禁・無断転載

7月15日は鞍岡祇園神社の夏祭り

―心影無雙太車流ー「タイシャ流棒術・白刃」の演武が行われます。

・9:00森巻き神事・10:30式典・11:30鞍岡祇園神楽・12:00直会
・13:00ご神幸行列・15:00タイシャ流白刃の演武・15:30祇園神楽


秋本 治

  鞍岡祇園神社の夏祭り(おぎおんさん)では、「心影無雙太車流」の幟を立て、「棒使い」と呼ぶ六尺棒を持った氏子がお神輿(みこし)のお供をして町を練り歩き、御神幸行列を警護先導する。
 神輿(みこし)の御神幸(おみゆき)は、神殿横の神輿に神殿から御神体を移すことから始まる。ご神体とは、白紙に包まれた神面(おもて)などである。この時「棒使い」たちは、神殿から神輿の間に2列に並んで六尺棒を斜めに構えてご神体の通路に何物も入れない壁をつくる。御神幸(おみゆき)の終わりにも同様にする。

 この「棒使い」は白衣袴姿で襷を掛け鉢巻をしてワラジを履いている。行列の進行途中に幾度か御神幸の隊列を止め、「たて」と称して「みち棒」と呼ぶ「棒使い」の型を演武する。「たて」とは「殺陣」(たて)を表す言葉ではないかと思う。演武中は笛と太鼓が音曲を流す。

 「殺陣」は、進行している隊列を止める合図から始まる。締め太鼓の大太鼓がドドドーンドーンと繰り返し打ち鳴らされると隊列が止まる。次はスットンスットントコトコトーンと太鼓の調子が変わると「棒使い」たちはお互いの間合いをとる。このため隊列が長く広がる。
 隊列の間合いがとれたところで太鼓はトントトントーン、トーンカッカと打ち鳴らす。この太鼓を合図に「ヤー、エイエイ」と掛け声をかけながら「みち棒」の型が演武される。この「道棒」と称される演武はタイシャ流棒術の基本型を現わしているようだ。近年は、「棒使い」に小学生から中学生まで学校を挙げて参加し、女子は薙刀を使う。

 御神幸行列が終わると、お神輿(みこし)から御神体の神面(おもて)を神殿に納め、神殿横の広場でタイシャ流秘伝の奥儀「白刃」の演武を行なう。この「白刃」は、真剣と棒、棒と棒の試合の型で大きな掛け声や気合を入れて立会いを行なう。迫力のある演武である。まかり間違えば大怪我をするので真剣だ。「白刃」には女子や中学生などは参加することが出来ない。  このように伝承されているタイシャ流は、その秘伝書が鞍岡に数巻、椎葉に数巻確認されている。その、いずれもが神格化され、波帰では天狗神社のご神体となり、その他の民家所蔵も神棚に供えてお祀りし門外不出とされている。
 神格化された巻物は一般に公開されることなく、椎葉では年に一度、定められた日以外に開くことを禁じられているという。その作法は固く守られているので、古文書としてこれを研究する人もなく神秘のベールに包まれた部分が多い。

 タイシャ流礼儀秘伝の型は、古くは人吉や椎葉にもあったといわれるが、今では鞍岡だけに残っている。それはなぜか。鞍岡では、お祭りにその型を披露するように仕組まれており、お祭りにタイシャ流は無くてはならない存在として今日まで伝えられたからである。つまり地域の遺伝子として組み込まれた先人の英知がある。

 近年、地元の青年達が地域興しとしてその技を習得継承し始めた。地元小中校生にも「みち棒」を指導している。

 タイシャ流は人吉出身の丸目蔵人が開祖で、丸目蔵人は柳生流の開祖、柳生石舟斎宗厳と互角に戦った剣豪といわれ、一時は日本を二分する流派であったと伝えられている。丸目蔵人は、晩年球磨郡錦町に隠遁して水田を開墾したり、夜は兵法を論じてたくさんの門弟を育て89歳で没した。その墓は錦町にあり、錦町では剣豪丸目蔵人顕彰剣道大会などを開催して剣豪日本一の里づくりが行われている。


 このような剣の道(古武道)を辿ってみると古くは鵜戸神宮の岩屋で陰流を開眼したといわれる愛洲移香にはじまる。愛洲移香は鵜戸神宮の岩屋に籠もって剣の修業をしていたが、ある時、夢枕に猿があらわれて陰流の秘事を悟った。 もう一つの伝説では、鵜戸神宮の岩屋で剣の修業をしていると蜘蛛がすーっと天井から糸をひいて下りてきた。愛洲移香は、その蜘蛛の動きを見て陰流を編み出したといわれる。以来、武道の流派はこの陰流から始まることになる。

