭の毛が全部無くなっているわけなんです。それで、こんな姿で町まで売りに行くのは恥ずかしいと思って、川に飛び込んでオコゼの魚になってしまったというお話なんです。古文書の方は女房が売りに行ったという話ではなくって、そこの雇われ人というか下人というか、そのセガコという人とタツコという二人の人がいて、セガコの方が川に入ってアカハエの魚になって、もう一人が海に入ってオコゼになったという、オコゼ起原の物語りになっています。  オコゼってご存知ですか?。これは全国の日本の「山の神祭り」でオコゼを供えるのは絶対出てくるんです、何故か。これは、柳田以来ずっとわからずに続く話で、山の神とオコゼという論文があるんですが、なぜかということが100年間経ってもまだわからないという話なんです。一番古い文献では鎌倉時代の陰陽道の文献に『京都の山の神祭り、オコゼという魚供うるなり』という一文が出てくるのはあります。
 そのことで狩猟の文書の中でも柳田先生の見つけたこの「狩りの巻き」とは内容が非常にきわめて特異なんですね。と言うのはいわゆる昔話のお話としては、「カチカチ山」とか、「さるかに合戦」と一緒なんです。片方は悪い事して片方は良い事して、その人が報われる話なんだけれども、報われた方が、嫁さんが死んじゃうという話になっちゃうんですよ。これがどうも椎葉から米良辺りの特色なんです。何でだろうと不思議でしょ。山の神を助けてたくさん獲物をもらった。だから、なんとかをしなさいよとか言うんだったら話も別だけど、そう言ってないのに悲しみに合うというのはおかしな話ですよね。
 これは、なにかといったら動物の死霊です。死んだ動物霊が祟ってるという見方ですよね。その為に猟師さんというのは毎回毎回、山の神とかこの辺りの狩猟神である「コウザキ」という神に内臓を七切れにして供えたりとか、御幣を切ってそれを血染めにして内臓をくっつけて血染めの御幣を供えたりとか上手い事やってますけどね。そういう事をやって、毎回毎回ちゃんとお祭りをするんですよ。そうしないと動物の死の祟りというのはどんどん来るわけですね。だけどやっぱりこの辺りにもちゃんと掟があって猟師というのは一千頭で猟を辞めないといけませんよというのが、絶対あるんです。これは1頭手前の999頭でやめろというものがあるんですよ。それ以上やっちゃうと化け物に襲われたりする。という昔話が山ほど残っています。
 これは、昔話のパターンの一つで、「猫と釜蓋の話」というのがあるんですね。猟師が家で鉄砲の玉を造っている時、飼い猫が近くでコロンコロンと遊んでいる。どうも数を数えているみたいなことです。例えば、五発玉を持っている時、夜中に何か目がバァーンと輝いた化け物が居た。猟師は、何だろうと撃つんだけど、化け物は鉄の釜の蓋を持ってその玉を跳ね返すんです。ところが猟師は隠し玉を持っていて、その隠し玉で撃つと化け物は五発を数えていますので、安心してその鉄の蓋を放り投げて襲おうとした時に隠し玉で猫を仕留めた。だから絶対猟師は隠し玉を持たないとだめなんだという伝承が凄くこの辺りは強いですね。そのように襲われますよという話なんです。
 高千穂町の五ヶ所に『くえもんの話』があります。ご存知の方いらっしゃいますか?。一千頭獲ってやっぱり化け物にやられて、なんとか観音様を信仰していたので、その観音様のお慈悲で助かったという話です。これはいけないと思って、その観音様を自分で刻んで全国行脚に出ます、宮崎の高千穂から。全国ずーっと回って、ある所で夢に出てきて観音様が「この地に留まりたい」と言う夢を見るんです。その場所がなんと山形県の昔は観世音寺村といっていた村です。今は合併して坂田市に入っています。坂田市の旧矢幡町に入っています。そこの浄土宗のお寺がその観音さんをお護りをされています。
