日本上流文化圏研究所常任理事(山梨県政策推進室)鈴木輝隆
1 プロローグ
「リーディング・エッジ」とは、時代の最先端を切り開き、新しい流れを創出することを意味する言葉で、風を切って力強く前進する、抜群にクールなイメージがある…。
そんな解説が書いてあるホット・ジャズ・ビスケットのレコードを聴きながら、平成9年11月2〜3日に、宮崎県五ヶ瀬町で開かれた「日本上流文化圏会議」について記録しようとしている。
2 地域から国を考える−もうひとつの国づくり−日本上流文化圏会議
中央(国)が地域の人を招集し、国の在り方を考える時代ではない。地方の人が自らの意志で集まり、自らのお金で胸を張って運営する会をやってみようと、平成8年3月8日、早稲田大学の後藤研究室の協力を得て行った。テーマは「地域から国を考える」。北海道から九州から、たった1日の集まりのために、約100人もの人がそれぞれの地域の産物を持って集まった。
地域を代表して、東北から九州まで10人の官・民それぞれユニークな活動を展開している地域リーダーが、下河辺淳さんを囲み、誇りをもって自分たちのまちづくりを語り合った。この会は、中央の人たちから地域のことを教わるのではなく、地方からの情報発信の智恵会議であった。(1) こうした会を続けて欲しいとの声は会が終わった時から起きた。次回は、地方で、現場でということで、日本上流文化圏研究所の設立記念として、早川町のアウトドアで行うことが決まった。
山梨県早川町は、人口は2000人弱、面積は県土の8%を占める大きな町であるが、96%が3000メートル級の山がそびえる森林地域であり、国道やJRが1本も通っていない地理・地形的条件が厳しい町である。 その町に、平成8年、地元の住民が理事・研究員となり、全国の地域づくりのリーダーや大学・シンクタンク研究者、企業者、学生等がネットワークして、上流圏地域の哲学を100年かかって具現化し、22世紀の文化を創出するための「日本上流文化圏研究所」(下河辺淳理事長)が設立されたのである(2)。
平成8年8月30〜31日、「もうひとつのくにづくり−フォッサマグナの叫び」と題した会が、山梨県早川町で開催された。早稲田大学学生の協力を得て、地元の人が素晴らしい会場設営をしてくれた。季節感あふれる洒落た山里が出現し、訪れた人たちは斬新で懐かしい景観や山の食に魅了された。
東京からでも会場まで交通機関を乗り継ぎ4時間以上かかるにも拘わらず、全国から120人もの参加者を得て、北海道から九州までの地域リーダーに、下河辺淳さん、早川町の住民も加わり、迫力の論議が展開された。 その後、日本各地で開催したいとの要望は多く、この会を全国行脚の旅に出そうと決まった。その第1回は、森のシンポジウム「地域の光の創造と発信」以来、5回の「霧立越シンポジウム」を連続して開催しているメンバーが軸となり、宮崎県五ヶ瀬町での開催と決まった。
3 日本上流文化圏会議1997 in 五ヶ瀬&第6回霧立越シンポジウム
平成9年11月2〜3日に、北海道からの12名を始めとして、全国から約150名が集まった。補助金はなく、講師の謝礼さえもなし。地元の人々をはじめ、参加者もボランティアで手伝う、全てが自発的で自主的な集まりである。
会場はもちろんアウトドア、祇園神社の境内。日が沈むと寒さが身にしみてくる季節だが、所々に炭火を入れたブリキ缶が置かれ、会場は心地よい緊張感とともに、手作りの会場の醸す暖かい雰囲気に包まれていた。 シンポジウムのメインテーマは、「日本のブナ帯文化−蘇生をめざして−もうひとつの国づくり」。サブテーマは、「新しい森の流域の哲学とくらしの創造」「消えゆく森のくらしとその作法」「ブナ帯文化とツーリズム」。
4 セッション1「全国の上流文化圏からの挑戦」
