第12回・霧立越シンポジウム『柳田国男100年の旅』

日本民俗学の父・柳田国男ゆかりの地「椎葉」を訪ねて

②柳田国男100年の旅 南郷編

日程
日時  平成20年7月19日(土)
16:10~ 観光案内 西の正倉院 神門神社 百済の館
     ガイド担当 元南郷村長田原正人氏

西の正倉院

田原正人氏 (元南郷村長 )
 そこに神門神社がございます。百済の禎嘉王がお祀りしてあります。その百済の王族の遺品と言われる物を祀ってあるのが、この「西の正倉院」であります。
 何故「西の正倉院」かということになりますが、昭和62年にこの神門神社を文化庁から調査に来られたときに銅鏡の中に正倉院と同じ物があるというのが分かりましたので、それだったら正倉院をここに復元をして、その中に宝物を入れたらどうか、と、そういう発想になったわけです。
 それをする事によって、こういった田舎ですから観光も大きな資源になるんじゃなかろうかと、また日韓交流の一つの大きな架け橋になるのではないか、と、もう一つは今言ったように宝物にもなる、と。そういうふうなことで、これを建てようかという事になった訳です。
 東に奈良の正倉院がありますから、ここは西になりますから「西の正倉院」といっておりますが、同じ造るんだったら本物を造ろうという事に話がなった訳です。ところが実際本物を造ろうとすると、いろいろな障害が出てきました。
 第1番目に、こういう木造建築の最高権威は奈良の国立文化財研究所でした。そこの支援を得なければどうすることもできませんので、それをどうするか、というのが第一番の問題でした。
 第2番目に、その木材です。当初は杉材と思っていたところが全部桧であります。ここでは、大体樹齢400年前後の物を使ってありますが、この桧を何処で手に入れるかという事でした。最終的には長野県木曽郡の国有林の桧を持ってくることができました。
 第3番目に、法の壁でした。1200年前の建物を今建てるわけですから全く今の建築基準法に合わないわけです。釘も使ってない、柱もない、窓もないということで、全く基準と合わなかったわけですが、最終的には建設大臣特別認可を頂いてということになりました。
 4番目に、実測図がないと本物が出来ません。どこかに実測図が、正倉院か京都御所にあると思ったところが実際は、宮内庁資料部にあるということがわかったわけです。それで宮内庁資料部にあるその実測図をどのようにして見せて頂くかということです。
 5番目に、お金の壁でした。最初4億8千万円で出来るということではじめたところが、なんのなんの木材だけで5億ですね、一切合切で16億かかってしまった訳です。そのお金をどうするかという問題がありました。
 最終的には『町づくり特別対策事業』、「まちとく」といいますが、『町づくり特別対策事業』のなかに組み込んでもらったわけです。その「まちとく」というのはですね、3年据え置きの15年償還ですが、お金を返す時に最高で55%、最低で35%交付金がつくという事業なんです。
 この建物を支えているものはこの束柱です。直径60cmありますが、その束柱が40本あります。この40本の束柱で約100坪の正倉院を支えております。皆さんがあまりにもこの束柱が揃っているので「鉄骨の外を巻いているんでしょ」とよく言われます。冗談ではありません。これは本物です。土台に組み込んで建っているのです。床下はちょうど2m50cmございます。今の建築基準法では、もうこれは二階と見るんですが、そういうことでござます。
 実際の木材は、約770?使ってあります。昔の言葉でいいますと約2千石近くのものが使ってあると、そう思ってもらったらいいと思いますが、非常に巧妙に組んであります。六角形のこの木を積んだものを校倉造と呼んでいます。この技法は韓国の技法だともいわれております。
 正倉院と全く瓜二つのものを作ったわけでありますが、一つだけ違うものがあります。この上がり段です。これは観光客用に作ったわけですが、正倉院にはこの上がり段はありません。それでは中にご案内しましょう。
 これは槍鉋(ヤリガンナ)です。丸い柱はこのようにして、最初は八角形にして、十六角形、三十二角形にして最後は丸く仕上げます。昔はヤリガンナを使ってこれを仕上げていたのですね。このヤリガンナを使ってスーッスーッと削っておられたのですが、私も使ってみましたがなかなかこれは使いにくいですね。ヤリガンナで仕上げてありますから丸くはなっておりますが、こういったギザギザが残っております。
