第2部 森の恵の晩餐 炉端談議

 

「霧立越」を前に

秋本 今日はたいへんご遠方からもおいでいただきまして、まことにありがとうございます。今日から明日にわたってのシンポジウムは、この霧立越について限りなく深めていこうということでございます。

 乾杯の後、この会場の中央で、山伏問答をやっていただくことになっています。タイシャ流は、今日ご覧いただきましたように、一能院友定−−肥雲働山ということで、山伏系統の武術として入って来たのではないかということでございます。この鞍岡地方に伝承されている臼太鼓踊りに山伏問答がはいってまして、その部分を少しご覧いただくことにいたしております。

 今日、渋谷先生のご講演を拝聴し、それから山北先生の演武を拝見しまして、高い緊張感に包まれたすばらしい一日であったように思います。地元のタイシャ流棒術の村おこしグループの方々もこれまでの練習よりも今日は非常に磨きがかかってよかったというふうに思います。そういう 400年の 昔に夢を馳せながら語り明かしていた だきたいと思います。

矢野 さっそくですが、乾杯をお願いしたいと思います。乾杯のご発声を県の観光振興課の課長さんでいらっしゃいます中馬章一さんにお願いします。

中馬 諸先輩がたくさんいらっしゃいますけども、行政の立場ということでご指名ですので。今日は県内はもとより県外からも多数おいでいただきまして本当にありがとうございました。ご承知のとおり、宮崎の観光は、シーガイア等、昨年たいへんなうねりを見せたところですが、そういった都市型リゾートだけではなく、こういったやまめの里・五ケ瀬の奮闘振りが全国にも著名になっております。先週実は西日本新聞の主催で、九州は一体として発展しようということで、九州連合議会というのが開かれました。今年は観光がテーマでして、それなら宮崎だということで宮崎でやったわけです。その時各県から代表的な観光に取り組んでおられる方々に出ていただきました。宮崎県では代表として宮崎交通の岩切社長さんと秋本社長さんに出ていただきました。自然や歴史、あるいは地域のいろんな特産物を生かして観光に取り組むという姿勢、私どもは非常に助かっているところでありまして、こういった運動がさらに全国に広がればと思います。

 前置きはこれくらいにいたしまして、本日はたいへん貴重なご講演、講談師かとみまがうほどの素晴らしいお話しをしていただきました渋谷先生、それから続いて前座といえたいへんな手裏剣で後に続く真打ちの先生方が光るようにちょっとはずしたような感じで演技をしていただきました野中部長さん。それからご承知のように第 13代宗家でいらっしゃいます山北先生ならびに師範代の先生ありがとうございました。

 それから、秋本さんをはじめとして地元の棒術会のみなさんのこういった取り組みというのは非常に大事だと思いますし、そういった草の根の運動を今後とも継続していただきたいと思います。今日は植物の研究で非常に地道な活動をされておられます河野先生もお見えになっておられます。UMKの方から坂元さん、榎木田さん、そして鉱脈社から川口さんと多数おいでのようです。そのほか明日のパネラーの先生方もご苦労様でございます。ぜひ山の神の鎮まることを祈って、明日の 11kmを無事にいけるように、焼酎はやはり飲んだほうがいいと思います(笑い)。そういうことで第2回霧立越シンポジウム等の成功を祈念いたしまして声高らかに乾杯いたしたいと思います。

秋本 それではお食事をしていただきながら、自己紹介をかねてご挨拶をいただきたいと思います。まずパネラーの先生方からよろしくお願いします。

中馬 何回も顔を出しますけどもお許し下さい。昨年の4月から県の観光振興課にお世話になっております。観光振興課というところはいろんな職員がいるわけですが、他の職員は明日の朝の4時に宮崎港に集結をします。そこをスタートとする九州山脈バイクツーリング大会がありまして、宮崎から国道265号をさかのぼって椎葉・五ケ瀬を通り、最終地点が日之影です。私はこちらの方に参りましたけど、こうやっていろんな方達と知りあえるし、非常に良かったなあと思っております。明日の山登りが楽しみです。ちなみに私のお隣の野中部長さんは私の四代前の観光課長さんでございまして、全然格がちがいますんでバトンタッチしたいと思います。

