⑥柳田国男100年の旅 中瀬邸・不土野・鶴千代邸

行程
平成20年7月21日(月)
11:30 中瀬淳村長邸着
    卓話 「中瀬淳村長の素顔に迫る」講師 綾部正哉氏(綾心塾長)
    (昼食)
    ミニコンサート 椎葉幻想 尺八演奏綾部正哉氏
13:00 桑弓野・黒木盛衛邸跡
13:10 上椎葉ダム入口分岐 徒歩にて堰堤上を渡る
13:40 上椎葉ダム公園発
14:30 不土野・那須源蔵邸着
15:00 不土野・那須源蔵邸発
15:60 椎原 那須鶴千代邸跡着
16:10 椎原 那須鶴千代邸跡発
16:20 八村杉・石垣の村着
16:50 八村杉・石垣の村発
17:10 やまめの里着 チェックイン



中瀬淳村長邸にて

秋本 治
 皆さん、お疲れ様でした。大河内から再び峠を越えて中瀬邸にたどり着きました。ここでは、綾部正哉先生にご講話をお願いしています。綾部先生は、中瀬淳村長の旧居でありますこのお家を守りながら塾をお開きになって各地で講演活動をされているということであります。なぜそのような活動をされているのか、その経緯等も踏まえて中瀬淳村長の素顔に迫り、そして綾部理念の深さをじっくりお聞き頂きたいと思います。それでは綾部先生よろしくお願いします。