 そこから昭和30年か40年くらいに、「実は、うちに宮崎から来たと伝承されてる観音様がある」ということで、当時の高千穂町長に山形から手紙が来たんですよ。それから調査が始まりまして、ほんとに行ってたんだという事が分かるんですね。それから、その子孫の方もおられるんです。その「くえもん」のお墓もちゃんと高千穂町の五ヶ所にあるんですよ。それでお互いにその山形と高千穂がそれから交流を今もされているんです。その山形のお寺は今もあります。観音様見せてもらいましたけど、手作りというよりなんか京都で買ったような金ぴかの観音様なんですけど、今だに祀られている。そこの地区はその観音堂から始まった村だというふうに言われている。場所は「鳥海山」というすっごく綺麗な霊峰のある所の麓にあるんです。その話をしたら「鳥海山」て、ほんとに綺麗な山だから全国いろんなところから"ここに留まりたい"とくる話が多いんですね。でも高千穂の話はどうもホントみたいで、そこにお祀りして、そしてその方は高千穂に戻ったという話なんですね。それで、そういう祟りはあるんだけれども、常々山の神に言われた通りやったのに髪の毛が抜けてオコゼになってしまう。と言うことでオコゼって凄く恐れられています。
 椎葉で昭和30年代までオコゼ祭りをやっているんですね。どういう時に使うかと言うと獲物のない時。獲物のない時にオコゼに頼んで、祈祷さん、いわゆる修験者さんとかである人にお願いをして祈祷してもらうんだけど、効果てき面なんだけどやっぱり祟りが怖いと言うのは相当あるみたいで、その伝承を聞き出そうと、昭和50年代に学生時代に聞く事が出来ましたけれど、今は相当しんどいと思います。博物館の3階に展示していますけれど、尾前地区のシモのコウザキの家、岩富旅館の方からお借りしていまして、昭和33年からオコゼ祀りの文書が展示してあります。それがおそらくオコゼ祭りの最後だろうと思われます。

猟師の女房
 それで、これ凄い面白い話に発展していって、椎葉の猟師さんって女房を凄く大事にするんですよ。何でそんなに大事にするかと言うと、そのオコゼというのは自分の女房だと言うんですね。女房がそうなっちゃったから女房を大事にせんといかんというのがあって、まず獲物が獲れると一番いい「イソジシ」という背中辺りの肉を必ず女房に手渡す、というのがあります。
 例えば、神楽で言うと大川内、一番西米良に近い大川内地区の神楽で『板おこし』といって、神楽の初めに肉を切って供える儀式的な演目があるんですけれど、その時に肉を七切れ串刺しにする、後はいっぺんに多くの串刺しにするんですが、どこにやるかというと台所にいらっしゃるオナゴ衆に渡すんですね。女性に、まず女房に渡す。女房に渡さないと女房って山の神だし、下手したらオコゼになっちゃうんです。だから大事にしないといけないと、これを凄く言われますね。椎葉の伝承ですね。
 これね、猟師の女房の問題って今まで研究されたことがないんですよ。僕、この観点であったら東北地方のマタギなども全国の猟師が、女性を、女房をどう見ているか。女房は山の神ってのはよく言われますよね。だけど、猟師がどういうふうに女房を山の神と結びつけて考えているかという調査を研究をした人はいないんです。これを、これから僕は研究していこうと思っています。椎葉のあたりではかなりこれ出るんですね。「女房は、山の神だから山の方とも繋がっていて山でも守ってくれる」と、これ聞いた時ゾーッとしましたね。外出して何処で誰と会うとかすべて女房に見られている、分かっているといったら怖いじゃないですか。何もヘタな事出来ないという感じがするんですけど、それぐらい大事にされているということです。
 それと、もう一つ言えば、女の人の仕事ってもの凄く大事で神楽なんか見ているとよく分かりますけれども、神楽をやった後の『神送り』って台所に行く事が多いんですね。火の神の方に持っていくとか、荒神さんに捧げるとかいう、かまどって凄く大事なんです。そのかまどの所を祀るのは誰かと言ったら、おなご衆、女性の仕事なんですね。女性になんか供え物を渡すとか、尾前の神楽なんかそうですよね。問答を奥さん女子衆とか竈責任者と言われる人達と交わすとかいう事をやっているように、女性の地位、奥さんの位て凄く高いんですよね。この人達をちゃんと祀らないと家が成り立たない。ヘタしたら火の神怒らして火事になるかもしれないし、食べ物を作るところだから食べる物が無くなるかもしれないという女性に対する神格化、女性を神として崇めるというのは随所に出てくるところなんですね。
