第13回・霧立越シンポジウム「九州脊梁山地文化圏」
九州脊梁山地の明日を探る
平成22年10月25日(日)
ドキュメント シンポジウムを終わって
秋本治
霧立越の歴史と自然を考える会会長
九州ハイランド観光ガイド・インストラクター協会副会長
霧立山地の紅葉がしだいに色づいてきた平成22年10月24日の朝方である。
はっとして目覚めた。なんだか・・、いろいろな考えが渦を巻くように浮かんでは消え、よく眠れなかったなあ、と、時計を見ると5時前15分だ。いよいよ今日と明日か、目標としていた日が来た。今日は二班に分かれてバスツァーとトレッキングだ。バスツァー班は、脊梁山地ぐるっと一周200キロの旅、トレッキング班は、向坂山のスキー場から小川岳への分水嶺県境トレッキングである。
バスツァーは参加者が多く、増車したが地域ごとのガイドの調整はうまくやってくれるだろうか。パンフには「車中では各市町村ごとに地域ガイドのベストメンバーがそれぞれの地域でマイクを握ります」。なんて書いてしまったが、何せ紅葉の季節である。地域ごとにいろいろと行事があってガイドできないという人も多かった。その上二台に分乗するので地域ごとに二人づつ必要だ。ガイドのベストメンバーにはならないなあ・・。
こうしてみると意外と地域をガイドできる人は少ないものだ。それでも1台はツーリストの寺崎さん、もう一台は事務局の井澤さんが乗るのでピンチヒッターとしてうまくまとめてくれるに違いない。水上村ではコースが二つに分かれるが携帯電話も不通の山岳コースだから二台の時間調整がうまくいくかなある。ガイドの録音はどちらのバスにICレコーダーを入れたがいいかなあ。
天井のサークライン蛍光灯の豆電球を見つめながらいろいろと思いを巡らしていたら、ゴトンゴトンと外から雨どいの音が聞こえてきた。雨だ。トレッキングのキャンセルが増えるのではないだろうか。そうそう、昨日は雨を予想して駐車場の受付の場所にテントを運んでおいて正解だったなあ。受付時間前までに進入の分岐点で車を誘導しなければ参加者はスキー場のほうに登ってしまうかもしれない。気がかりな点が次々と思い浮かぶ。
明日の会場の受付で準備する講演資料がまだできていない。講師の先生二人分のプロフィールはこれから原稿を起さなければならない。一人は顔写真がメールで届いたままだ、もう一人はプリントなのでスキャナーで読み取ってファイル化にしなければならない。講演用パワーポイントの資料は1ページ4コマだと部数が多くなるなあ。6コマでいいのかなあ、文字は小さくなってしまうが、ま、仕方ないなあ。資料の準備と会場の写真展示と看板の準備を考えたら今日はバスツァーには乗車していられないなあ。資料を印刷するインクも足りない。誰かに買い出しを頼まなければ。
山都町の人たちが音響設備とプロジェクターとノートパソコン、プリンターを持ち込む手はずだ。資料の不足分は会場で印刷できるように完成したデータを準備しなければ・・。パネラ―と基調講演併せて10名の講師陣だ。こんな大勢の講師を迎えてのシンポジウムは初めての体験だ。少し欲張り過ぎたかなあ。7市町村を対象にするんだから仕方がないか。この内4名はパワーポイントを使われるが2名の方はまだデータをあずかっていない。パワーポイントのバージョンが違ったら使えないこともある。パソコンは複数あったほうが安全だ。そうだ事務所のデスクトップパソコンも外して会場に持ち込もう。
懸案の本邦初公開とする脊梁山地地質図は間に合うかなあ、白池先生手作りのA2版地質図を京都の印刷所に依頼してスキャンしてデータ化後印刷、昨夕出荷で今日到着予定だが、もし配達されなかったらどうする。明日の講演に間に合わなかったらこれまでの苦労が水の泡だ。思いはぐるぐる回りながら、起き上がって車に乗り、闇夜の雨の中を養魚場の事務所に向かった。