綾部正哉
 綾部正哉と申します。先ず始めに、椎葉に住んでみてその第一印象をお話しますと、椎葉では、かなり多くの平家落人説を裏付けるものが残っているようです。つまり大宮人の言葉が、そのままとか、形を変えてとかで残っておりまして、言語学の立場からいっても、平家落人説は単なる伝説とは言いがたい、そういう面もあるんじゃないかなあと思います。更に、きょうはこの奥の不土野のお屋敷という庄屋さんの跡にお行きになりますが、そこからさらに尾手納というところに行きますと五家荘という熊本県の方に越える椎葉峠があります。その峠から登ったところに御池というところがございます。ここは平家最後の戦争が行われた場所と言われております。今はもう沼地みたいになっております。そこからいろんな武具などの、埋蔵されていたものが出てくるということから考えても、平家伝説は単なる噂、伝説では済まない、そういうことを私感じております。
 さて、お入りいただいたこのお家が、村の史跡「中瀬邸」でございます。村の史跡に指定された功労者が黒木勝実さんであります。中瀬邸という、その中瀬のお名前は柳田国男先生が明治41年にお見えになった当時の椎葉村の村長さんです。ここに掛けてある額の写真の正面から左三番目の方です。あちこちの書物や文言に出てまいる写真でございます。中瀬淳(すなお)とおっしゃいまして当時、柳田国男先生がお見えになったときは43歳でした。柳田先生は当時33歳、貴公子と書いてありますが、まさしく貴公子の年齢だったようでございますが、昨日歩きました笹の峠、あそこで村人が皆でお出迎えをしたというふうに伝えられております。あちこち回られて、このお家にも立ち寄られました。
 その、そちらのお部屋、そこに柳田先生をお通しして、そしてもてなされた。柳田先生がここに泊まったか泊られなかったか大変論議が分かれておりましたが、田山花袋にあてたハガキの発見によって、ここには泊まっていなかったと、それぞれの庄屋跡に宿泊を移しながら村内を一週間回られた、というようなことが、今はそれが確かな証拠として言えるんじゃないかなという段階でございます。
 この中瀬邸ですが、この家は築約140年経っております。当時のままでございます。見ていただきますとわかるように、大変堅い木で造ってございまして、釘を使わない、組木で造られていますから案外狂いが来ておりません。私が今から8年前にここに来た時は、もう空家になっておりました。
 最後にここにお住まいになった方は、この村長さんの娘さんで、五人の子供さんの中のお一人ハルさんです。皆さんにお渡しした資料の中に写真が出ています。椎葉ハルさんです。108歳まで生きられまして、宮崎県の長寿番付3位でそのほか御兄弟も長寿でございまして、私もそれにあやかりたいなと思っているところですが、五人の娘さんのお名前が、ハル、ユキ、マツ、シゲ、スエ、と、それぞれが大変な御兄弟でございます。
 男の方はお一人、その方が海軍中将までなられた方で、ここに並んだ額の正面の大きい写真で、中瀬泝(のぼる)です。戦艦伊勢、伊勢神宮からもらった名前の軍艦の艦長を務められました。写真は、終戦の年の2月、天皇からいただいた勲二等の叙勲の時のものでございます。それから一番右側の額が中瀬淳村長で、当時ここから馬で役場に通っていらっしゃいました。その役場は今ダムの底に沈んでおります。バックにある家がこの家でございまして、今はトタン葺きになっていますが当時は茅葺だったんですね。
 それから左側は、伊勢艦長になられた中瀬泝(のぼる)さんの「書」で「龍虎相搏水柱林立」とあります。フィリピン沖海戦の時を思い出しながらお書きになった自筆のものでございまして「龍と虎」はアメリカと日本ということです。相搏(たたか)う、水柱林立、戦艦の周りに柱のように水柱が立った。当時のアメリカ海軍の大将ハーゼル、このハーゼルが「日本にこんな素晴らしい艦長がいたか」と舌を巻いた素晴らしい戦闘をやった艦長がこの艦長でございます。
 どうして素晴らしかったかと言うと、フィリピン沖海戦ですね。もう日本軍の戦艦はバッタバタとやられるわけですね、アメリカ軍の飛行機から爆撃を受けまして、戦艦伊勢も何発かは被弾したけれども、水柱林立の中を掻い潜りながら呉の軍港までたどり着きます。この「軍艦伊勢」という上下巻にわたる本がございますが、これを見ますと何発か被弾していますけれども、途中に友軍の水兵がプカプカ浮いているのを艦を停めて98人救っています。で、軍法会議にかけられるほどの掟を犯して艦を停めて助けるわけです。
 戦後、戦犯で何回か東京裁判にお行きになっているようですが、絞首刑には至らなかった、と。御赦免になったということでございまして、そういう有名な艦長がこの家で生まれ、この地で育ち、中学校は都城の方の中学校にお進みになり、それから海軍の士官学校、兵学校ですね。そこを首席で卒業されて、そしてロシア大使館。もうロシア語とフランス語ペラペラ。この家の戸棚の中にはフランス語とロシア語のこんな分厚い辞書がまだ残っています。そういう傑物がこの家から輩出したということです。
 それで、この艦長の奥様が今年100歳でございます。今、静岡県の西町にご存命です。私、昨年3月にそこへ参りまして奥様にお会いしました。直に、艦長のお話とか、あるいはおじいちゃんの村長から聞いた話などをお伺いしてきました。村長、艦長のお墓はこの家のその向こうにこんもりした神社がございまして、その一角にお墓がございます。奥様は、「今度、私が椎葉に帰るときは白木の箱で帰ります」と私におっしゃるんですね。「だからよろしく」って。私は、「いや、そう言わずに熊本空港まで来れば、私が迎えに行って、そして新装したとはいえませんがリニューアルしたこの中瀬家にお連れするから」と言っているんですが「いやいやもう起きられません」と。しかし言葉は達者で記憶力抜群でございます。その奥様は東京大学の農学博士の大槻博士の娘さんです。