 内側の壁には仕切りがあります。正倉院はこれを二階と見るのですが、中段が二つ仕切ってありますので、今の建築基準法だと4階ということになるんです。木造建築は日本の建築基準法では三階建て以上はだめだという部分があります。そこから大体、法的にこれはダメだということになったわけです。
 まだ、桧の香りが残っております。正倉院は北倉、中倉、南倉というふうに別れておりますが、北倉の方に神社関係の宝物が陳列してあります。これは鉾ですがちょうど1,006本ございます。大きいのや小さいのがあります。何故まぁこんなものを上げたんだろうかとだいぶん調べたけれどよく分かりません。年号を書いてある所からお祭りの都度一本ずつ何かを「願」をかける為に上げたんじゃなかろうかと、そういうふうにいわれております。
 これは、神門神社の棟札です。文化財研究所の方が体を清められて神社の屋根裏に入られた時、この棟札があるのがわかったのです。棟札は、家を新しく造る時に棟札をあげるでしょう。それがずっと残っております。元々は、養老2年(718)に一番最初に出来たんじゃなかろうかと、そういうふうにいわれておりますが、明治7年の古文書によりますと、神社の古いものに27社が選んであります。その筆頭に神門神社が書いてあります。これを見ると相当古い神社だろうということがわかるんです。
 これは須恵器といっておりますけれど、昔、穀物を入れる為に使ったんだろうというふうにいわれておりますが、間違いなく鑑定の結果では百済焼きだというふうにいわれております。本当は2個あったんだそうですが1個は延岡の殿様に持って行く時に割れたということで、これだけが残っております。
 それから、ここにさっき話しました銅鏡がずっと陳列してありますが、これは年代の古い順にずっと置いてあります。非常に銅鏡に関心のある方は熱心に見られるんですが、一番古いのが大体4世紀のものだというふうに言われております。向うの方にさっき言いました正倉院と同じ物が祀ってありますけれども、あれはだいたい7世紀位の物だとそういわれておりますが、あれよりもこれの方が価値は高いというふうに言われております。
 数年前に卑弥呼の鏡で騒がれましたが、卑弥呼の鏡の一枚がこれではなかろうかと言われております。本当は、裏を返してのぞいてみれば顔が映るんですけれど、裏が出してありますから見えません。非常に鏡が綺麗なのは、これが特徴だそうですが、普通の銅鏡は土の中から出てきた物なんですけれど、ここに置いてあるのは全部、神社に代々伝わってきたもので大事に保管してあったので非常に綺麗にしてあるんですね。そういうことが特徴であるとそういうふうにいわれております。
 非常に昔から、神門神社の銅鏡というのは注目されていたようで、今17面の銅鏡があるんですけど、何故このような田舎にこれだけの物が揃っているのかというのは、今でも謎だというふうにいわれております。相当権力の高い人が持ってきた物には間違いないということはわかるんですが、こういった物があるということはですね。
 最も鏡が多いのは、これはもう正倉院であることに間違いありませんが、その次、二番目に伊勢神宮です。そこにあるのが二番目だそうです。三番目がこの神門神社だといいます。何故、こういった物が、揃ったものがこんな田舎にあるのかは今でも分からないと、そういうふうにいわれております。
 この神社の本殿は国指定の重要文化財となっております。全部指定されたら良かったんですけれど、奥の本殿だけが重要文化財になっております。非常にこの神社は古くて、さっき言いましたように、養老2年の建設というふうに書いてあります。
 宮崎県の古文書を見ると、さっき言ったように古い順に27社書いてありますが、この筆頭に神門神社が載っておりますから古かったんだろうとそう思います。それで、この神社の建物そのものはですね、棟札より寛文元年(1661)の建立ではないかとそういうふうにいわれていますが、それでも380年くらい前の建物という事になります。
 この本殿だけが国の重要文化財に指定されているんですが、これは特殊な造りでありまして、七間社流造(しちけんしゃながれづくり)という造りだそうですが、屋根の方か壊れないように二重してありますけれど、板を割って縦にずっと組んであります。非常に特殊な技法だそうです。