 椎葉の綾部先生がいらっしゃる竹の枝尾、小崎地区って、竹の枝尾と川の口とあるんですが、川の口の神楽が今は神社でやっていますけれど、本来民家でやるときは、神送りがちゃんと行われるんですよ。神社でやる時はそこに神様がいるから、神おくりなんて儀式やらないんですよね。家でやるとどうするかと言うと、ぜーんぶ仕切りを取っ払いまして神楽が終わりました。横一列に舞子さん、祝子さんが全部並んで、太夫さんが「苧ゴケ」といって麻の紐をうむ曲げ物の道具、これは火の神さんの御神体といってどの家でも代々椎葉は祀られていますけれど、それを持って歌を歌いながらずーっと台所の中に入って行くんですね。「この宝、誰にゆずろう三笠山」という歌を、鈴でシャラシャラ鳴らしながら歌って、その宝というのは、その火の神の御神体となる「苧ゴケ」を、その釜元にいるその家の奥さんに渡すんです。それが神送りの儀式なんです。
 だから、冬の年祭りというのは、一年で一番大事なお祭りで、祀った神々を一番にもらい納めるとこはどこかと言うと「竈」であって、その担い手はその家の女房なんですね。それぐらい女房というのは神の使い手として凄く大事な役割を果たしている。だから猟師の場合もそれは凄く女房を大事にしないと山で怪我をしますよという話になっています。それがこの柳田先生の発見された、狩りの巻きのなかに全部集約されて書かれている。そういう視点で読んでみると非常に面白い文書という事です。

口伝と文書
 せっかく椎葉に行かれるんでちょっとご紹介しとこうかなと思うんですが、あの上椎葉の鶴富屋敷にですね、まぁ正式には那須家文書。今、鶴富屋敷って観光化されてから鶴富屋敷と言ってるんですけど、屋号はオモテですよね。鶴富姫がいらっしゃったという所なんですが、こういう由緒書きというのはもの凄く多く作られます。資料の二枚目がそのプリントなんですが、そこに下の所に矢印をピッと出しましたが、そこに大八郎宗久と書いてあります。これは「ダイハチロウ、シイノハ、ヲモッテカゼヲフセギ、マコトニ、シイバヤマナリケルヨシ」と、だから大八さんが十根川の方にやってこられて、仮の家を造った。それを椎の葉でもって風を防いだから椎葉山という名前になるんですよという事が書かれた由来書です。これはいっぱい写本がありますけど、鶴富屋敷さんが持っておられる。今は博物館が持っているかもしれませんが、そういう事が書かれています。
 こういう由来書と言うのはどんどん作られていくんですけれども、この右側の下にある写真は、椎葉村の不土野。もう亡くなられましたけど、椎葉喜蔵さんという方が、猟師さんがいらっしゃって、今息子さんの幸一さんという方が猟師されていますけれども、小正月に毎年、椎葉に行ってたんですね。一遍行った時はシカ、二年目に行った時はこのイノシシが「シシ吊り」と称されて祀られてる。頭を北向きにする、いわゆる成仏するように、これで一晩は置かないといけないという掟があるんですね。これね、すごく面白いのがその両脇にやじろべぇが見えるでしょ。これは何なのかとすごい面白いですよ。
僕もこれを見て大発見したのです。おもちがこう二つあって、やじろべぇ。玩具ってこういう宗教的な事からくることが非常に多いんです。駒とか羽子板とか全部まじない道具です。平安時代くらいからのまじないの道具なんですね。羽子板なんてまさしくそうで、合戦やって、けがれがどっちにあるかという占いみたいなものです。それで負けると「あんたに穢れが、災いがつきましたよ」、と言って墨でバッテンがつけられるのです。だから真剣勝負なんです。自分の所に災いが来たら大変だから。ここでは、名前はなかったんですけれど、これは球磨郡に多い習俗で、球磨郡では「しゅんなめじょ」と言うんです。昔の須恵村とか人吉盆地辺りで作る小正月の作り物です。それが不土野辺りまで伝わってて、やじろべぇを作った。ご覧になるのは初めてじゃないですかね。僕は、平成の初め頃見てびっくりした事があります。これは凄いと。これ郷土玩具で売ったらいいんじゃないのと、そういったこともありましたけれどもね。
 次の文書は「猪吊り」の習俗なんですけれども、鹿児島の文書で、内之浦町、今合併して名前が変わっているかもしれませんけれど、岸良という所に、大隈半島には同様の文書が沢山作られています。その中でこれ江戸時代、嘉永三年、1850年からの物ですけれども、『射タルシシノ頭ヲ其日ヨリ三ツ目ノ方ニムケ鉄砲サシ当テシテ祭ル者也。仕様伝有リ』とあります。イノシシがこういう風に吊るされているという。おそらくこういう書き物にのっとって行事がなされてるという事です。「右シシ早く祭ル物ナリ」だから獲ってすぐ祀りなさいよ。