事務所では、外が白んできた頃、パネラー全員のプロフィールと当日のプログラムをまとめ上げ、プリンターで印刷を始めた。後は基調講演の3名の先生の講演資料の表紙作成とプロフィール、それにパワーポイントの資料印刷をしてホチキスで留めればいい。インク切れを起こしたので取り換えながら時計を見上げると7時。朝食を食べなければと印刷を仕掛けたまま帰宅、さっと飯をかき込んでホテルへ向かう。ホテルではすでに昨夜からお泊りの講師の先生や参加の皆さんが脊梁山地ぐるっと一周バスツァーに出発の準備をされている。バスは、馬見原公民館発7時55分だ。7時30分にホテルを出発すればよい。資料準備が遅れたのでご一緒できませんとお断りしてお見送りし、再び養魚場へ車を走らせた。事務所の机の上では、印刷を続けているはずのプリンターが止まっている。用紙切れだ。やれやれ、用紙を投入してOKボタンを押した。
ホテルから電話が入った。「県庁の方がバスに乗りたいとホテルへ向かわれているそうです」、という。時計は7時35分を回っている。あらまあ、時間ぎりぎりだわと、とんぼ返りでホテルへ車を走らせる。ホテルで待つこと10分が過ぎた。遅れてしまうがどうしたのかなあ。気をもんでいると、「今、ホテルの近くまできて登っています。もうすぐです。」と電話が入る。それにしてもどこの坂道だろうか。国見トンネル先の椎葉側に少し登りがあるのでそこだろうか。再度電話があった。到着されない原因が分かった。今スキー場だという。ホテルを過ぎて7kmも先へ登ったのだ。あーっ、もう間に合わない。大きく叫んでしまった。あわてて車に飛び乗りスキー場へ向けて走らせた。
波帰の村を過ぎたところで、上から疾走してくる車が視界に入った。Uターンして、近づいてくる車を待ち、そのまま先導してホテルへ誘導、私の車に乗り換えてもらい、猛ダッシュした。もうこうなったらスピード違反も仕方ない。覚悟を決めてアクセルをグィッと踏み込んだ。バスは通潤橋道の駅発が8時20分、どんなに急いでも到着は8時30分だ。次の停車地の美里町まではなんとか追いつけるか、それでも追いつかなければ二本杉峠だ、あの峠までは急峻な上り坂なので絶対にバスに追いつく筈。
まっしぐらに走って矢部の通潤橋道の駅に着いた。と、まだバスがいた。馬見原公民館で乗る人が遅れ、清和文楽邑でも参加者が遅れたのだという。バスの出発が遅れたおかげで間に合った。通潤橋道の駅を25分遅れで出発した。胸をなでおろして出発のお見送りをし、事務所へとってかえすと電話が鳴っている。県境トレッキングのお客様がホテルに集まっているという。受付場所の誘導ができていないのだ。「急いで」と倉岡会長に連絡して、車の誘導に当たる。ようやくスタッフがそろってテントでの受付体制が整った。雨はますます強くなった。
トレッキングの受付も一段落してあと一人か二人というので安心して事務所へ向かった。机に座り資料の準備を始めたら、また電話。今度は山都町の町長さんがホテルに来られたという。トレッキングのバスに間に合わなかったらしい。バスは、全員揃ったとして二台ともスキー場へ登って行ってしまったというのだ。あわてて、ホテルに車を飛ばすと町長さんは自分の車で追いかけて行くとおっしゃる。けれども、トレッキングは下山口がテンヤボだ。「下山口が違うので車は置いて下さい」と言って、車を乗り換えてもらってスキー場へ向けてスピードを上げた。車中では町長さんが道路の穴ぼこを見て、これは町道ですかといわれるので、そうです。と答えたら、よその町のことでいらんことばってん、この穴は修理しとかんとバイクやらが落ち込んだら大事故になるたい、といわれる。ほんとだ、恥ずかしい思いで小さくなってアクセルを踏み込んだ。標高1300mまで登ったところで、一台のマイクロバスが待っていてくれた。スタッフは、町長さんの電話が通じないのでキャンセルとばかり思い込んだという。