前夜祭(於:南郷旅館)

実行委員長黒木勝実氏の挨拶
 本日は『柳田国男100年の旅』に遠くは広島から、あるいは九州各地から大枚をはたいてご参加頂いた皆さんに心からお礼を申し上げます。
 ご存知の通り、民俗学の父といわれております柳田国男が笹の峠を越えて椎葉を通ったのは、今からちょうど100年前の事であります。100年にちなんで私達『霧立越の自然と歴史を考える会』では『柳田国男100年の旅』を計画致したところであります。
俳聖、松尾芭蕉は『人生は旅である、古人の後を求めず、古人の求めたるところを求めよ』とたいへん含蓄のある言葉を残しています。柳田国男も旅にかけては無類の旅好きでした。柳田は九州の旅の所産として、先ほども話にありました日本民俗学の出発点となる『後狩詞記』を残しました。
 今回は、柳田の旅を追体験し、彼がどのような人々に出会い、何を考え、何を求めようとしたかという「柳田学の原点にせまる旅」に仕立てたいと思っているところであります。
 幸いにも、スタッフを含めて50人近くの賛同者を得てこのように盛大に前夜祭を開くことができました。心弾む思いであります。明日は、柳田が椎葉入りをした標高1,340mの笹の峠を越えることになりますが、その峠道も昭和8年に百万円道路が完成して以来、50年以上放置されて草木が茂り、人間の通行は出来ない状況でありましたのを、当、美郷町の職員の皆さんが10日もかけて本日の為に汗水流して頂きました。厚く厚くお礼を申し上げる次第であります。
 峠といいますと大変面白い話を柳田国男はしております。「峠に関する考察」という中で『旅の志向は何と言っても峠越えである。峠を越えない旅行は餡のない饅頭で、現在は高い道、曲がりくねった道も利便性を求めてトンネルで短縮している。景観などは放り去っていく』と述べています。明日の峠は、柳田の期待を裏切ることのない大変素晴らしい峠であります。峠の頂上では、たぶん椎葉の古老が100年前の歌を用意して、歌ってくれるはずであります。足に自信のない方についてもサポート車が控えておりますから安心して旅を楽しんで頂きたいと思います。心からの旅の成功をお祈り申し上げご挨拶と致します。
 ついでに、ちょっとご紹介申し上げたいと思います。特に今度の柳田国男に関して、特別のお客様がお二人みえております。一人は、先ほどの永松先生の講演の中で「柳田の民俗学があるのは椎葉の当時の村長中瀬淳さんが居ったからだ」と話をしました。実は、その中瀬淳さんのお孫さんがここに参加しています。一般参加です。ご紹介します、甲斐三男さんです。大変素晴らしい人です。後でゆっくりお話しください。もう一人は、皆さんに配った資料の中に、沢山の柳田国男の新聞記事をみかけたと思います。今、「柳田国男椎葉来村100年」ということで連載記事を書いていますが、夕刊デイリーの編集部長、佐藤さんであります。一般参加であります。お二人とも本当に有難うございます。よろしくお願いします。(拍手)

歓迎のご挨拶:美郷町副町長、黒田一弥氏
 皆さんこんばんは、只今ご紹介頂きました美郷町の南郷区を担当しております副町長の黒田でございます。宜しくお願い致します。今日は、先ほどから大変立派なご挨拶がございましたが、柳田国男の100年の旅ということでおいで頂いたところでございます。私は、今日講演を聴いておりまして、柳田国男についての知識もなかったものですから、大変興味深く聞いたところで、大変素晴らしいお話だったというふうに思います。
 また、こういうふうな企画をされました黒木さん、そして秋本さんには本当に大変だっただろうと思いまして、これを機会に是非こういうことは続けて頂きたいものだなぁというふうに思ったところでございます。
 ところで、私、今回の柳田国男100年ということでございますけれど、100年前、この南郷はどういう所だったのかなぁと調べてみたところでございます。100年前、明治41年ですけれど、その当時は人口が4,500人、戸数が正確には789戸、だいたい800戸近くはあったんですね。
 現在では、人口が2,300人から2,400人ですね。戸数はちょっと多くて980戸近くありますが、それぐらい100年のうちに人口が半分になったというような状況です。  まぁ、これには色々と理由があるわけですけれど、ご覧の通り椎葉の人たちはこの南郷の道を往来していまして、まぁ今で言えば国道のようなもので、この南郷を通って細島のほうに産物が出ていたということなんです。ここは、明治36年に細島から神門まで、38年には鬼地野まで道路が通っております。柳田国男が通ったのが明治41年ですのでその3年前ですね。
 昔の道は、それこそ曲がりくねっておりましたし、今日、私も講演を聴きながら、やっぱり今日のようにこう暑かったんだろうかなぁと思ったところでございました。そんな中で、馬車に揺られてお出でになったんだろうというふうに思ったところでした。
 そういうことで、非常に私も振り返ってみる分については、いい勉強になったなあと思ったところでございました。それから、明日、私達も一緒にお供させて頂きたいと思うわけでございます。ほんとに、笹の峠という所は車で行かれても分かりますが、もう昔はほんとにこういう山の中を何百年もですね、歩いて越えて、昔の人は本当にたいしたもんだなぁというのを実感して思っているところでございます。
 南郷といえば「百済の里」ということになっていますが、今日は、この「百済の里」に付きましては、いろいろと田原さんの方からお話を聞かれただろうというふうに思いますが、その他に、椎葉にはひえつき節という非常にいい歌がありますが、南郷にもそれに勝るとも劣らないようないい歌があります。それは『ひえちぎり歌』というのがあります。渡川地区の方にずっと伝わっておりまして、ようやくこの『ひえちぎり歌』も今年から全国大会をすることに計画を致しました。今年の12月にこの大会がございます。ぜひ機会があればお出で頂きたいというふうに思っておるところでございます。
 その他に、来年の正月になりますけれど、師走祭りという、この百済の里の一番原点になる師走祭りというのが行われます。この師走祭り自体が国の重要無形民俗文化財になっておりまして、この南郷にも椎葉ほどではないですけれどいろいろとございます。これを機会にまた是非南郷にもお出でいただくようにお願いを申し上げます。
 これから3日間という長丁場でございますが、皆さん達でいい勉強ができ、いい仲間ができ、いい思い出を作って、有意義なシンポジウムとなることをご祈念申し上げまして、簡単ですが歓迎のご挨拶とします。有難うございました。(拍手)