 兄弟は、もうみんな立派なお医者さんとか、博士とかそういう方々ばっかりでございます。よくこんな草深いところに嫁に来たなぁと私は思うんですが、艦長がですね「嫁に来ないか」と言われたときに、こんなエピソードがございましてね。「返事をする前に、いっぺん僕の故郷に来てくれ」と「故郷を見てそれから嫁に来るかどうかを決めてくれ」と。で、人吉から歩いてここに入られてですね、そしてゆくゆくはご主人になる艦長の故郷にお見えになった。で、見てお返事が「よろしゅうございます」と、「嫁にまいります」と。だから真佐子様とおっしゃるその奥様が、なぜここでいいぞと言われたのか、何が彼女を引き付けるものがあったのか。なんか知りたいんですが、そこはニコっと笑っておっしゃいませんでしたが、まぁ唯一艦長のお人柄に惚れたんだろうというふうには思います。
 で、この家が140年経っていると申しましたが、典型的な椎葉様式の家でございまして、昨日宴会がございました鶴富屋敷とほぼ同じ造りです。向こうの部屋を「こざ」の間と申します。この中央の間を「でい」の間、それから隣が「うちね」の間、家族が食事をする。それからこの奥にも部屋が一つあるんですが、土地によっては納戸とか申しますけれども、椎葉では「つぼね」と言います。夫婦の部屋、お産をする部屋、光が入らない部屋。私は、ここの向こうの壁を開けて私が寝ることにしているんですけれども、その一番向こうが台所で「どじ」というふうに名前が付けられております。横に長い建物でございます。
 それから、ちょうどこの「でい」の間の真ん中あたりに一本、木がすーっと通っております。鶴富屋敷もそうですけども、これは溝がありませんから敷居ではない、これは、これからこっちが上座、向こうが下座、かつての身分の上下を隔てる境目です。しかもその木は床下までどーんと繋がったこんな幅の広い木です。この上座に床下から侵入できないようにしてある。下からブスッとこうやられるといけませんので。
 それで、中瀬村長さんのお話をもう少しします。私がこの家に入りまして戸棚の中を整理しておりましたら、何首か詩が出てまいりました。その一つに5人の娘さんの名前を織り込んだ和歌一首がありました。息子さんはお一人だけで先ほどお話しました艦長さんです。娘さんは5人で、ハル、ユキ、マツ、シゲ、スエ、ですね。それで詩は、「降る雪(ユキ)を根にして育つ春(ハル)の松(マツ)、茂(シゲ)りて末(スエ)は栄え行くらむ」。
 この、スエさんは、今の東京芸術大学、昔は東京音大と言っておりましたが、そこのご卒業で淡谷ノリ子さんと同級生。レコードにも吹き込まれて歌手になられた方です。
 シゲさんは、息子さんが今日はお見えです。甲斐三男さんでございます。延岡で歯医者さんをしていらっしゃいます。この甲斐さんのお母さんでもあるシゲさんは、椎葉村第一号の女性教諭でございます。この方が、師範学校に出して欲しいとお父様の村長さんにお願いした時の詩が一首出てまいりました。そこの短冊に書いてございます。「もみじ手で、三つ指つきて枕元、トト(お父さん)学校に出してくれめせ」。最近の子どもは学校に行けって言っても行きません。お父さんに手をついて、学校に出して欲しいと。おそらく願いを聞き入れて学校に出されたのでしょう。椎葉で第一号の女性教員でございます。
 それからもう一首出てまいりました。「吸い口をいたわるがごと小鳥待つ、余の口づけを待ちわびてか」。ちょうどツバメの巣に雛がいて、親鳥が餌を運んでくるのを、口をこう開けながら待っていますね。それと同じような思いを5人の娘さんたち、息子さんを入れれば6人の子どもたちが俺を待っているという父親の思いが伝わってくる詩でございます。
 こういうのを見させていただくと、この中瀬淳村長さんという方は大変な文学者だったなというふうにも思います。ですから、きっと柳田先生もある面では文学者ですが、その文学者同士の心の通い合いもあったに違いない。ですから、柳田先生は、東京にお帰りになって、後狩詞記を書く原稿になる狩の巻を、柳田先生の要請に基づいて、この村長が一週間から十日くらい寝ずにこれを全部書き写して、そして自分が聞き、伝えられている狩の作法とか、昨夜、尾前善則さんから聞きましたけれども、そういうものを付け加えて柳田先生に送り、何回か往復をされて、その後「後狩詞記」という第一作目の自費出版が世に出ました。
 その中に、「椎葉村を思う」という題で一首二首、詩が残っておりますが、その一首を私は板に書きました。「立ちかへり又みみ川のみなかみにいほりせん日は夢ならでいつ」と。おそらく椎葉を離れるとき胡麻山か、久留美峠かどこかだったんでしょう、振り返りながらこの椎葉を見やって、「あの耳川の上流にある椎葉に行った、あそこに庵をむすんで暮してみたいもんだなぁ、夢に終わらせずにいつか来るぞ」と、そういう意味なんでしょうか。これをお詠みになって椎葉を離れられました。二度とここには柳田先生はお見えになられませんで、代わりに私が参りました。(笑・拍手)