山都町の町長さんを送り届けて帰り、再び資料の印刷を始めたら、ほどなく宅急便が来た。配達された品物の中に脊梁山地の地質図は無かった。営業所に問い合わせると「14時以降に次の便が来るのでその中を見なければわからない」という。そして「あっても翌日配達になります」という。それでは間に合わない。「では14時に営業所に受け取りに行きます」というと、「14時に着くかどうかはその日の道路状況によって変わります。荷物の仕分けが終わるのは16時頃です。その時点ではっきりします」という。「ではその時に電話をしてください」とお願いして昼食をとった。
スキー場の会場の準備はどうなっているだろう。誰か行って写真の展示や看板の取り付けをしてくれているだろうか。講演の垂れ幕や会場の正面看板づくりを引き受けてくれた五ケ瀬町役場の奥村さんへ電話を入れた。「何時頃看板の設置に行きますか」、と。すると「当日の朝早めに持っていきます。」という。わーっ朝では間に合うだろうか。不安が広がるが、彼も超多忙な男である。雨はますます強くなった。
資料作りを続けるが、1人分が30ページ余となり部数の印刷が間に合わない。ホテルの人たちにヘルプしようとデータをフラッシュメモリに入れて準備していたら、中学校の教頭先生が見えた。シンポジウムの翌日、全校生徒を霧立山地の化石の森へガイドする予定であったのでその打ち合わせである。わっわっ、もう時間がない、と思うが学校にとっては重大なプランである。忙しいでは済まされないのだ。
打ち合わせが終わったら今度は、飼料会社からの訪問を受ける。ヤマメの餌を供給して頂いている大事なお取引先である。忙しいとは言えない。対応している時、宅配便の営業所から電話が来た。例の地図が届いているという。受け取りに来ますかというので、「はい、だれかに頼んでみます」と答えたら、「ちょっと待ってください」と、数秒後、「こちらから配達しましょうか。」と、嬉しい返事。「よろしいですか、それではお願いします」。これで懸案の地質図の件はまさに一件落着だ。本邦初公開とした九州脊梁山地の詳細な手作りの地質図は白池先生の汗の結晶、力作である。シンポジウムの目玉であったので手配がついてようやく心休まる思いがした。
次の心配はバスである。脊梁山地ぐるっと一周のバス旅は、やまめの里に到着する時間がとうに過ぎている。どうしたのだろう。フロントに電話したら「大幅に時間が遅れてしまったので立ち寄らずに直行で出発地の通潤橋道の駅へ走る」と今連絡がありましたという。無事であればそれでいい。
窓外を見れば夕暮れが近付いている。そうだ、スキー場のスキーセンターを会場に借りて鍵を預かっているので鍵を閉めに登らなければならない。今日は準備が用意万端できなかったことに不安を覚えながら標高1600mのスキーセンターに向けて登った。山も雨が止み、阿蘇や九重、祖母山から行縢山までの連山の遠望が美しい。その手前に二神山、そのまた手前に祇園山と揺岳、その左手に黒峰と小川岳、ともにくっきりと浮かび、その山裾を埋めるように雲海がたなびいている。二神山からは雲が柱となって立ち上っている。久しぶりに見る神々の里らしい見事な光景である。しばし、見とれていたが、我に返ったようにしてスキーセンターの扉を施錠して下山した。夕暮れ時のためか下山途中に何頭もの鹿に遭遇した。
下山して、ホテル事務所に依頼していた資料の準備を点検していたら、えのはの家から「今夜は講師の先生たちと夕食を共にされますか」と言ってきた。「今夜は神楽だからできません」と冷たく言って神楽の会場を点検に行った。保存会の人たちによってしめ縄が張られ、岩戸や榊はしっかりセットされ神庭は出来上がっている。ああ、よかった。と、見回したらマイクの準備ができていない。あわててアンプからマイクの延長コードを客室の隅を引いてきてボリュウムのテストを行う。人のいない時の会場のボリュウムと大勢の人がいる会場のボリュウムは違うのだ。かなり高めに設定してテストを終えた。ようやく安堵して夕食に向かった。