乾杯:美里町南郷支所長、小竹公夫氏
 美里町南郷支所の小竹と申します。ご指名を頂きまして乾杯の音頭をとらせて頂きます。それでは、日本民俗学の父柳田国男先生の原点の地、椎葉の足跡を100年目の節目の時に訪ねるという大変意義深い3泊4日の旅が道中つつがなく、そして実り多い旅になりますことをご祈念申し上げまして乾杯致します。『乾杯!!』

自己紹介抜粋
【甲斐三男氏】
 今回のイベントでは、秋本さんを初め、黒木勝実さん、彼は僕の後輩です。それから綾部先生には、ほんとにお世話になっております。このご三方を中心にしてこの会が出来たことにつきまして、ほんとに私は何にもしておりません。ということは、柳田学も民俗学もひとかけらも知りません。私の専門は歯をいびることで、そういうふうなことは全然関心外でした。ですけれど、息子が帰ってきて後を継ぎましたので、今からわずか後何年生きるかわかりませんけれど、その間は何か役に立つことをやりたいなと思っています。
 中瀬淳の晩年の3年間は一緒に暮らしたんですけれど、その頃はもう中瀬淳はほんとに毎朝起きてきては切り餅を焼いてお茶に入れて食べる。これが仕事でして、ほんとに何にもしない。だけど最後まで脳みそはしっかりしていました。ほんとに今日は皆さん有難うございました。

【夕刊デイリー社、佐藤氏】
 皆さんこんばんは、九州各地から、またいろんなところからお見えになっているということで、ご存知ない方もいらっしゃると思うんですけれど、夕刊デイリーという新聞社です。宮崎県は南北に長い県なんですけれど、その北の方をエリアにして新聞を発行しておりまして、毎日出しているんですがその中で延岡市が中心です。延岡市、それから日向市、それから東臼杵郡、西臼杵郡という二市二郡からなっておりまして、そのエリアが発行エリアでございまして、今回の企画は甲斐さんがおっしゃった様に黒木勝実さん、それから秋本さん、それから綾部先生、三人のご苦労をここまで積み重ねてこられたことに、ほんとに感謝し、また今日こういう形で実現したことをほんとに嬉しく思います。
 3日間私も参加させて頂いていろんな勉強させて頂きたいと思いますし、また皆さん方との交流を楽しみにしております。どうぞよろしくお願い致します。

(席順に自己紹介)
■皆さんこんばんは。去年まで観光ボランティアの会長をしておりましたけれど今年交代致しました。ようこそ南郷にお越し頂き本当に有難うございます。さっき副町長が申しましたとおり2月に師走祭りがございます。精一杯歓迎致しますので是非来て頂きますよう、宜しくお願い致します。南郷区の観光ボランティアは10名おります。かなり高齢化していまして平均年齢が約70歳。後継者が居なくて大変悩んでおります。南郷にいらしたら私達が南郷の名所をご案内致します。有名になりました『恋人の丘』とか、何万年か前の海底火山の『溶岩渓谷』とか、それから『白水の滝』。それと、綾にもございますけれど南郷には柏原生林という照葉樹林があります。そういう所をご案内致しますので是非宜しくお願い致します。

■私にマイクを握らせたら2時間ぐらい離さないと言われていますので、速やかに終わりたいと思います。美郷町の観光ボランティアで南郷区の中で2年間、ボランティア観光案内をしています。今日、田原前村長さんが案内したように、ああいう活動を行っています。『笹の露やら涙やら』この一節は、神門神社の神楽の時のせり歌でありますが、この一節にありますように、明日の「笹の峠」の坂は非常に苦労するかと思います。そういう歌、その苦労するシーンが「露やら涙やら」ということでございます。明日は、心してかかって頂きたいと思います。以上です。

■皆さんこんばんは。私は椎葉出身の者で黒木といいます。現在は広島に住んでおりますが、数ヶ月前にこの企画を黒木勝実氏により聞いておりまして、非常に楽しみにしておりました。私の故郷「椎葉再発見」になるか、という意気込みで明日は臨みたいと思います。また、皆さん一度椎葉へお出でくださいませ。今日、永松先生が言われました、「かきもち」があるかどうか分かりませんけれど、お待ちしております。