「サシ合有リケル、ワカラズトモ、ミギソウラエドモ、クルシカラズ、マツリソウラエテ」、ここが面白いですよ、「シシトカラダニナルナリ」と書いてあるでしょ。これどういう事ですかと。これは動物のシシの霊と体、いわゆる霊と肉を分離させてくださいという事なんですよ。これは凄く大事な事で、猟師さんが獲ってきて解体して、いろんな作法をやります。そして荒神さん、山の神さんに祀ります。そして女房にも渡します。これは全部、神聖な儀式なんですよ。それをやって、女房は山の神でしょ、山の神と一緒に、まず獲った仲間と一緒に囲炉裏の端でこれを食べるんです。それが何なのかと言うと、神と人との共食ですよ。神と人とが一緒のものを食べる、お祀りをやってお供えものを一緒に食べる。これはどこでもやりますよ。それが共食なんですけれども、神と人とが一緒になってそこで食べるという儀式を一緒にやる事によって、シシの霊、死霊と肉とを分離させるという、そういう儀式がここでは行われる。そしてそれ以降は誰にでも子供にも分けて食べさせていいですよ。けがれも何もないですよ。とそういう事なんですよね。だからそういう厳重な宗教儀礼が実はここでなされてるという事がよく分かるという、そういう儀式ですね。
 最近、ずっとこれ読んでて、えーそうなんだという事が分かってまいりました。こういう儀式が今、民俗学ですごく問題になっているのは、口承いわゆる口で言い伝えられたものが先にあって文字化されていくのか、あるいは文字がこういうものがあってそれを書写されて書き写されてそれが猟師に入ってこういう儀礼ができるのか、その前後関係がほんとに分からない。だけど長々と唱える唱え事とか、特に神楽の場合そうですよね。神楽歌とか荒神様が出てくる問答とか、竹の枝尾神楽の「やどかり」の問答とか。ああいう長い物はやはりテキストがちゃんとあって、それから作られる。いわゆるこういう本が作られてから儀式が出来るという風に考えられるんじゃないかなと今考えています。そういう山の神に関する唱え事が後々どうなって行くかというと、時間が余れば後で東北の話をします。

祭文
 資料の4枚目に椎葉村の竹の枝尾神楽があります。これは全国にも珍しい[やどかり]という演目で、蓑と傘とを携えて竹杖を持っています。その人が神楽宿を訪れて、「おんやど申し候」と、一夜、宿に泊めて欲しいという言い方をするんですね。だけど主人は「おんやどなるまじく候」と、いや、泊まらないで下さいというふうに断る、それから問答が始まるわけです。この蓑と傘と杖をつく形って一体何かというと、これは東北地方のナマハゲとかですね、あるいは県南の方からいらっしゃった方はご存知と思いますが、例えば都城市の「カセダウチ」ですね。そういう我々の来訪神という、来訪する神という形の中に入るんですね。それで蓑と傘を着けるというのは、雨の日は着けていいんだけれども、雨の降らない日にこれを着けるというのはもの凄く、今で言うタブー視されることなんです。お化けとか妖怪とか、あるいは死んだ人の姿なんです。だから人は死ぬと旅立ちさせるんだといって、蓑・傘・杖をつけてお棺に納めるでしょ。それと同じことなんですよ。死者って、決まっているわけではないのだけれども、この世にはない形なんですね。それが蓑・傘・杖で象徴されるんです。
 神話の中で出てくるのは、例えば日本書紀でスサノオノミコトが悪さばかりしてアマテラスオオミカミが天岩戸隠れするでしょう。それで古事記には載っていないけれども日本書紀には出てくるのがひとつあって、スサノオノミコトがソコツネノ国、いわゆる地下の国にいってしまう、追いやられてしまうんですよ。そこで雨が降ってくる。そこで蓑・傘をつけてソコツネノクニの神に雨宿りをさせてくれと頼みに行くというお話があるんですね。そうしたらお前みたいな汚らわしい奴は泊めてやらんと。お前が天上界でお姉さん、アマテラスオオミカミを困らせているのを知っているから入れないと断られるんですけどね。その時より、人の家に蓑・傘を着けて入る事を忌むと言う、と出てくるんですよ。あるいは、藁束をたくさん持って人の家にいくことも忌むというんだと。これをした奴はお祓いをしないといけないと。そういう一文がちゃんと日本書紀の中に出てくるんですね。これはですね、今でも我々が冬の寒い日にコートを着ていると、家に入る前にちゃんと脱ぎなさいよという事を躾けないといけないんですけど。日本人が何故、防寒具を玄関先で脱がないといけないかというと、実はこれから来るんですね。そのまま入っては行儀が悪いと、これは忌むという掟なんです。だから蓑・傘というのはそういう道具です。