疲れた。今夜は神楽舞子は何人来てくれるかなあ。楽しみの晩酌に口をつけようとしたとたん「今夜の神楽保存会の送迎は誰になっていますか」といってきた。あれ、誰も頼んでないのか、ほんとに気が利かない。晩酌をぐっと我慢、断念して、夕食もあわただしくかき込んでマイクロバスのハンドルを握った。鞍岡祇園町に下りて行き、波帰に上ってぐるっと廻って来たら既に神楽公演の時間だ。あわてて白衣袴に着替え、あわただしく舞の順番と役割の打ち合わせを行い、会場と神庭の仕切り戸をはずした。鞍岡祇園神楽公演の始まりである。
その夜もよく眠れなかった。飛行機が落ちたような夢を見たり、うなされたような夜だった。眠ったような、眠らなかったような時が流れて、時計をみれば5時少し前だ。資料の残りを準備しなければと起き上がり、養魚場の事務所へと車を走らせる。池の周りに小鹿が3頭並んでいた。あっ、もう一頭逃げた。あらあら、角が三段のとても大きなオス鹿が池の横からライトの前に飛び出した。5頭も養魚場にいたのだ。雨が上がったので餌を探しに来たのだろう。
事務所の前の池は、刺身用の大型オスが成熟しないように電照しているので付近が明るい。白い水しぶきを上げながら水車が5台廻っている。密度が特に高い池に水車は設置しているのだ。他のエアレーションだけの池に目をやった。水面が動いている。おや、よく見ると、魚が苦しがっているのだ。あらっ。水路を見ると水か流れていない。途端に体が凍りついたようになり、背筋に冷たいものが走った。断水だ。これは大変なことになった。湧水を一台のポンプで揚水しているが、メインは1.5km上流から350ミリのパイプで引き入れている河川水である。その河川水がなぜか止まっているのだ。
非常用ポンプがもう一台あるが、これを回すと今は渇水期のため稚魚池の水が足りなくなってしまう。緊急時だ、少しの時間だけ水を揚げよう。走りながら職員に電話かけるが誰も出ない。孵化場に降りて揚水ポンプのスイッチを入れる。すると今稼働しているポンプの電源が切れた。間違ってスイッチを押したのだ。「落ち着いて」、と自分に言い聞かせながら今度はゆっくりとイッチを入れ直す。回転音が聞こえだした。ポンプに走り寄ってみるとモーターは駆動しているが水は揚がっていない。呼び水が足りないのだ。これは時間がかかる。もうそれより、水源の堰堤だ。車に飛び乗り林道を水源に向かって走らせる。
これは夢であってくれ、そう心で願うが現実に違いない。昨日の雨のためか落石が多い。その落石に車をぶつけたりしながら進んで堰堤への入り口で車を止めた。東の空は少し明るくなってきたがあたりはまだ暗い。堰堤へ下る急坂道は、けもの道で樹林の下にある。携帯電話を開いてその明りを頼りに転げるようにして取り入れ口に下る。濡れた木の葉が重なって溜まっている。その上で靴が滑った。途端に斜面を転げて立木の根に脇腹をいやというほど打ちつけた。うっ、激痛がわき腹に走って息が出ない。はっはっと言いながら痛みをこらえてようやく息を突きだした。一呼吸二呼吸するうちに呼吸ができるようになったので痛みをこらえながら立ち上がった。もしかすると肋骨にひびが入ったかもしれない。再び堰堤めがけて駆け降りる。堰堤が見えた。水路取入口の前の槽の仕切り板がとられていて外へ水が落ちてしまい水路の取入口には水が入らなくなっている。
原因が分かった。昨日の大雨で、水かさが増したので、サブタを引き上げて余分な水を外に逃がしていたのだろう。それが、雨が止んでいっぺんに水量が低下して導水管に水が入らなくなったのだ。山に保水力が無いので渇水期で日照り続きの時の雨は、土砂降りであっても雨がやんだ途端急に元の水量にスーッと戻ってしまうのだ。こんな時は、なぜ当直をして水量調整をしなかったのだ。水量不足が続いていたのが一気に水量が増えたので安心したのであろう。危機管理の欠如を嘆きつつ、水槽のコンクリートの縁を、転落しないようにゆっくり一歩一歩渡って行きサブタを入れた。水は瞬く間に仕切り壁を越えて水路の槽へ乗り越えていった。これで20分後には1.5km下流の池に水が入る。