■皆さんこんばんは、私は椎葉で森の民宿龍神館というのを経営しております。本当は林業が本職なんですけれど家内の希望で民宿をはじめております。去年からメープルシロップを取り始めまして、仕上げが60℃で仕上げております。今年はかなり作ったつもりだったんですが、ほとんどの人が分けてくれ分けてくれでもう少ししかありません。今はうちで使う分位しか残ってないところです。しかし、お出でになればもうちょっと試食はできる位は残してあります。九州でメープルシロップかと思うかも分かりませんけど、椎葉はちょっと標高が高いものですからイタヤカエデ、エンコウカエデなどシロップが取れる木があるんです。中心はエンコウカエデが多いです。エンコウカエデというのは尾根筋にあって谷筋にあるのがイタヤカエデですね。どっちも同じように出ます。葉っぱ以外では見分けはつきません。2月にイベントをずっと週末週末にはする予定にしております。そういうことをあまり宣伝するほどはできませんのでうちのリピーターの方に教えているくらいです。もし希望がありましたら案内状を差し上げますのでお出で下さい。

■皆さんこんばんは。私は宮崎からやって参りました。こういう柳田先生のことは知っておりましたけれども、この里であるということに惹かれて、私が今日は一番の高齢者じゃないかと思いますけれど、全行程を申し込めば良かったなぁと今は思いますけれども、今晩一晩だけのお付き合いでございます。皆さんどうぞ行程が幸いしますように御祈りしながら、今日はほんとに有難うございました。

■こんばんは、美郷町に来るということでこれを着てきました。私も同じく熊本の美里町です。去年7月6日の災害で約1週間テレビに出ました。その後、災害復旧の資金作りの一つとしてこのTシャツを作ったんです。出てくる時になんとなく目に付いたので着て来ました。昨年、西南戦没130年で一緒に歩かせて頂いて非常に楽しかったので、今日、明日、明後日と全部参加します。今日出て来るまでに、だいぶ旦那をなだめるのに苦労しまして出てきました。精一杯楽しみたいと思いますので宜しくお願いします。

■鹿児島市から来ました。私は登山をしているんですけれども、時雨岳とか御池とかを登ると平家の伝説があります。それから鹿児島なのでやはり去年の「西南戦役130年」の薩摩の敗走路、そういうのを辿るうちに「あっ、峠は面白いんだ」と気づきました。それから矢部の方の中央山地、それ面白い所なんだというのも分かりました。そして、ラジオでこのイベントがあるのをたまたま聞いて、やまめの里のホームページにアクセスするけど出てなかったので自分で問い合わせたら案内状を送ってもらいました。そして申し込んだんですけれど10日位前でしたよね、予約受付書が来たのは。それまで「あれ、もうダメだったのかな」と思っていたのです。すっごい携帯に電話があった時は嬉しかったです。「あぁ、あるんだ」と思って、それからすっごい楽しみにしてきました。そして今日の、はっきり言って柳田国男さんが九州に来た事も知らなかったのです。すべてが初めてなので。先生の話がとっても楽しいし、皆さんの話もすごく楽しいです。一番の時かもしれません今が。

■今日はこうして皆さんとお会いできてほんとに嬉しいです。延岡から来ました。今日は県北の甲斐先生と西沢さんと大石さんと私と佐藤さんときました。県北すごいんです応援団が。椎葉に向けて全員が力を込めてやっております。今日も明日も明後日も山を登ったり下ったり、ほんとに楽しみにしております。どうか宜しくお願いします。

■下関市の壇ノ浦の近くに住んでいるんですけれども、あそこから実家の大宰府に落ち延びて、今日は椎葉に来てですね、遠いなぁと思っていたんですが、昔、平家はもちろんですけれども、柳田国男が都からこちらに来た時も、大変だったろうなぁとつくづく思います。椎葉には、何年前だったか忘れたんですが霧立越で来た時ちょっと通った程度だったんですが、なんか乗り継ぎが多くて12時間くらいかかりまして、椎葉の旅館の龍神館さんにお世話になりました。それからまた行きたいなぁと思ってなかなか自由にはならないんですが、今回こういう機会があって大変嬉しく思います。どちらかというと頭よりも足の方が丈夫ですので、明日の「笹の峠」歩きをとても楽しみにしています。宜しくお願いします。

■今日この会に参加したのはですね、九大の大河内ですか、演習林の西村さんからこの会を紹介されて来ました。やっぱり100年という歴史に魅せられたというかですね、私は綾の照葉樹林に年間50日以上関わっていますので、その照葉樹林と椎葉の演習林の落葉樹はどんな関係があるのかですね。それと、柳田国男さんの民俗学と綾の照葉樹林とどういう結びつきがあるのかですね。それから広葉樹と照葉樹林とそういう文化の魅力を感じて来まして、また来年企画するようであればですね、山の神の大蔵省の方の許しが出たら2年でも3年でも続けて行きたいと思っています。宜しくお願いします。もう一つ、今日は山の神がいかに偉大だったかという事をつくづく身に沁みました。帰ったら大事にします。宜しくお願いします。