 そういう姿のままやって来て、主人は「おんやどなるまじく候」というふうに断ります。主人が『ほっと承り候、前から見ればおさえたるが如くして、うしろから見ればふりくるいたるが如くして、赤ひげにさるまなこのおんやどとのたものしさ、おんやどとなるまじき候』と、なんか見たらお化けみたいなんです。赤ひげに猿眼をしてよく宿をくれと頼もしく言ってくるなぁと、「おん宿なるまじき候」と断ります。
 そこから旅人の話は面白いんですが、『ほっと承り候。我等こそ是より山口にさし入りて歌ふたる歌妻は、』おそらく歌という何かそういう呪歌みたいな、呪いの歌のようなそういう歌、古い言葉だと思うんですが『なにとて歌はせ給ふや、みな人は山口しむる山廻りを中山しめてわが山にせんとさんどうと歌ふたる歌妻のいはれとか承り候』という風にあって『山口しむる山廻りを、中山しめて我が山にせん』とはどういう事かと、これはその次の『中山しめて奥山に』という風にずーっと続いて行くんですね。この人一体何者かというと山の神の使いみたいな人なんです。その人達が山の口から山廻りをして、中山辺り、中腹辺りを自分達の領有をするという、そういう言い方なんですね。
 神楽の中で『しばひき』という演目がある。芝を観客と引っ張り合う。あのときの歌が『この山は、主ある山か主無き山か、主無き山なればわが山にせん』という歌い方よくしますよね。神楽の中でね。あれはどういう事かと言うと『山の神はこの山の持ち主なんですよ』ということを主張する、占有するという、そういう儀礼が入っている。これも山の口から中山を自分の物にして、中山を廻って奥山に入るということをいう訳です。ということは、この『山の口、中山、奥山』というこの三つの所をいうのは何かというと、山の神の祭文なんです。祭り文句なんです。必ず山の神の祭文というのは奥山と中山と山の口の3か所で山の神を祀るんです。
 これはもう平安時代からそうなっていまして、これが発展するとどうなるかと言うと、皆さんよくお寺に行くと、「奥の院」てあるでしょ。お宮さんでも「奥社」てあるでしょ。下にあるんだけどもう一つ上にあるでしょ。あぁいう物を我々修験道の研究から三社院性という風に呼んでおりまして、「山のくち社」、「ちゅう社」、おく社』、それは「中の院」、「奥の院」、その手前に「門前」があってという。これが三つのパターンです。これは元々の山の神を祀る場所なんですね。だからその「山の神祭文」というものがちゃんとあって、文字化されたテキスト、いわゆる本となった物があって、それが神楽の方でどんどん利用されるようになっていって、いろんな演目が出来ていくというパターン。おそらく神楽から山の神というのはちょっと考えにくいんで、山の神の唱えごとの方が先に成立して、それから神楽へと本がどんどんどんどん作りやられていろんな演劇が出来ていくという風に考えた方が妥当だと言う風に私は考えています。

自由往来の山の民
 それでせっかく平家落人のところなので、平家落人関係の本に焦点を当てると九州ではカンス(貫主)、猟師の中では貫主本、いわゆる巻物は少ないという話をしました。何故かというと、それを持っている家を調べるといわゆる「大川内掛庄屋」とか、あるいは「小侍」、ちょっと小役人級のいい家にそういう物が置いてある。という事になると、全部の猟師がその書きものを持っていたというよりは、山の神を祀る家というか、尾前だと「かみのコウザキ」、「しものコウザキ」みたいに、なんか特権的な家がそれを持っていて、そのところに肉を持って頼みに来る、で、それを読んであげる。そういうことによって肉をもらっていく。まぁ、我々歴史をみるものでは「神威統治」という言い方をするんですが、精神的にこう統治をしていく。そういう形で、使われていたんではないかと、九州の方はですね。
