⑤柳田国男100年の旅 大河内
行程
平成20年7月21日
09:00 博物館下、村営観光駐車場発
10:00 大河内 椎葉徳蔵邸着
10:30 大河内 九州大学演習林
11:10 大河内 大河内掛庄屋跡
椎葉徳蔵邸跡
西村潤二
本日は、大河内においで頂きありがとうございます。九州大学大河内演習林の西村でございます。最初に私の方から若干ご説明いたします。ここが椎葉徳蔵邸跡でございます。
7月の15日に黒木勝実さんのお父さんの黒木盛衛さんが柳田国男を案内してきて、ここの椎葉徳蔵さんの家に泊まられました。3日目ですね。今は、昭和29年の大水害でその当時の家は流されております。流された時はその息子さんの善次郎さんの時ですが、その善次郎さんの息子さんで、椎葉徳蔵さんのお孫さんになります椎葉司さん、直系の方が大河内に在住されておりますので後ほど説明して頂きます。
柳田国男先生が椎葉に一週間滞在されたわけですけれども、一番の収穫は、熊本商科大学の牛島先生が書かれていますが、椎葉徳蔵さんの家で見た『狩の巻』という一冊の古文書でした。柳田国男先生は5月20日から三ヶ月にわたる九州旅行を終えた後、東京に戻って、当時案内した中瀬淳村長に『狩の巻』を写して送ってもらえないかということで東京に送ってもらった。それで翌年『後狩詞記』という本を出版しました。
その年の内に、今度は東北の旅に出まして『遠野物語』を書いています。そちらの方はよく知られていますけれども、最初の柳田国男の著作というのは『後狩詞記』でありまして、これが椎葉村自体が民俗学発祥の地といわれる所以であります。中瀬淳村長については、村長の居られた中瀬邸に行って綾部先生の詳しい説明があると思います。
それから、皆さんがこの大河内へお越し頂いたことを歓迎しまして、地区の皆さんでお茶の接待を準備されておいでです。どうぞ召し上がっていただきながらごゆっくりとしていただきたいと思います。それでは、椎葉司さんにご説明願います。
椎葉司
皆さんこんにちは。昨日、南郷村から笹の峠を越されまして、本日はまた、はるばる大河内にお越し頂きましてお疲れ様でございました。私は椎葉徳蔵の孫に当ります椎葉司と申します。宜しくお願い致します。
ここが、柳田国男先生が泊まられた徳蔵の家があったところでございます。残念ながら昭和29年の大水害で流され、何も残ってはおりません。ここには弟が住んでいました。徳蔵は村会議員も務めておりましたが、商売気がありまして酒も非常に好きだったそうですが、乾物を買い付けて熊本の問屋に送っていたそうです。乾物は、シイタケ、竹の子、梶、毛皮などで、そうしたことで渡世をしておったと聞いております。もちろん、猟もやっておりました。徳蔵じいさんが一番自慢話にしていたのは、狩に行って立ったまま一度に二頭の猪を射こかしたということが、酒を飲むときの自慢話であったそうでございます。
私は、徳蔵じいとは直接話したことはございません。私が10歳の時に、昭和15年の8月に84歳で亡くなっております。当時、ここの谷川は、もっと川幅は狭かったのですが昭和29年の災害でこんなに広くなりました。この付近にずーっと家があったんです。この下にも家がありまして、ここの右側にあった4軒は一家全滅という家もあり15名の方が亡くなっています。こっち側は、集落全部が流されたんですけれど幸いに1名の犠牲者でした。
あの山の、工事がしてあるところですが、あの上が崩れてきたのです。それとこっちのほうも、あれが来るし、これが来るしで家が流されたのです。私の説明できるところはそんなところです。
(秋本 治)
はい、椎葉司さんありがとうございました。それでは、これから大河内掛庄屋のお屋敷跡へ行きます。途中に九州大学演習林の事務所があります。ここも椎葉徳蔵さんの息子さんや黒木勝実さんとのご縁があるようですので、演習林事務官の西村潤二さんにご説明をお願いします。
九州大学演習林
西村潤二
ここは、私の職場であります九州大学演習林です。70年前に設置されました。昭和14年、その時に九州大学がこの椎葉村に演習林を持つに至った時にお世話になった方が何名かおられまして、その内の一人が黒木勝実さんの親父さんの盛衛さんです。盛衛さんが100年前に柳田先生をお世話して更に30年後に、九大演習林を持つことになった時にご自分の山を提供され、尚且つ当時人手に渡っていた3000ヘクタール近い土地を買い戻して九大に売って頂きました。そして、もう一人の方がさきほど説明して頂いた椎葉徳蔵さんの息子さんと勝実さんの親父さんに非常にお世話になって、分割委員長と副委員長ということで買い戻して頂いて九大に提供してもらった訳です。これが35年程前に建てた二度目の事務所でありまして設計が九州大学農学部の加藤泰助さんです。荒尾にあります三井グリーンランドの庭園の設計を手掛けた方だそうであります。建築士の資格もお持ちだったんでこれを設計して頂きました。もう35年経ちますけれどもまだ非常に立派な建物です。
大河内掛庄屋跡
黒木勝実
狩の文書は、椎葉徳蔵さんがあるところから買うて所蔵していました。柳田国男がここに泊まった晩、「ここにはこういうものがあるよ」といって見てもらいました。「こらあ凄い」ということでしたが、その晩は接待で充分見ることができませんでした。それで東京に帰ってから、書き写して送ってもらって、それが「後狩詞記」の中心テーマになりました。
それで、その「狩の巻」は、もともと、どこにあったものかというと、那須スケノリという人が元々の庄屋で、その人が持っていました。けれども、庄屋といってもいい時ばかりではありません、どんどん斜陽になってきます。そして、とうとう仕事ができないような状況になりました。それを見た椎葉徳蔵さんは、そこを全部買い上げまして三男にその家を継がせました。元の庄屋の那須家は家が断絶したわけです。だから『狩の巻』は、元々その庄屋にあったのを椎葉徳蔵さんが取得したというわけです。柳田国男が庄屋に泊まらなくて何故、椎葉徳蔵さん宅に泊まったかというと、当時の庄屋は斜陽で大変な時期であったのです。その後は立派になられたけれども、そのようなことで庄屋には泊まらなかったのです。