■もう美味しい酒が回ってきました。非常に焼酎がおいしゅうございます。私は、佐賀県佐賀市から参りましたけれど、うちの先祖は平家の落武者ということを聞いております。佐賀のそうとう山奥にうちの先祖が住んでいて、いつ頃からか、佐賀平野の干拓地帯に有明海の沿岸に住んでいます。私は農業試験場で土と作物の関係で土は肥料とも関係する、作物のお医者さんのような仕事をしておりました。椎葉というのはなんか平家が、うちに繋がりがあるんですね。もう独身時代から椎葉ということを聞いておりましたけれど、来たのは初めてです。まぁ楽しんで帰りたいと思います。

■私、友達と一緒に久留米から参りました。霧立越をしたり、西郷さんの通った道をたどるシンポジウムに参加したりですね、幻の滝を見たり、化石をたずねたりと、もう数回こちらの方にお邪魔しています。今日は、美郷町は来たかった所がまたコースの中に入っていたものですから非常に喜んで来ました、しかも大歓迎を受けて。私は、実は百済の里は来たことがありまして、その時よりも感激しております。それでちょっと一言ですけれども、この霧立山地というのは、日本列島のでき方の証明をする化石が出る所でございますね。それで、億年単位のお話だったり、さっきの卑弥呼や銅鏡の4世紀頃の話だったり、平家の落人のお話になったり致します。それが100年前、そして現代。この100年間が、いかに大変なものかということをこの数回訪ねる中で非常に感じています。明日からの100年前の歩かれた柳田国男をひとつ思い浮かべながら、楽しんで歩いて行きたいと思っております。どうぞ宜しくお願いします。

■延岡と日向の真ん中にあります門川という所から来ました。お友達から誘われまして非常に楽しい企画なんで全行程で申し込んだところでしたけれども、残念ながら明日、明後日と急用が入りまして今夜だけのお付き合いとなります。非常に残念です。今日は先生のお話をずっと聞きながら、「あぁ、やっぱり明日だったなぁ」とつくづく思いました。けれども、皆さんだいたいOBの方が多そうですけれども、私はまだ現役ですので、ごめんなさい、現役の方もいらっしゃいますが、私はちょっと仕事が離せませんで、そういうことで皆さんの3日間の行程のご盛会をお祈り致します。今日の講演を聞いて思ったのは、うちの家内は、私にちょっと文句言う時のあれってオコゼに似てきたんだなぁと思いました。だからなんか納得してしまいました。それと家内は今日、東京に行っています。「えー、勝手に東京に行くよなぁ」と思っていましたけれど、今日の話を聞いて、山の神は行動範囲が広くなると言われましたんで、それも納得したしだいです。また、機会がありましたら霧立越とかいろんな所に参加させて頂きますけれども、こういう機会大賛成です。今回の企画をして頂いた方に感謝しながらバックアップしていきます。どうも有難うございました。

■延岡から参加しました。非常に嬉しい企画で、これを知ったのは3月頃で新聞か何かで知ったんですがすぐ申し込みました。柳田国男とか椎葉になんとなく親しみを感じたんです。柳田国男は、何十年まえかな、ちょっと興味あって本を買って来まして読みましたら、まぁ3ページ位読んで、もうその後ずっと読んでいません。それで今回こんないい機会に巡り合いましたんでどっぷり浸かりたいと思います。宜しくお願いします。

■失礼します。私のさっきの挨拶でですね、あと一つだけ言うのを忘れておりました。と言うのは南郷温泉なんです。今日はまだ7時半ですね。ちょっと時間を延ばしてでも是非入ってみてください。私がここで一番自慢のできるのは、百済の里もありますが「温泉」だと思います。もう泉質はほんとにいい泉質で美人の湯とも言っています。うちの温泉は、顔の形までは変えられませんけれども肌は確かに綺麗になります。これは間違いない。もう綺麗な方はそれ以上に。それなりの人はそれなりに。私はこの温泉だけは何処にも負けない温泉だと思います。今日、挨拶で一番にそれを言おうと思いましたらほんとに忘れておりました。是非、宜しくお願いします。

■ようこそ美郷町の南郷区へお出で頂きましてほんとに有難うございます。鹿児島、熊本、遠くは北九州。まあいろいろな方が来ておられます。柳田国男先生は聡明な学者という程度は知っておりましたが、永松先生の話で素晴らしい方だということが分かったんですが、そういう歴史とロマンを求めてこういう旅をされる方はすごいな、というふうに感心をしているところです。ただ、明日越えられます笹の峠はほとんど人が通らない道になっておりますので、まぁコケても手にクイが刺さらない程度にスズタケを伐開しましたが、標高が1,300メートル位の峠でございますので明日はマイペースでゆっくり楽しみながら越えていただきたいなというふうに思っております。本当に今日は有難うございます。