野中 今日は私、感激でいっぱいでございます。憧れの山北先生にお会いでき、目の前に物凄い迫力のある演武を拝見いたしました。私、昭和 58年に、棒術のシリーズのビデオで「タイシャ流剣術」というのを手に入れまして、いつかお会いしたいもんだと思っていました。そのビデオに撮っておるのが今日お相手を務めていただいた木野師範代で、私のお隣でございます。そういう素晴らしい先生の剣術に比べますと私の手裏剣はただの旦那芸でございます。まだ10年しかやっておりません。毎日何本投げたかなと付けております。30万本投げた計算になります。あと30万本投げますともう少しは山北先生の域になるんじゃないかと思います。そのへんをめざして頑張りたいと思います。

木野 タイ捨流師範代の木野幸雄です。本業は熊本北警察署刑事捜査三課です。窃盗犯をつかまえております。

渋谷 私達のところに徹斎鍋という料理がございます。丸目蔵人先生は丸目入道徹斎ともいいまして、その丸目蔵人が伝えた料理を徹斎鍋といっております。私は猪や鹿や兎を捕えて炊いて食べたのかと思ってましたら、これは鯨肉を使った鍋なんです。私達の錦町は大変な山間部です。じゃこの鯨はどこから来たんだろう。ひょっとするとこの霧立越を越えて宮崎や大分から運ばれたんではないかと思います。この点についても検討できたらと思います。

山北 錦町の山北です。こちらにも心影大車無隻流の秘伝書が伝わっているということで、今日棒術を拝見いたしまして、たしかにその動き、さばきの中にタイ捨流の流れを見ました。十手という心構えがありま す。この十手というのは両手で握る交流の手です。これが脈々とタイ捨流の道義に従っている。五ケ瀬の棒術の内情をみますとタイ捨流からでた素性がありありと分ります。その中で天地不変のニッチュウゴウシャタイチンゼツ。これから先に兵がある時は連なって出なさいという体もあります。こういう意味合いからしても五ケ瀬の棒術はタイ捨流からでた棒術だと思います。

 先だって初めて秋元さんとお会いしました。非常に奥深い意味合いの巻き物のことを話してました。そのことについては明日お話をしていくことになると思います。自然の心にそうのがタイ捨流の心でございます。今後タイシャ流の五ケ瀬と末長く交流をしていくようにお願いをいたしたいと思います。

藤山 皆さん今晩は。NHK文化センターの講師をしておりますが、今日は自分が自分にかえるためにここにきております。仕事で今朝は福岡から参りました。体調が少し悪かったんですけども、皆さんのすごいエネルギーをいただいて、ゆっくりと完全に体調を回復してきています。お隣に座っていらっしゃるすごい先生、山北先生に先程お話をうかがってみましたけど、こういうことがあったのでちょっと紹介します。先程の演武がすごかったんですけども、何かこう見えないエネルギーで相手を切りましたよねという話をしてましたら、先生が「あれはね、相手の気を使っているんだよ」ということだったんです。明日シンポジウムでそのあたりの見えない気を使うことについて、しっかりと聞いてみたいと思います。みなさんも乞うご期待下さい。

永松 椎葉村の教育委員会の永松でございます。椎葉民俗芸能博物館をオープンさせるため、昨年の4月に福岡市博物館学芸員を退任して赴任をいたしました。今日ここで山伏問答を実演するということなんでちょっとお話をしたいんですが、実はこれは源の義経が頼朝の怒りをかって東下りをしました安宅の関と申しますが、その時に山伏の姿をするという、歌舞伎でいえば勧進帳なんですけど、それを臼太鼓踊りという太鼓踊りの中の棒踊りとして実は踊っているのです。全国でこの五ケ瀬町鞍岡と椎葉村と、他に3ケ所。今夜はご覧いただいて、明日はこのあたりのことを文化交流を中心に考えていきたいと思っております。