 それに対して「またぎ」の方は、やはり東北から全国に歩き回るところがありますから、全部が各一人一人が司祭者だと、山の神の司祭者だという意識が非常に強い。だから全員がポータブルに持って歩いていたのではないかなという感じはするんですね。
 現役時代の「またぎ」は凄いですよ。東北も秋田も「またぎ」が何処まで行ったかというと奈良まで行っているんですよ、全部歩いて。彼らは山の抜け道というのがあるから、まぁ今回の霧立越もそうなんですけど江戸時代まで。
 「秋田またぎ」の行動範囲は、草津温泉まで行っているんですよ。群馬県です。秋田から新潟越えて長野を越えて群馬まで全部尾根伝いです。草津温泉で何をするかというと冬の湯治場なので、そこで下駄を作ったりとか熊の肉を温泉宿の料理用に、温泉宿と非常に結びついた行動をとるんですね。そういう意味では山の民っていうのは凄く行動範囲が広いという。それを今度は九州に置き換えた時に、やはり福岡の彦山辺りからここまで、ずーっと霧島までの尾根づたい阿蘇も含めてね、来るルートっていうのはそうなんですよ。
 これは、先年亡くなられましたけれど、網野善彦先生という大家が相当言ってた事で、中世の人間と山の民の人間というのは自由往来、動けるんだと。関所も何もなくどこでもひょこっと全然違う所に出れる能力を持っている。だからいろんな文化を担いでいるということをやっているんですね。だから、僕が来た時からちょうどフォレストピアが始まりまして、龍神館が造られたとかですね、霧立越をされたりとかですね。そういうことをされましたけれど、まさしくそれは山の振興というか山の将来の為に当たっていてそれは一番大事な事です。
 だから、どうしても行政単位で、南郷は南郷でとか、椎葉村は椎葉村で、諸塚村は諸塚村で生きていこうと思う方がはっきり言って無理なところがあって、結局みんな自由往来して生きていて、塩を送ったりなんかしている。だから山の中に蘇陽町馬見原みたいにポーンと拓けたところがあったり、鞍岡みたいな拓けた所があったりするのは、まさしくそういういろんな物資が入って文明の十字路があって、そこから枝分かれして山の中に入ってどんどん入って来る訳ですから、山の振興というか山村振興は、今も来る途中送迎して頂きましたけれど、限界集落とかいろんな言葉が出てきましたけれども、行政的にそういう言葉を作るのは好きなんですよ。それは何故かと言うと、自治体が勝手に線引きをしちゃうからそういう風になっちゃう訳で、人々は行政とは関係なく自由往来している訳ですから、民俗学の論理に則れば限界集落なんて事を言う前に、山の稜線を歩いてこの地域は全体どうなったらいいかという事を考えた方がいいですよね。そうじゃないと全然意味がない。そうやってみんな今まで生きてきているわけです。猟師もそうです。物資輸送もそうだし駄賃付けなんかもまさしくそうですよね。

狩の文書からの研究
 その中で、巻物がどういうふうに使われるかについて面白い話をちょっとご紹介します。「またぎ」の猟師の場合は、熊のおなかにおいて熊を成仏させる。熊の霊を成仏させるという儀式に使うのですね。巻物って凄く鎮魂の意味があって、魂を鎮めるという意味があります。
 また、福岡県の豊前地方から筑後にかけて面白い芸能があります。太鼓の上に乗っかって巻物の祭文を偉そうに読み立てるおじさんがいますけれども、これを読んでから踊りをはじめるという芸能が多いんです。これはどんな話かと言うと、資料のなかの行橋市の「検地楽」をご覧ください。少しだけ紹介しますね。
 「東西、東西、お鎮まり候へ。そもそも、この音楽の根本を尋ね奉ればいで、その頃は、元暦元年源平の戦い、一の谷、四国屋島、壇ノ浦、長州赤間ケ浜、れいれい方は、追い落とされ」、ここからが面白くて「筑後国高良山に立て篭もる」とあります。高良山は、ご存知ですか。筑後の国の「一の宮」で久留米市にある山なんですよ。ここの神社に平家琵琶なんかが伝わるのですね。「平家物語」にはこんな話なんかはないのですね。ところが、高良山まで平家の落人が逃げたというのです。