■私は、福岡からお世話になっております。最近、私は日向に溺れております。2年位前に山都町のウォーキング、あれから通潤橋を通って馬見原まで40キロ歩かせて頂きまして、今回また新聞で『柳田国男100年の旅』というのが目に留まりまして、これだという事で飛び込んで参りました。今日は秋本さんに五ヶ瀬役場前までわざわざ私一人の為に迎えに来て頂きました。ほんとに有難うございました。美郷町の温かい心に触れてほんと満足しております。有難うございました。

■皆さんこんばんは。地元美郷町の南郷支所で仕事をしております。明日、笹の峠の方に行って頂きますけど、私は何回も峠に登って歩道を整備しました。この肌の色を見てもらえば分かりますが、体力には自信がありますので皆様のサポートの方を思いっきりやりたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

■美郷町役場の地域政策課におります。この4月に、うちの副町長から笹の峠の伐開を命ずるという事で辞令を頂きました。笹の峠に支所長と一緒に行きまして、その後も地籍係りの人と行きまして藪を刈払いました。今まで笹の峠があるということは知っていたんですけれど登ったことはありませんでした。今回登りまして三角点には7回ほど行く事ができました。7回行ったのには理由がありましてチエンソーで切っていた人がですね、刃が外れてその工具を持って行ってなかったんですね、だから、また下に降りて工具を取りに行って、また笹道を登ってですね、それぐらい笹の峠が好きになりました。今日、永松先生の話を聞いて、皆さんが、今日一般参加されている方が、まさに柳田国男じゃないかというふうに思います。柳田国男さんが100年前に椎葉に入る時には、椎葉の人たちが笹の峠をあのように大きな鎌か何かで笹を刈って道を整備したんだろうなぁと思いました。あの立派に整備していますが、大きなブトがおるかもしれませんから刺されないように気をつけて頂きたいと思います。

■どうもこんばんは。ご遠方のところ、この100年の旅にお越し頂いてありがとうございます。私は、椎葉のずーっと山の奥の一番入り込んだところの尾前という地区のお寺です。今回は、そこまで行く行程はありませんが、是非またそこまで足を運ぶ機会があれば、また違った椎葉のほんとの奥深い良さがあるんで是非とも来て頂きたいです。明日、鶴富屋敷でお話される尾前善則さんという猟の方と椎葉クニ子さんという焼き畑の方、そのお二人も私の地区の方です。明日は、お二方を連れに行ってまた送り迎えをさしてもらいますが、いい話が聞けると思います。今日ずっと永松先生のお話を聞いておりまして明治41年に入って来られたと、私のおじいちゃんが明治36年生まれでもう亡くなっておりませんが、5,6歳位の頃に柳田国男が入って来たのかなぁと思うともの凄く身近に感じたことでした。それと今日は一番前におられます甲斐さんは、実は実家が私とこの浄行寺の門徒でありまして、昼間ちょっとどこか見た顔ですなぁと、まさかこんな所で会うとは思わないものですから、そしたらさっきの自己紹介ではたと気づきましてから大変失礼しました。いや、ほんとつくづく不思議なご縁ですね。100年経った今こうして、柳田国男の方が入って来られなければこういう皆さんとの出会いもないし、黒木勝実さん達、いろんな方々のご苦労がなければ今のこの場はありません。ほんとに、ほんとに有り難いイベントだなぁと不思議に驚いたしだいです。また、3日間ずっとお供しますので何かございましたら一番若いかもしれませんので、いろいろとお申し付け下さい。

■こんばんは。今日講演された永松先生が主宰されている九州民俗学会の会員で永松先生に是非行ってくれんかと誘いを受けました。ところが、子供が部活で25日にブラスバンドをやっていますのでそちらの練習関係で今日、明日、明後日の3日間、昼間はすみませんが出れませんので、夜だけ参加させてもらいます。私は延岡市の北方町で埋蔵文化財の調査をさせてもらっています。石とか土器とかなんですけれど、そこから見えてくる人との繋がりとか人の生活ですね、人の生活を物から判断する為にはなかなか難しいですね。想像力が必要ですね。その為にどうするかといったら民俗学とか植物とか地質とか石器の材とか、それから叩く方法とか数学とか物理とかそういったいろんなことをやって勉強しています。私の頭ではちょっと能力に限界がありますので、やっぱりいろんなその道の専門家の人に聞くためにいろんなとこに出かけて行って話を聞いています。今日もメープルシロップの話とかいろいろな話が面白いなぁと思って聞かせてもらっております。椎葉に前の台風の時に城が流れたんですけど、あの中に石器があったんですね。それは石材の勉強をする為に写真は撮ってもらったんですけど、実物を見る機会なく流れてしまったんです。うちの方では、「えびの」の石が出てきたりしますので、どこかにそういうルートがあると思うんですね。だからそういったものをこういった機会を参考にさせていきたいなと思っています。明日またいろんな所でお話が聞けるのを楽しみにしております。有難うございます。