 それで、実は、私が平成13年3月末に退職しまして、4月にはここに来ました。人が住まなくなってどれぐらい経っていたんでしょうか。もう、大変な荒れようで、村の人たちが「お化け屋敷」、「幽霊屋敷」と言っていたぐらいですから。それを大工さんに「住めるようになるかね?」と私が言いましたら、「先生、宮崎やったら家1軒建つばい」って言うわけですね。「どれくらい?」って聞いたら、「まぁ、これくらいかかるやろう」と。「よし、退職金全部つぎ込むからやって」、ということでやっていただきました。
 その間、私は福井県の永平寺に参りまして3ヶ月間座禅修行をさせていただきました。そのとき、頭をこう丸めたんです。村の人たちは帰ってきたら「あんたはヤクザに入ったつな」、「坊主になったつな」、あるいは「どっかにつながれとったっちゃない?」、と、ろくなことは言ってくれませんでしたが、みんな否定しませんで「ハイ」「ハイ」「ハイ」と返事していました。
 私が、なぜここに来たか、そしてなぜ先生たちの塾を開いたか、それをお分かりいただくのは、かなり時間が経ってからでございました。その間は、いろんな噂が飛び交いました。それはそうでしょう。この秘境の里に、宮崎からなんも知らんやつがぽこっと入り込んで来たわけですから。「得体の知れんやつが住んじょるが」と、「あのお化け屋敷に」、ということですからいろんな噂が立ったようです。「木立ち隠れに見ると、車が来て、中には女の人も出入りしているが」と、「2号を囲っているんじゃないか」と、「3号もおるんじゃろうか」とか、あるいは「聞けば宮崎県の教育委員会のしかるべき役職に就いていた人のようだが、悪いこつをして、逃げてきたんじゃろうか」。「ここは、昔隠れ里と言うたが、まさしく隠れて住んどるんではないか」と。まっ、いろいろ噂が立ちましたが、今ではすっかり村の一員に溶け込まさしていただきまして、皆から可愛がられてもう8年目を迎えております。
 ここの塾にお訪ねいただく県内外の先生方、1泊3食でお泊りいただくんですが、今の日本の教育を語り、過去の日本の教育を語り、そして未来の日本の教育、あるいは教師像はかくあるべし、と。これを皆で夜っぴいて話す集いの場でございます。綾心熟の綾(りょう)心(しん)という名前を聞いただけで「あっ、綾部の心を伝えるところか」なんて誤解されます。そうじゃございません。綾織りの「綾」でございます。昨日、西の正倉院に行きましたときに、綾織の布切れに文字が書いてあるのが陳列してございました。京都の西陣で織られます綾織、これは錦を織る織り方です。ここに訪れる方々は十人十色、百人百様、考えも違います、心も違います。でも、それを縦糸横糸に編んで、何か日本の未来に向けての錦が織れるきっかけになる場所になればいいな、と。そういうことで綾心塾というふうに、まぁ塾と付けたんで誤解を受けるのですが、そういう気持ちで、今8年目を迎えさせていただいております。
 私は、ここに来るまでに民俗学ということについてはもちろん知ってはおりましたし、柳田先生のお名前も存じ上げてはおりました。私どもの年代になりますと、今68歳ですが、小学校、中学校時代の国語の教科書は柳田本と言っておりまして、柳田国男先生が戦後国語教科書に関わられた、その名前が国語教科書に残っております。我々は柳田本で国語の勉強をさせていただいたわけですね。ですから民俗学と国語、言語これが非常に結びつきが強うございます。
 私も大学から教員になって定年になるまで38年間、国語教育の研究をさせていただいてまいりました。主にその中でも古代の研究が私の研究領域でございますけれども、古文の中でも、もう少し遡って口承文学、口伝いによる文学、これに非常に興味を以前から持っておりました。昔話を全国から集めてですね、子どもたちにも話をしてきましたし、「昔話に込められた先人の思いとは何ぞや」、みたいなことも考えてきておりましたら、ここへ来て民俗学、そしてこの資料の中にも再三出てまいります「故郷70年」これもう絶版になっております。それから「柳田国男伝」こういうものを手に入れまして、お勉強をさせていただいているうちに「民俗学と昔話」、「民俗学と文学」というのが非常に関連が深いということを解らせていただきました。
 その中からひとつ、桃太郎のお話がございますね。「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでおりました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」、という昔話の常套手段ですね。「あるところに・・」ですから所在は確定していません。その次の「おじいさんは山に柴刈りに行った」、というのはいろんなお話に出てくるんです。何しに柴を刈りに行ったのだろうというのが僕の疑問でした。「おばあさんは川へ洗濯に行った」、どうしてこんなに二人の柴刈りと洗濯がいろんな昔話に出てくるんだろう、と。
 そうしておりましたら遠野物語、柳田国男先生の第二作目ですね、遠野物語を書くきっかけになった遠野市の佐々木先生の著作の中に昔話がずうっと出てくるんです。「福の神、ヒョウトクの物語」というのが出てくるんですね。これは遠野地方に伝わっている昔話で、桃太郎のお話に非常に似ているんですね。
 どういうお話か、かいつまんで申し上げます。おじいさんは山へ柴刈りに行きました。帰りに川の淵のところを見たら淵が渦巻いています。「ホーッ、不思議なことがあるもんだなあ、そこはよっぽど深いのかな?」と、採ってきた柴をその渦の中に投げ込みます。すると柴はぐるぐるぐるーっと回りながら川底へ消えていきます。びっくりしたおじいさんは二束目も投げました。すると柴は回りながら川底へ消えていきます。次も投げ込みました。次々に自分が採ってきた柴を投げ込みますが、全部川底へ引き込まれるんです。いよいよ面白い。