 それで「源氏の知略、夜戦に、牛の頭に松明をさし、数万匹を追い散らし時の声をあげ給へば、平家の軍勢、あわて騒ぎ、こ瀬川に沈み給う」。という、これは、倶利伽羅峠です、あっちの話をここに持ってきているんだけれど、牛の頭に松明をさし追い落としたという話です。そしたら高良山の下のこ瀬川というところにみんな逃げちゃったという、それがたたって、平家の亡霊がたたって牛馬を殺していく、病気を流行らす、それを鎮めるために音楽太鼓踊りを始めるんだ、という芸能がいっぱいあるんです。ま、平家落人の話なんですけれども。それが、豊前市の感応楽、行橋市の検地楽、それから大分県耶馬溪の宮園楽が大々的にやっているんです。大きな団扇をもっているんですが、子供を河童に見立ててそれを覆いかぶせてそれを沈めるんですよー、ということをやっているんです。江戸時代の文書もちゃんとあってこれをやっているところがあるんですね。
 こういうことから見ると、狩りの巻物でも芸能の巻物にしても、だだ由来を書いているということよりも、巻物を読むという、使うことによって怨霊といいますか、そういうものを鎮めていく、そういう役割がかなりある。マタギなんかも恐らく、そうだろうと、そういうものを持つことによって、熊ってやっぱり偉いのですよ。偉いというか、神なんですよね。アイヌの熊祭りなんかもあれは神の使いなんですよね。熊に対してはその霊力は強いですから、それが人間に罹ってこないように巻物というのはやっぱり要るわけです。
 じゃあ、それでは椎葉に熊はいなかったかというとそうじゃないです。明治までいるんですね。明治・大正くらいまでいて、今でも大分のあの辺りにいるとか、いないという話がよく出ますけども熊狩りの作法は出ます。狩りの文書の中にちゃんと熊狩りのことが出るんですけれども、そんなに数は多くないですね。ただ江戸時代の本の「名勝物産絵図」の中には球磨郡は「熊の胆」の産地の中にあげられている。
 江戸時代に高千穂に薬草を探しに来た人がいます。『高千穂採薬記』という本が出ていますよね。あの中に面白い話があって、猟師がクマ狩りで「熊の胆」を獲る話が出てくるんですよ。熊を獲って、その「高千穂採薬記」を書いた作者が見ていると、しばらくたっているからどうしたのかなと見ていたら、そこにイノシシがやって来た。そのイノシシを獲ってイノシシの胆を取り出して、熊の胆を半分ずつにして二つにしていたと、いわゆるミックスして偽物を作って金儲けをしていたという。だけど産業になる程の事ではない。
 東北の場合は産業になっていきますから、薬として売られていきますので、薬の廣貫堂なんて富山のね、あれは「熊の胆」で発展してきて、全国にありますから。福岡に支社もありますから、ああいうふうに発展していく訳ですね。これは何と関係するかというと、江戸時代の暴れん坊将軍で有名な吉宗の時に薬の国産化が始まるんです。
 それまで漢方薬とかは、ほとんど中国からの輸入なんです。ところがその頃から、吉宗が「日本でもちゃんと薬を作らないといけない」というて、薬の国産化に入るんです。それから薬種になるものを徹底的に探して、それから「熊の胆」が高騰する。それによって「またぎ」のような猟師集団が藩権力によって組織化されていってノルマを課せられるようになる。そういうルートをずっと辿ってくるんですね。それによって、こういうテキストというか巻物も非常に重要性を増してくるという、そういう事になっているという発展の歴史があるんです。
 こういう研究というのはここ2、3年です。研究の始まりになったというのは。ようやく端緒についたという感じです。私が学生の頃、昭和56年の頃に初めてこのイノシシの絵のついた本を持ってきて、こんな面白いものがあったと研究発表した時に、「お前馬鹿ではないか」と、「こんなつまらん偽文書を持ってきて発表するな」と。「いわゆる偽もんだ」と、「話にならん」と言われて、20代の頃はもの凄く辛い思いをさせられましたけれど、今になってようやく認められたといいますか、50歳になってようやく、なんかこういう研究も大事なんだなぁという、人の一生って大変なもんです。ようやくそういうのが分かった。