秋本 ありがとうございました。この後地元村おこしグループによります山伏問答をやっていただきます。臼太鼓踊りの中にこの問答がございます。さわりの部分になりますがお聞き下さい。

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鞍岡の山法師問答

○とうざい

●えいさあ

○そうれに見えし山法師は、何山法師にて候

●ただ山法師にて候

○まこと本山の山法師ならば 御身の体のいわれを御開かれ候

●体は父の体内より血を丸め 母の体内に九月の宿を借り阿 吽と言う二字を受け

 生まれ出でたるがまこと本山の山法師にて候

○まこと本山の山法師ならば 御身のかぶったるトキンのいわれを御開かれ候

●トキンは峰七つ谷七つ須弥山の山を表ぜたるものにて候

○まこと本山の山法師ならば 御身の肩にかけたる袈裟のいわれを御開かれ候

●袈裟はこんにち天照皇大神を表ぜたるものにて候

○まこと本山の山法師ならば 御身の手についたる杖のいわれを御開かれ候

●杖はつく日の形と申す

○形とはいかに

●形とは良きところにもつき悪しきところにもつき杖はつく日のいわれをもって形とは申す

○まこと本山の山法師ならば 御身の腰に下げたる貝のいわれを御開かれ候

●貝は法螺にて候

○音はいかに

●音はポーポーと聞こえ次第のものにて候

○まこと本山の山法師ならば 御身の足にはいたるわらんじのいわれを御開かれ候

●わらんじは神の前でも仏の前でも これは礼なしのものにて候

○にせではない とうざいとうざい 皆を御尋ね御開かれ候 御仲直りに遊び踊り

 一度つかまつろうやと 若い衆方を進めいで 早く急いで急いで

●さっきから心得ておる

山法師のトキンの下なる乱れ髪 いくせの身にほかまわらん

山法師の肩にかけたる八重袈裟は いくせの身にほかまわらん

山法師の腰にさげたるホラの貝 いくせの身にほかまわらん

山よしが山よしがしげみで露をうけ ミノを召されよ腰ミノを召す

○とうざい

●えいさあ

○とうざいとうざい 今日は最上吉日日がらも良し 羽黒山の山法師子供

 太刀踊りを一庭つかまろうやと若い衆を進めいで早く急いで急いで

●さっきから心得ている

 

 

 

 自らの住む所の価値を自らが見出していく

 そこから地域づくりは始まる

 

与田 今晩は。福岡からまいりました。実は去年の秋にスキー場に初めて来まして、素晴らしいブナの森の紅葉に感激しました。 12月にまた訪れて今度は樹氷の美しさに感激しました。またそういう自然だけじゃなく、ここにいらっしゃる秋本さんはじめとする皆さん方の地域おこしにかける情熱に非常に感銘を受けました。それ以来、何度か訪れています。

 私はエコノスという福岡を拠点にした経済雑誌の記者です。この3年ほど町おこし村おこしをテーマに九州各地をまわりました。九州というのは一村一品の発祥の地です。湯布院がありますし、大山がありますし、小国がありますし、全国的に知られております。この3年間ぐるっと回ってみました感じでは、今、町おこしとか村おこしとか言われることが全般的に停滞というか踊り場にさしかかっているんじゃないかということを実感いたしました。先進地の湯布院でも問題をかかえておりますし、大山もそうですね。 