藤井経三郎さん(日本上流文化研究所長)がコーディネーター。話はいきなり、前回に出された20世紀文明の否定から始まった。 辻一幸さん(早川町長)は、昨年、ものづくりによる地域づくりの時代は終わり、これからはソフトの時代だということで日本上流文化圏研究所を設立して以来、地元の人自らが地域を掘り下げ深まっていった。全国に共感が広がり始め、地域連携が始まったと話す。
近藤庸平さん(長野県浪合村住民課長)は、山村は、生きるために外向けの顔となり、観光を目指した、そのことが、山の中で生きる意味や自分を支える理念を失わせたと語る。現在は、観光から文化・教育にシフトし、自分たちが地域で生きる積極的な意味を見いだし、対等の立場で、おざなりでない都市との交流を目指していると語る。 逢坂誠二さんは、ニセコ町役場の企画係長から34歳の若さで町長になった。45年前の黒沢明監督の映画「生きる」の内容と、今もって変わらない実情に、公務員に懐疑的となった。ふるさと創生の1億円の使い方をどのように決めたかを見ても公務員に否定的にならざるを得ないと苦い発言。共感してうなずいていた人は実に多かった。住民との「情報の共有」が必要と、町の予算概要書を普通の町民が見てすぐに分かる様式にし、町の情報を共有できるように実施した。小さな自治体の方が色々なことができる可能性が高いと話した。
緒方英雄さん(大分県大山町総合企画室長)は、20年前には若者は、農業でも車に乗れたりいい暮らしができれば地方に住んだが、ここ4〜5年は、夢がない、挑戦できない地方には住みたくないというようになってきた。しかし、大山町にやってきた福岡市の「ダメ職員」は、次々と色々な発見をし、都市に情報発信している。その中には、猟をし味噌や醤油をつくり全く自給自足をしている人の存在もあって、今や、それは大山町の最高の迎賓館となっている。町にいろんな人が入り込んできて、確実に住んでいる人の意識を確実に変えていると、熱っぽく語った。
5 セッション2「ブナ帯文化圏からのくにづくり」
コーディネーターは秋本治さん(宮崎県五ヶ瀬町)。
林のり子さん(東京・食研究工房)は、自然はいろんなサインを出していると、食のマップを出して話し始めた。昔の暮らしは、そのサインを上手く受け取って生活を楽しんでいたと、いろり端の話術を始め、現代社会が失った多様性、かつてはくらしに合わせてさまざまな暦があったと、いかにも楽しげに話す。
田村一郎さん(峰浜村・海と川と空の塾長)は、海と川と空の塾長さんである。戦後の日本は都市に金を掛けてきた。国有林は駄目だ、国は金に成らない山には予算を掛けない、と鋭い口調。森林の持つ価値を戦後の植林は壊してきた。壊れたものをどう修復するか、野生のタヌキに学べと、本気で話す。
尾前喜則さん(宮崎県椎葉村)は数少ない本物の猟師である。猟師は野生の動物を増やしながら、山からその獲物を頂くのである。語り口には、方言が入っていて土や風の匂いがする。「オコゼ祭り」の起源は、欲の深い「ウーリューシ」と欲のない「コリューシ」の話であるが、必要以上のものを獲ることへの戒めである。自然の中に組み込まれた迷信、伝説は山に生きる者の哲学であった。かつては、自然界にはどうにもならない苦労があった。現代は、機械化されて仕事は苦もなくできるようになり、自然界を甘く見るようになった。目の鱗は取れて、都市社会に暮らすわれわれは不安感と罪悪感にとらわれる。猟師を友達に持つことは人類の伝説の英知を手に入れた気がする。
結城登美男さん(仙台市・民俗研究家)は、付近の山を歩いて木の実を集めてきて、五ヶ瀬の山の豊かさに驚きの声を上げる。経済的に豊かなのがいい暮らしとは思わない、稼がないけどお金を使わないことにしていると楽しげに話す。東北の山の杉は補助金の関係で密植となり、明るい森から暗い森となり苔しか生えない貧しい植生になっている。40〜50年前のつけが今、まさに来ている。楽しく笑って暮らすためには、「農業公務員」「森林公務員」制度が必要。年間労働時間が3000時間の公務員ではなく、給料は少なくても500〜1000時間だけしか仕事をしない公務員。残りの時間は、誇り高く、自然、最高の学校に通うのだと話す。