■こんばんは。私は椎葉村の大河内にあります九大演習林の西村といいます。私が今回このイベントに参加することになったのは、ひとえに黒木勝実さんそれから秋本さんからお声がかかりましたからですけれども、柳田国男先生が100年前に椎葉を訪れた後、実はその30年後に九州大学が椎葉村に演習林を作りました。広さ3千ヘクタール程あります。その時に勝実さんの親父さん、盛衛さんがご自分の山林を提供されています。尚且つ、その時人手に渡っていた土地を買い戻して頂いて九州大学に提供したということを聞きまして、私が今回参加したのは70年前のご恩返しをしたいということがあって参加致しました。よろしくお願いします。

■今日と明日二日間、ここから327号線を下った日向市では最大の祭りが行われています。ひょっとこ祭りですね。ひょっとこの面を被ってその動作の面白さがもう腹を抱えて笑っている。明後日、私の所にもお見え頂くんですが、ひょっとこと民俗学と昔話とこの三つの関連性を味合わせてもらおうとそういうふうに思っています。初めにお誘いを受けた時は、柳田国男って確か本を読んだと思って調べてみたんです。それでもこの方のことは全然知らなかったんで教祖系の集まりじゃないかなぁとすっごく心配して参りまして、もうオブザーバーで横の方で見ていようと思っていたんですが、なんかすっごく楽しい一日で喜んでおります。明日から楽しみです。宜しくお願いします。

■鹿児島から参りました。4月の初めにラジオでこの企画を知りましてすぐお電話をして資料をとり寄せまして、それをコピーしまして十数人に発送しました。一人でも参加しようと思っていたんですけれど、こちらの方が一緒に参加してくれております。とても私は興味がありましたので3泊4日のいいお土産を皆様に持って帰ってまた宣伝しようと、また今から楽しみにしております。どうぞ宜しくお願い致します。

■皆さんこんばんは。本日は美郷町の方々それから実行委員の方々ほんとに有難うございました。私は椎葉には何回かお邪魔しましたけれどもこちらは始めてで、ほんとに温かい歓迎をして頂いて心から喜んでおります。私は住まいは熊本に住んでおります。柳田国男さんが来たのは100年前ですけれども、私はちょうど50年まえに、正確に言いますと51年前ですけれども、今は熊本ですが私の里は人吉でありまして、高校時代にクラブ活動で社会部におりまして民俗関係のクラブ活動をしていたんですね。そのときの先生が牛島盛光先生だったんです。その時は、米良を通って米良から大川内に行くはずだったんですが、水害で道がめちゃめちゃになってしまってですね、歩いて椎葉に来ました。それが昭和31年です。はっきり覚えているのはあの上椎葉が出来たのが30年後なんです。それで一年後に行ってあそこに牛島先生とか20数名おったと思いますけれど、私達部員が一緒に行っていろいろしゃべりました。あちこち訪問したりですね。そういうのがありまして、その時泊めて頂いたのがダムのすぐ下に出来ていた中学校の寮があったんです。そこに泊めて頂いたんです。その時にかわいい女性がおったんですね、その時、その寮の皆さんとバレーボールをして楽しんだことをもう私のここに焼きついてるんですよ。そういうことがありまして、牛島先生はアメリカの方に移動され、帰ってきて熊本商科大学の教授になられましたけれども、それがたまたま熊本で偶然お会いしまして、椎葉の話をしたわけですよ、そしたら、あぁそうだったね、一緒に行ったねと。じゃあ行こうかというのが昭和45年頃にお邪魔して、その時に黒木勝実先生にお世話になったんです。その時に、そのかわいいマドモアゼルに会いました。75年振りに。まぁどなたかというのはここでは控えさせてもらいますが、そういうことがあって牛島先生と第一回・土風緑の会に不土野の屋敷で、美味しいどぶろくを頂きました。その後、会えなかったんですよね。そしたら黒木勝実先生もちょっと体調崩された事がありまして、牛島先生が亡くなられました。一年ちょっと前か二年だったかな。それで、もう行けないなあと非常に残念に思ってたんですね。そして今度ご案内を頂きまして、やっとそういう時期がきたかということでほんとに楽しみにして参りました。牛島先生は椎葉村史の編集をされたと聞いております。明日、笹の峠を歩きたいと思いますけれども、聞いていると何か心配せんでもいいというような言い方されますけども、だんだんだんだん心配になってくるわけで、あそこにおられる黒い顔をした人二人くらいを後ろにおいてですね、峠を越させてもらおうかなぁと思っております。全行程参加いたします。どうぞ宜しくお願いします。