 なぜそうなったのかということをいろいろ考えながら、今年の5月に富山県の利賀村というところを訪問しました。あそこは皆さんご存知と思いますけど、国際演劇祭とか、そば博とか、あるいは瞑想の里ということで、自治体が主導して村おこしを進め全国的に注目されています。飛行機だと東京から2時間くらいでいけますから、東京の応援団が非常に多いということで、村おこしに弾みがついているかと思うんですけど、半年は雪に閉ざされるような自然の厳しい村でして、自治体が文化施設などを起爆剤として、都市との交流を軸としてやってきまして、年間 45万人というお客さんが来るようになって活性化に成功しているわけです。ただ人は来ているんですけども、何か少し物足りない。

 利賀村の事を考えてみますと、あそこは昔は雪深い里で造られてます合掌造りという伝統的な家屋があったんですが、今は残っていないんですよね。隣の平村には数多くありまして、さらに隣村の白川村に行きますともっとあるんです。これが今や脚光を浴びまして、村人がその価値を認めて保存してきたおかげで世界文化遺産に指定されるところまで来ているわけですね。それが利賀村で一軒もないんです。なぜそうなったのかといいますと、地域の伝統とか文化を大事にするということが利賀村の場合はなかったんです。半年間、雪に閉ざされるため外に出掛けて行って仕事を得て、それで生計を維持していたということでございまして、特に外に働き口を見つけて家ごと離村するということが出世だと受け取られていたんです。ですから村に伝わる合掌造りの民家を残すことに何の価値も感じなかったということでどんどん減って来た。

 そうした村のありようの反省に立って、今、自治体が文化的施設を造り、次々に国際的なイベントを打ち都市住民を呼び込み、その交流のエネルギーで自立を目指しているわけです。それは素晴らしいことです。新しい文化創造の一つでしょう。ただ、箱物的、イベント的色彩が強くて、地域の内から燃え上がってくるような土着的文化の匂いが薄い気がするのです。それが物足りなさを感じさせるのです。これは、ヨソ者の勝手な解釈かもしれませんが……。

 逆に隣の村では合掌造りを保存していたんですけど、それだけに寄り掛かり過ぎて、今は単なる観光地になってしまっているようで、新しい地域づくりのエネルギーは利賀村には及びません。

 ですから地域づくりとは何か、文化を守るとはどういうことか、利賀村に2、3日いましていろいろ考えたんですけど、やはり住民自身が自分たちの生活あるいは代々続いて来ている文化といわれるものに自ら価値を見いだして自分たちで守り育てていこうという気がない限り、文化というものは育っていかないのではないか。そこから地域づくりは始まり、住民自身が楽しくゆとりのある生活をおくれるようになるのではないか、ということを感じました。

 そういうことで五ケ瀬の波帰の集落をみますと、さきほどここで村おこしを紹介されましたですね、その方々が今、棒術を受け継ぎ、神楽を受け継いでやってらっしゃる。単なる森の雪を起爆剤としたスキー場建設だけでなく、ブナの森を背景にして代々伝わって来た森の文化、山村の生活、そういうものを自分たちが引き受けて、次の子供達の世代に伝えていこう。そして、自分たちの活動が都会から来た人々に何らかの感動を与えていく。そこにささやかでも交流が始まって自分たちの生きざま、村の生活を理解していただくと、そこに農村と都市の交流が深まっていくんじゃないかと、こういうことをやってらっしゃるわけですね。

 私はこれが村おこしだと思うわけです。そして都市だって自分たちの暮らしをよりよくするために「村おこし」が必要なんです。波帰の試みが今、成功しているかどうか判断はつきません。しかし、こういうことを積み重ねていけば、何らかの波紋を、小波といいますか、そういうものを都会に呼び起こしていくんじゃないかという気がしているんです。私自身が都会の住民として、取材を通じて、何か自分の生き方の上でそういう小波が感じられるのです。そのことを一人でも多くの人に伝えていきたいと思っています。