職員の危機管理能力の無さに悔しい思いが高まった。以前は必要以上まで当直をして水の管理には全員で気を配っていたではないか。近年こうした事故がないので気が緩んでいたのだ。実際、私が気がついて指示すればよかったが、私も心の余裕がなかった。管理責任分担を明確にして組織づくりを見直さなければ・・。
池へとって返すと、数人の職員が来ていた。夜が明けてさっと池を見て回ると、水車を掛けていない池の魚が二池ほど白い腹を見せている。親魚の大型魚が入った池の一つが水位が下がっている。排水サブタの底に水漏れがあったため注水が止まって池が干上がったのだ。エアレーションの効果もない。これも全滅だ。そのほかにも死魚の多い池が2池ほど見える。ざっと見て2~3トンの被害か。あぁ、今年こそは経営を軌道に乗せたいとがんばり、生産量も例年の二倍以上に好成績を収めていたのに。悔しくて悔しくて仕方がない。だがこれが現実だ、どうすることもできない。そのコストをどうやって吸収するか。思いを巡らせながら水量調整や死魚の始末を指示していたら8時である。気にしながらも朝食をとり、シンポジウムの準備を始めた。展示用の写真を見つくろい、ディスクトップパソコンをはずして車に積み、これまで作成した資料を集めて会場めざしてスキー場へ登って行った。
スキーセンターでは、プロジェクターの据え付け、音響設備の設置、パネルの展示、受付机と資料の準備など大忙しである。開会行事の9時30分が近付いた。正面の看板と講演の垂れ幕がまだ届かない。来賓のほうが早く見えた。昨日中に準備できなかったことを後悔しながら夢中でパソコンを組み立て、プロジェクターの試験を行うが、案の定、講師の講演用パワーポイントが動かないものがある。DVDは音が出ない。パソコンに詳しいスタッフが二つのパソコンでテストして使い分ける段取りをしていく。ようやく看板が届いた。待機していたスタッフが梯子をかけて正面の壁に手際よく設置していく。
そこにもうひとつ重大な問題が発生した。開会行事に、出し物として鞍岡の臼太鼓踊りの中にある「山伏問答」を演じてもらうことにしていたその演者の一人が急に都合がつかなくなったといった来た。さあ、大変、どうしょう。もう時間がない。なぜ今頃になって、怒り心頭に発したが、仕方がない。誰か代わりを探さなければと携帯電話を取り出して発信しようとするが、電源が切れている。おかしいなあ、と、思い出した。今朝、養魚場の取水堰堤に下る途中転倒して携帯電話がポケットから飛び出してカラカラと音がして岩にぶつかった。あのせいだ。あのときの衝撃で故障したに違いない。嫌なことを思い出した、脇腹に痛みが走る。あの悪夢が再び頭を支配してしまうのだ。
ぎりぎりの思案の末、15km下流の祇園町から保存会のメンバーの一人甲斐伊津男君に緊急に出演してもらいたいと公民館長さんにお願いすることにした。おろおろして、準備するにも気もそぞろである。人づてに頼んだままで、連絡が取れただろうか。やがて「連絡が取れて、今から神社に行って道具をそろえて上ってくる」と電話が入ったという。よかった。それでも開会行事には間に合わない。
あわただしい中に会場の準備がようやく整った。開会行事の予定時間より15分遅れである。参加者に「席について下さい」のアナウンスをした。そして、進行役の井澤さんに山伏問答の出し物は、プログラムの開会行事の中ではなく白池先生の講演の後、永松先生の講演の前に行うよう変更のお願いをした。永松先生は、「山伏問答」の出し物から講演の話題をつなぎたい言われていたので、何がなんでも永松先生の講演の前にはこの出し物を演じなければ、先生のパワーポイントの構成順番も支障が生じるだろう。間に合うように来てくれるだろうか。気が気ではないが、もうなるようにしなければ仕方がない。
やがて「時間の都合により山伏問答の出し物は、白池先生の基調講演の後、永松先生の講演の前に行い、タイシャ流の演武は、午後の部の最初に行います。一つずつ順番を遅らせて行いますのでご了承ください。」井澤さんのアナウンスがあった。当初会場の準備が遅れていることを見ている参加者からは時間調整で出し物を変更したのだろうという風に受け取られたようである。