小笠原正七さん(北海道黒河内村)は、昭和60年は記念すべき年であり、農業が落ちるところまで落ち込んだ危機感がブナに着目させることになったと語る。地域の活性化とは、経済だけでなくて心の活性化も必要であると主張して、最初は気がふれたかと思われたと、当時を振り返って語る。
下河辺淳さんは、まとめとして以下のような話をされた。 わが国の歴史を振り返ると、縄文時代、狩猟で食べられたのが60万人、米の文化で3000万人、明治以後100年間で9000万人が増えた。9000万人全部が山を恐れ、汚してはいけないと海に近いところに住んだ。人が大都市にいてくれたから、山は助かった。その20世紀が終わる。山の伝統文化は21世紀の文化であり、海の文化と山の文化(上流文化)を結んだところから考えることが必要であり、糸口は「塩の道」、尾根を歩く交通である。
20世紀は、人間を本当に駄目にし、テレビを見ないと、漁民も農民も天気が分からない。人間が情報を作ったり、感じたりすることができなくなり、人間が発する情報と自然が発する情報との会話が成立しなくなった。これから、上流に残った伝統的文化に学ぶことが21世紀への挑戦であり、同じことをする懐古趣味では挑戦にはならない。歴史的文化の研究、若者たちがそこからどういう文化を作っていくかが大切である。
林業は、2500万haの山を10万人の年寄りが守っている。若者がどのように参加するか。100万人くらいの新しい知識を持った農民像を描く必要があり、農業の現場でもユニークな青年が多く出ていて、「役人やって、言われたことだけやって、おもしろいのかね」、「農政があるから邪魔だ」とも言われた。
東京一極集中で、首都圏は3500万人の巨大都市になり、青年の3人に1人が東京に来た。青年たちが歳をとり、定年退職期が近づき、東京に来て良かったのか悪かったのか、迷い始めた。特に団塊の世代には、東京を離れて田舎に住みたいという人が増えている。30代になると、早くも東京を出たいという若者が増えている。上流文化圏側が、若者が戻る時代に間に合うように対応してもらいたいと思う。
高齢者1900万人と言っても、行政サービスが必要なのは300万人、後の1600万人はお金もあり、家もあり、経験もあり暇を持て余している。「伊達や酔狂で歳をとっているんじゃないよ」と言える高齢化社会ならいい時代になる、と締めくくった。
6 森の恵みの晩餐‐山村の芸能・山村の楽しみ方
夕食は、竹の皿に並ぶ蜂の子、沢ガニ、やまめの卵、猪脳、まむし、木の葉の上にはムカゴや森の実。ヤマメや鴨肉、鹿肉をはじめ、地元の食材をふんだんに使い、野趣と洗練を両立させた、卓に乗り切らないほどの山の幸、心尽くしの料理は、皆を感動させた。
7 エピローグ
長かった2日間は、中味の濃い談義、盛りだくさんの生活文化のもてなしで、大きな感動を参加者に与えた。後日の地元スタッフの反省会では、まちづくりも一皮剥けたという感想が出たそうである。ネットワーク型まちづくりは、地域の距離感のハンディを越えて、共通の幸運と価値のある情報の共有が新たな智恵となり、それぞれの人の自信となる。
註
(1)「地域から国を考える」の記録は、翌年の「もうひとつのくにづくり」とともに、早川町の日本上流文化圏研究所から出版されている。
(2)日本上流文化圏研究所の経緯などについては「地域活性化実務計画実態調査資料集」(綜合ユニコム)の拙稿「山梨県早川町−日本上流文化圏構想」を参照されたい。