 ところで、一方、都市のほうから見ますと、農村と都市の交流とは、非常に言葉はきれいですね。さきほど田舎暮らしを始められた方がおいでになっていましたが、今、都会に住んでいる人々、特に 30代、40代の方々が自分たちの生き方を見直すときに、田舎暮らしに切り替えるということが一つの動きになっています。ただ田舎で暮らすということは非常に大変なことなんで、簡単にはいかないことだろうということは分っています。でも、都市に生活している人々自身が田舎で暮らすかどうかは別にしても、農村のこと、中山間地のことを考え、現代生活の在り方、都市の生き方を見直さないと生きて行けないような時代になってきつつあるといいますか、そういう生活になってきていることは、福岡市の水問題などでもあきらかです。福岡の市民が水を確保しようと思えば、その上流の水源地である農村のこと、山のこと、山間地のことを考え、守ろうとしなければならなくなっているわけです。

 農村がなければ都市は成り立ちません。都市はなくても農村は存立します。決してその逆ではありません。そのところを都市の住民は考えてみなければならないでしょう。しかし、経済優先、消費優先の生活の中では、なかなかそこまで思い至らない。自分たちの生活の基本的なところを支えてくれている農村が今どうなっているのか。過疎の中でどう苦しんでいるのか。生活・文化を守ってどう地域づくりを進めているのか。自然と共生する生活とはどういうものなのか。水源の森はどうなっているのか。森はどんなに美しくて、どんなに怖いのか。その森を山間地の人はどんなに苦労して守っているのか。そんなことをもっと知って、自然に対して謙虚になり、農村、あるいは現代都市の在り方はこれでいいのかなどについて都市の住民がこれから考えていくことが大事で、同時に農村に住んでいる方々もみずからの価値を認めて、それを都会の人たちにアピールしていくことです。それがうまく合体した時に初めて、私たちの行き方のひとつの反省といいますか、新しい行き方につながっていくのではないか。そういうかすかな期待を、私、この3年間村おこしの実際を見てきて持っているわ・

韻任后く

 村おこしはなんでするのか。一村一品のものをつくっただけでは決して起こりません。ものをつくるだけだったら、市場経済にバックされて競争の中で必ずしもうまくいきません。さらに、国際化が進んで安い農産物がどんどん入ってきます。物づくりだけではいきいきした地域は成り立たないのです。物つくりを基本にした村づくりが行き詰まっているからこそ、踊り場にさしかかっている、あるいは停滞感というような事態になっているんだと思うんです。だから、これから村が勢いづいていくかどうかは、村の人自身が地域について、文化について考えること、同時に村の生活に支えられている都会に住む私たちも行き方を振り返って、田舎あるいは山間地とどういうふうに結び付いていくのかということを考えていくこと、このことにかかっているという気がしているわけです。そういうことから、ブナ林文化について想いをはせる今回のシンポジウムはその一つのきっかけになるだろうと思います。

 実は私は1カ月前に秋本さんと霧立越を歩きまして、原生林も素晴らしかったんですけども、もう一つ印象的な事がありました。向こうの椎葉に下りまして椎葉の方々と交流会をしたのですが、向こうで集まった方々は椎葉村の全域から来られた方々です。こちらから行ったのは、この波帰集落、わずか 27世帯の集落の方々なんですね。27戸の集落が一つの村を相手に対等に交流を始めているわけです。そのくらいのエネルギーをこの27戸の集落は持っていたわけです。やまめの養殖から始まってスキー場、そして今の霧立越の催しに繋がる20何年かの積み重ねがあるからこそ、わずか27戸で人口4000人の椎葉を相手に交流を重ねることができるわけです。福岡から時たまここを訪れて良いとこばっかり見てるわけですから、見方が一面的かもしれませんが、現在進行形のこの村おこしの力を都会に何らかの形で打ち出すことができれば幸いです。明日、シンポジウムは椎葉でございます。私の関心の一つは、この波帰地区のエネルギーに椎葉がどういう反応をするのかということです。向こうとの力との融合を、新しい輝きを見せていただければいいなあと思っております。