 だけど、それは一番最初に誰がやったかというと柳田先生なんですよ。柳田先生が狩りの巻きを見てなかったらこの研究は始まらなかったし、中瀬淳村長はその家に連れて行って、こういう物があるなんていうことがなかったらですね。椎葉徳蔵さんでしたっけ、村会議員の方が「狩の文書」を見せられなかったら、こういう研究は全然話にならなかったのですよ。

椎葉流もてなしの心
 そういう、ほんとに大きな、今日は別の面で、地域振興とかいろいろな話にも広がりましたけれども、ちょっと硬い話になって。柳田先生の一面というのと、もう一つはやっぱり、それを親切に案内された椎葉村民の方々というのはほんとに偉かったと思います。
 椎葉村がこれだけ有名になったというのは、ちょうど黒木勝実さんが総務課長から助役としてご活躍されていた頃に、椎葉神楽調査団が入って、その方々を非常におもてなしをして、この方に尋ねればいろんな事が分かると。いろんな民俗学者、牛島先生もお世話されましたし、もう数えられない位の研究者、いろんな人、僕みたいな名もない頃の若い者も相手して下さって、それがやっぱり今の椎葉村の原動力になっていますね。
 私が博物館を作ったときに、非常に感謝したのは、やはりそれまでの16年間の研究の蓄積が凄く大きかった。いわゆる神楽調査団の蓄積でしょ、それから民謡のCDが文化庁の芸術作品賞を受賞、それからミュージーアム九州、九州国立博物館を作る母体の運動で、椎葉特集号を作ったとかですね。ほんとにありとあらゆる事をやった。それによっていろんな研究者が入って、神楽だったら神楽の芸能しか普通は見ないんですけど、修験道文化から食文化から、僕みたいな狩猟から、焼畑から、といろんな事をやってきて、それが全部集大成できたのが椎葉の博物館という事です。そういう意味では、ほんとは何千万円使っても出来ないような仕事ができたのです。
 椎葉の人というのは親切というか、今日も日向に迎えに来て頂いた人と話をしていたんですが、椎葉に泊めて頂いて朝起きると『お茶うけ』と言ってお茶の中にお餅があったり、「かきもち」があったり、お団子を食べたりと、あの習慣がやっぱり凄い。ちょっと前まで椎葉に盛んに入っていた、近畿大学の野元先生が書かれている中に、「椎葉の何が素晴らしいって、お茶うけだ」と。お茶とお餅が出る。あるいは蜂蜜も出してくださったり、あの、おもてなしの心というか、あの誠心ね。だから、柳田さんは山の神が凄く好きなんですよ。これがほんとの日本人の原初形態だという事を盛んに言うんですね。
 おしいかな、文化人類学者の鬼才と言われる南方熊楠さん、この人は和歌山県民なんですけれど、この人にコテンパにやられるんですよ。そんなもん嘘だ。アイヌとは結びつかない。言語も全然違うし民俗も違うんだから違うんだと。ところが、私がちょうど「後狩詞記」の90周年事業やっていた時に、人間の遺伝子解析が盛んになって、縄文人が古いということがどんどんわかってきた。何処と結びつくかというとアイヌなんですよ。それが南米のペルーに繋がったりとか、いろいろしていくんですけれども、解析をやっていくとやっぱりアイヌとの繋がりというのが見えて来ているんです。だから、柳田先生が当時の発想としてやった事は、決して外れていない。当たっている部分があるということで私は凄く感動したことがあります。
 そういう意味で、柳田国男が椎葉から得たものというのはかけがえのないものであるし、それが無ければ日本民俗学は作られていなかったと言っても過言ではないですね。そういう意味では、それを作り上げた陰の力というのは、なんといっても椎葉の「お茶うけ」のおもてなしの心ですよ。それが、やはり若い世代にもどんどんどんどん受け継がれていってほしいと思います。昔に比べると食文化も変わっていって、「お茶うけ」に関心のない若い人もいるのかなぁと思いますけれども、いいものは残していってほしいなぁというふうに思います。
 その為にも、私は行政単位が合併するか、しないか、という問題は、私は口出ししたくありませんけれど、基本的に山の神は広域に動くものだと。広域に動いて学んでいろんなものを刺激し合ってお互いに発展していくという、そういう役割を担っていますから、是非、山の神はそういう生き方を今後もしていって欲しいなぁというふうに思います。どうもご清聴有難うございました。(拍手)