 家に帰ったじいさんは昨年取ってきた柴を全部持ってきて、それも全部投げ込むんです、面白いもんだから。で、もう手持ちの柴が無くなった頃に、その渦の中から美女が現れるんです、美しい姫が。そして「ありがとうございました、助かりました」と慇懃(いんぎん)にお礼を申し上げるのですね。「あなたのご厚意に感謝します」って。じいさん何のことかわからないですね。柴をなんでそんな喜ぶんやろう、と。そして、「どうぞ私のところへお連れします。私どもの惣領が待っております」って、川の中におじいさんを連れて案内するわけです。
 ここからは、浦島太郎の世界に入るわけですね。で、川の底には竜宮城があるわけです。その竜宮城の入口に自分が投げ込んだ柴がうんと積んであるんです。そして、中から白ひげを生やした白髪の老人が出てきます。「ありがとうございました。聞けばおたくからこの柴をいただいたようだ。さぁどうぞ」って竜宮城の中に誘い込んで、まぁ鯛やヒラメじゃなかったでしょう、海じゃないですから。もう魚たちの踊りや管弦で歓待されて、お料理もいただいて、そして瞬く間にどれぐらい経ったんでしょうか。いよいよお暇ごいをするときに、その白髭のおじいさんからお土産をもらうんです。玉手箱じゃないんです。ヒョウトクという、およそ人間ではないような顔つきをした子供を一人もらい受けるんです。「これを連れて帰って、そして家のしかるべきところに座らしておけ、そしたらきっとあなたの家は福の神がやってくるだろう」、と。じいさんは不思議に思いながら連れて帰るんです。そして床の間に鎮座させましてね、そしたらそのヒョウトクが不思議なことにおへそを一生懸命いじるんですね。いじる度に小判がコロンと出てくるんですよ。で、またいじるんですね。で、またチャリンって小判がでてくるわけです。次から次に小判を出してね、おじいさん貧しかったんですが、裕福な暮らしになるわけですね。
 「うわー、こらぁいいお土産もらったもんだ」と。必ずそういうときに隣のおじいさんが出てきますね。これは意地悪です。意地悪じいさん、窓の外からそれをじっと見ているわけです。「ほほぅ、あいつのへそからいいもんが出よるぞ」と、「よしおれもひとつ出してみよう」。その隣の意地悪じいさんは、なんと火箸を持ち出してヒョウトクのおへそを突くんです。ところが、小判が出るどころかヒョウトクはその傷がもとで死んでしまうんです。嘆き悲しむおじいさんに夢の中でヒョウトクが現れます。「嘆き悲しまなくていい。私と同じ形、恰好をした人形をこしらえて、かまどの横に備えろ。あるいはかまどの横の柱に吊るせ。再びこの家は豊かになるであろう」と。かまどは皆さんご承知のように火の神です。で、そのヒョウトクが火の男、火男、これが、"ひょっとこ"になるんですね。
 日向で「ひょっとこ祭り」が昨日まで行われました。あの口をとがらした面白い恰好のお面を付けて「ひょっとこ踊り」をするわけですが、火男、ひおとこ、ひょっとこ、この関連性を私は気付きました。
 同じようなお話が、全国の昔話のなかにございます。そして、その竜宮城で柴を積んだ柴は何か。これは依(よ)り代(しろ)でございます。正月に1年間の五穀豊穣・無病息災・家内安全を祈りますね。その時に神様を呼ぶんです。その依(より)代(しろ)、神様の目印になるもの、これが柴だったんですね。ですから柴というのは燃料であると同時に、そういう神を寄せるひとつの手がかりになるもの、それがこの柴ですね。やがて榊(さかき)になる。さらにお正月のあの松竹梅で作る門松になってくる訳です。
 正月の神様を呼び寄せる依り代としてのもの、これが実は柴からスタートしている。そして柴は山にあるものでございます。しかも常緑樹、その常緑樹を実は切らずに根こそぎ持ってくるというのが昔のしきたりだったようです。根を切らずに根っこごと持ってきて、玄関横に立てておくとか、今でも椎葉ではお正月前になりますと木を山から切ってきまして、屋敷の入口のところに立てる。これをトシギって言ってその年の木ですね、これも依り代でございます。神様を呼び寄せるための目印になる木でございます。
 このように、昔話を我々子供たちに語って聞かせるというのが少なくなりました。でも、そういう昔話のなかに込められている先人の思い、あるいは宗教と言ってもいいんでしょうか、自然崇拝、そういう山人が崇拝した精神がこもっているお話がたくさんございまして、もっともっと我々、子や孫に語り継いでいかなければいけないんではないかな、というふうに私は思っております。
 私も7人の孫がおりますが、この夏休みにも1週間ほどここに来るようでございますから、さらに昔話を語り聞かせてやろうと思っているところでございます。十分なお話ができませんでした。ただ、ここの家がそういう民俗学発祥の地、椎葉のさらに核になった村長さんの家であるということと、それからこれを機会にまたいつでも、もしお見えくだされば私の塾は無料塾でございます。何人来られても30組布団は用意してございます。お泊りいただいて椎葉の良さ、私が手作りの料理を差し上げますので来ていただければ有り難いなあ、と。今日は、ほんのおもてなしの気持ちのひとつ、「カキモチ」を焼いて用意してございます。食事の時にどうぞ召し上がっていただきますよう。以上で終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