 無言の教育の場としての

 自然の回復と創造を

河野 今回の霧立越をUMKテレビ宮崎が取材放送することになりまして、私はその解説者として同行いたしました。

 スキー場ができる前に秋本さんが独自に積雪量の測定とか花の撮影などをしていらっしゃった時に、私もいろいろ情報をお教えしながら参加していたわけです。ところがひとつ、私が心配するのは、その後の経緯とか現在の在り方が、最初考えていた形とはちょっと違うのではないかなということです。それで植物の立場からそのへんについて少し述べさせていただきたいと思います。

 私、実は綾町のシンポジウムの事務局をやっておりまして、いわゆる森林伐採の問題、切る切らせないという問題にどうかかわるかということをやってきました。私 30年来植物が専門ですから、そういった自然保護の問題について、日本の中で市民権を得る以前の段階からということになります。こうした中で、森を切る切らないということについて、はじめて具体的に文化論としてとらえ展開したのが綾の照葉樹林です。森林を切る切らせないということを、自然を残す残さないという形だけではなくて、人間の文化という一つの自然観から見直そうということでずっと展開してきました。まさに文化としての自然を柱にしながら展開してきたわけです。

 さきほどの与田さんの話がそうなんですが、村おこしについて一抹の不安がありました。というよりも絶対的な不安を私はずっと抱いてきたわけです。商業主義的な物づくりについて私は非常に危惧をもっていたんです。文化というのはそこで息づくものでなければ絶対に長続きしない。文化とはなりえない。文化が廃れるところには自然がないんです。文化と必然的に結びついたあるいは文化の生み出した自然がなくなったところに、伝統文化を息づかせようと思ったって、これは、一時的なエネルギーがある間はできますが、先の見えたことなんです。

 ですから、この五ケ瀬でも、スキー場の在り方についても、この南の果ての、ブナ林の南限地帯の、この地域でスキーができる状態が存続するにはどのような配慮と工夫が必要なのかということをもう少し考えてほしかったというのが、私の率直な気持ちなんです。そしてまた数少ない残されたブナの原生林を大事にしてほしいんです。私の調査では、もう消えゆくブナ林なんです。森の中に入って歩いていると意外に気がつきませんが、遠くから全体的視野で見るとその規模がどれだけ脆弱なものか、すでに滅びゆく寸前の状態しか残っていないということが分ってくると思うんです。

 そういったことを見ていきますと、この取り組みを本当に息づかせて、文化として育んでいくためにはもう少し面積が必要なんです。つまり子供たちが小さい時からその自然を肌で感じ、そこで体験するというその過程が計画的に行なわれなければいけない。その子供たちが、ここで気づくためにはふれあう自然がないといけない。一定の面的広がりが必要なんです。しかもそうした自然がここにあるというはっきりした主張が必要です。それがまだ言い足りていない。

 私、夜間高校にもずっといましたから、椎葉出身とかいろんなところから生徒が来るんです。ところがおまえんとこの村のあそこには何があったろうと言っても、全然知らない。 15年間住んだふるさとなんですが、ふるさとの山や川の植物、自然を知らない。おまえんとこのなんとかの神社のあそこにムササビがいるじゃろうって、私の方が知っているんです。地元の小学校、中学校を出ているのに知らない。つまり自然が見えないんですね。

 実は、私たちは人間の生活を変えてきたんです。その帰り現象が起こるような状態で、村おこしをやろうと思っても、これはどだい、砂上の楼閣という幻想的なものなんです。そういったことを私は各地で見ています。今、実は海外まで行って調査をしてますけども、同じ様な状況が進行しています。

 そういう中で、この五ケ瀬あるいは椎葉で次の世代に文化を引き継いでいくためには、今ある文化をとにかく継続していく努力をすると同時に、無言の教育といいますか、無言のリエションが必要なんです。それは自然なんです。その自然を作り出す創造の努力、あらたな回復の手立も一方でぜひして欲しいと思います。



続く