こうして開会行事は、倉岡会長の挨拶についで来賓の五ヶ瀬町副町長、九州森林管理局長と続き、出し物を変更して最初の基調講演は、ほぼ予定通りの時間でスタートすることができたのである。
次は一時間後の永松先生の講演前までに間に合うかどうかである。白池先生の講演も後半に入った。「山伏問答」の準備を確かめに幾度となくスキー場の事務所へ入って行く。講演も聞かなければパネルディスカッションで話題を深めることができないが、出し物が出せなかったら面目丸つぶれだ。気もそぞろである。ようやく出演準備がスタンバイした時には、涙が出るほど嬉しかった。
こうして、無事永松先生の基調講演の前に「山伏問答」が演じられ、それをもとにして九州脊梁山地の民俗文化についての講演が始まった。やれやれ、途端に眠たくなった。そうか、昨夜はあまり寝ていないなあ、死魚は、どれくらいあっただろうか。一段落するとシンポジウムのことよりもそちらの方が気掛かりになった。わき腹が痛い。肋骨にひびが入っていなければよいが、あれこれ思うと、ほんとに疲れた。
昼になった。今度は、「タイシャ流」の出し物がしっかりできるかどうか心配である。何度もスキーセンターの事務所に行って準備状態を確認した。今度は大丈夫そうである。弁当を食べながらも午後のパネルディスカッションはこれまで経験したことのない10名もの講師陣でどのように話題を誘導するか考えようとするが、集中できない。もう体力の限界である。眠たい。放心状態になってしまうのだ。
午後の部は極めて順調に進んだ。タイシャ流の演武の後に九州運輸局の福山二也氏の講演、続いてパネルディスカッションである。コーディネーターとしては、パネラーの話はもっと短くしてと願うが、やはり言いたいことを準備して出席されているわけわけだからある程度は仕方ない。10人を一巡したらもう全体の三分の二ほどの時間を使っている。けれどもみなさんとてもいいキーワードを出してもらった。また積極的な話の展開になった。あとは結びをどうするかだ。自治体の連携の難しさについて事例を出して問うたがこれまで誰もこのことについては触れてくれない。そこで「7つの市町村の連携を深めるには、このシンポジウムを継続して繋いでいくことが大事で次回の開催地を決めて頂くとありがたいです。この場では名乗り出ることが難しいと思われますので後日検討してどこの町村かぜひ手を挙げてもらいたい」と提案した。すると隣の山都町の甲斐町長さんとその隣の水上村の成尾村長さんで何やら一言二言話しておられたが、甲斐町長さんが手を上げて「次回は私の町でやりましよう」と言われた。この言葉で今回のシンポジウムが成功したと確信した。その後、会場から脊梁山地の詳細な地図がないのでこうした地図もこれからの計画に入れてほしい」などの要望が出されたが、即座に甲斐町長さんは「それも私どもがつくるようにします」と答えられた。よかった。こうして次につないでこのシンポジウムは幕を引いたのである。
それにしても、このハイランドのメンバーは一体なに者たちだ。私は、今年の春役員になったばかりの新参者でありながら勝手にシンポジウムをプロデュースして立ち上げてしまった。予算もなく、そして、ぶっつけ本番で次々と障害が起こってもスタッフは何食わぬ顔でリカバリーしていく。講演の垂れ幕が「民俗」の文字が「民族」となっているのに気がついた。パソコンの前にいる一人にそのことをそっと伝えると「族」の文字の大きさを測って「俗」を同じ大きさに印刷してそっと上から張り付けて何食わぬ顔をしている。スタッフは顔を知らない人が多い。が、きっと素晴らしい仲間に違いない。なんだか大きな期待感を抱かせるシンポジウムであった。このまま別れるのは惜しい。みんなでいっぱいやりながら反省会を開きたい。そんな思いで会場の後片付けを進めた。その夜は一人酒が格別においしかった。そして、ぐっすりと眠りこんでしまった。
おわり