秋本 治
 どうもありがとうございました。ご講話から、新たな世界が目の前にぱっと広がったような気がしました。「柳田国男が『いほりせん日は夢ならでいつ』と詠んで椎葉を離れ、二度とお見えになられません。で、代わりに私が参りました」とジョークを飛ばされました。が、本当に、朽ち果てた中瀬邸を建て直し、このようにして中瀬家の家系、功績を後世に伝えていくという大事なお取り組みまでされているそのお姿を目の当たりに拝見し、まさに第二の柳田国男が時代を越えて椎葉を訪れ、長期滞在をされているのではないか、というような気がしました。改めて厚く敬意を表したいと思います。
 当初、「由緒ある中瀬邸に住み込んで塾を開いている人が居る」というお話を聞いたとき、私も「怪しからん奴だ」、と思った一人です。今日はお話を伺って本当によかったと嬉しく思いました。椎葉の救世主ではないかと思ったしだいです。
 また、ヒョウトク物語が「ひょっとこ」の語源であるというお説や神様の依(より)代(しろ)が柴であり、柴は榊となり、門松と変遷してきたという面白いお説も大変興味深く拝聴しました。本日は、また、昼食会場としてもご提供頂き、大変お世話さまになります。厚く御礼を申し上げます。それではこれで綾部先生のご講話を終わります。ありがとうございました。(拍手)

[昼食]
尺八演奏
 

上椎葉ダム・那須源蔵邸 那須鶴千代邸跡

■ダムえん堤で
黒木勝実
 あの湖水の中に桑弓野があり、その近くに黒木盛衛のお家がありました。あの付近です。
声 ちょっとお尋ねします。あの中瀬邸の前に建立されている「民俗学発祥の地」の碑ですが、揮毫はどなたがなさったんでしょうか。

黒木勝実
 うーん、話していいのかなあ。実は、あれを造るに際しては、昭和60年です。村長が中瀬高住で僕が助役の時です。僕が「村長、あんた書かにゃいかんよ」といいましたら、「原稿を書いてくれ」と言われたから書きました。「民俗学発祥の地」と。そして、村長が筆をとって何回か書きました。けれども「どうも大きい字は無理」と。「立ちかへり又みみ川のみなかみに」という小さな文字はどうにか書いたけれども上の碑文はダメだと。それで僕が書いた原稿を見て、これでいいからということになり、結局、僕が代筆して「民俗学発祥の地」と書きました。そして、「このことはお互いに一切言わないでおこうや」といいました。ですから、このことは一切しゃべったり書いてもいません。ここだけのお話で、参加された方の特権としてのサービスです。

秋本 治
 やあ、そうなんですか。ありがとうございます。今回のシンポジウムは、語り継がれた秘話まで解き明かそうと、そして記録して後世に残そうということも狙っているわけですから、ぜひ私の責任で記録させて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

庄屋 那須源蔵邸

黒木勝実
 ここが不土野の庄屋跡です。明治41年、柳田国男が来た時は郡会議員の源蔵さんが当主でした。この地区の校長を9年間しました。ここにおいでの方は、その末えいでありますが、この方のじいさんが源蔵さん、おやじさんが安蔵さんといいます。安蔵さんの子供が綾子さんで養子を迎えて一緒に暮らしています。今日は、養子さんは恥ずかしいといって野良に出ているようです。
 ご覧のとおり風格、形状共に村内最高の民家であります。95坪の屋敷で屋根が茅葺から瓦屋根に変わった以外は、明治41年当時のままです。室内は、ウチネ、ツボネ、デイ、コザと部屋が続きます。デイとコザにはいくつもの屏風がありまして、十数年前屏風を剥いで新調しようとしたらソノの下から屏風が出てきまして、それが何と「富士の巻絵」だったのです。村の方で表具師に頼んで剥いだ屏風を新調し、博物館に飾ってあります。椎葉の歴史を書かれたものに「椎葉山由来記」というものがありますが、その古文書もここに在ったものです。又、この家は村内で唯一の造り酒屋でもありました。銘柄は「源泉」でした。こんなことから収入も多く納税額は村内で二番目の多額納税者でもありました。それで、村内で最も沢山の田んぼを持ってましたが、昭和29年の災害で流されました。昔は、田んぼが3町歩(3ヘクタール)もあったそうです。

尾前賢了
 今はですね、不土野は、あらずの土の野と書きますが、昔の字は、あらずでは無くて富となっていますね。全く反対の意味なんです。次第に書くのが面倒で不となったんだろうと思います。ですから、土壌が一番肥えて豊かなところだったんではないでしょうか。
 球磨峠から不土野の村を見たら、女性のもののような形に見えたのでホトノといい、それがフドノになったという説もあります。結局、ここは豊かだということをいったのでしょうね。

甲斐三男
 川の傍沿いに家が点在して美しい村でした。蛍の頃は竹箒を立ててずーっと庭を走れば10匹位は、蛍が竹箒に掛りました。ここも一緒だと思います。その蛍の光るところを取って集めて雨戸に「かいみつお」と名前を書きおったのです。それをいうと娘たちは「残酷なことをする」というて怒られますが、昔はそんな遊びでした。

那須鶴千代邸跡

 みなさんこんにちは。本日は暑いところをほんとに大変だったと思いますが、わざわざこの家までお運びいただきましてほんとにありがとうございます。ご苦労様でございました。  私、柳田国男先生については両親から何も伺っておりません。父は木材商を長くやっておりまして、鉄道の枕木をとってこの川をずっと流して美々津港であげて、販売しておったような状況ですけれど。もういろいろ話は聞いたんですけど柳田先生については何も伺っておりませんでした。  ただ、議会に出まして、勝実先生がちょうど助役をされていた時ですが、柳田国男から田山花袋にあてたハガキが見つかって私とこにも泊まったというのが分かったんです。それで、何で両親が柳田国男さんが泊ったと話さんかったのかなと思うのです。
 この家は、昭和13年に火災に遭いまして、そうした記録も消失してありません。それまで二階建ての旅館をしてました。そういう風な事が色々ありまして今日はほんと何もお話もできません。申し訳ございませんけれど、どうもご苦労様でした。