 こうしたことから、日南海岸の鵜戸神宮は、愛洲移香の陰流開眼の地として知られ、陰流開眼を記念して剣道発祥の地として、毎年「剣法発祥鵜戸山顕彰剣道大会」が儀式殿前広場で開催され、祭礼当日の境内は剣客で賑わっている。

 陰流を開眼した愛洲移香は熊野水軍ともいわれ海の支配者でもあった。熊野水軍は紀州が本拠地で愛洲移香の墓も三重県南勢町にある。南勢町の愛洲城跡には愛洲陰流開祖移香斎久忠の碑が建立され、愛洲の里とし愛洲一族の栄華を物語っている。

 紀州の上泉伊勢守信綱は陰流を基にして、沢庵和尚の禅などを導入して新しい陰流「新陰流」を確立した。この剣法は剣禅一致、無刀流として刀を使わず勝利を収める活人剣を目指すもので、上泉伊勢守が剣聖といわれる所以である。

 こうしたことから、新陰流は全国に知れ渡り上泉伊勢守信綱のもとには全国から武芸者が集まった。その門弟には、疋田文五郎、柳生石舟斎宗厳、宝蔵院覚院坊胤栄などがいた。丸目蔵人も上泉伊勢守の門下となって新陰流を学んだ。

 柳生石舟斎宗厳は新陰流を基にして新陰柳生流を起こし、丸目蔵人は新陰流を基にして新陰タイ捨流を開眼した。その後、新陰柳生流は徳川幕府になってから、江戸城の指南役となったが、東の柳生、西のタイ捨といわれていたという。

 ある時、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の御前試合を上泉伊勢守と丸目蔵人が行った。この時の感状に「上泉の兵法古今比類無く、天下一と言うべし」「丸目の打ち太刀これまた天下の重宝となすべきものなり」とある。

 丸目蔵人のタイ捨流の特長は、右半開から左半開へと軸足が動き、全部斜め切りで逆足が入っているという。新陰流は禅宗であるが、タイ捨流は、真言密教であるといわれ、試合を始める前に「摩利支天神呪教」を唱えるといわれる。

 以上が丸目蔵人のタイ捨流のルーツであるが、鞍岡のタイシャ流は、刀と刀で戦う刀術と違い、棒と刀、或いは棒と棒で戦う棒術である。巻物の免許皆伝書には肥雲働山の一能院友貞から柏村十介に渡されたのが最初となっており、山や院がついていることから、山伏系統の武術ではないかと思われるが 筆者がこれまで調べた限りでは、肥雲働山や一能院友貞、柏村十介などは歴史上にでて来ない。

 九州山地には昔は多くの山伏がいたと思われる痕跡がある。例えば、霧立越にある白岩山の西斜面に「カゴが岩屋」と呼ぶ洞窟がある。この岩屋は、人が住むのに結構便利と思われる6〜8畳ほどの自然石の部屋がある。昔、いたずらする子供に「ガゴが来るぞ」と脅されていた。けれどもその「ガゴ」が何物かは古老も誰も説明できなかった。

 巨樹の会を主宰する平岡さんは、霧立越シンポジウムで「明治政府になって政府は山伏の痕跡を抹殺した」と言われた。武装ほう起の恐れがあるからだという。山伏は、修験者ではあるが絶えず武術を磨いていたのでクーデターの恐れがあったのかも知れない。2001年発見した白岩山の東斜面の「幻の滝」もどうも「修験者」がいたのではないかと思われる伝説を地元の人々が語り継いでいる。

 タイ捨流13代宗家の山北竹任氏及び錦町教育委員長(熊本県文化財保護指導委員)の渋谷敦氏によれば、丸目蔵人の墓前で自刃した伝林坊頼慶という高弟がいたので、鞍岡の棒術は伝林坊により広めた山伏系棒術ではないかといわれる。

 伝林坊頼慶は、中国から渡来した武術家で佐賀にも滞留したことがあり、丸目蔵人が没して七年後、寛永12年頃没したと伝えられている。また、丸目蔵人のタイ捨流そのものが中国の武術をヒントに編み出したものともいわれる。

 それでは、人吉の武術がなぜ鞍岡に伝承されたかということであるが、それは、霧立越という尾根伝いの駄賃つけ道により伝承されたものである。霧立越は、馬見原から鞍岡、椎葉へ通じる街道で、椎葉からは人吉球磨に通じている。

 車社会以前の山地の民は、尾根伝いの道を街道にしていた。谷を下ると急峻な崖が多く尾根伝いの方が安全で最短距離である。(霧立越については、霧立越の歴史と自然を考える会発行の「霧立越シンポジウムの記録」を参照されたい。)

 タイシャ流の秘伝書はこれまで数回公開された。特に平成7年10月の「タイシャ流棒術350年と霧立越」のシンポジウムは、秘伝書に鞍岡の山村四兵衛が正保二年に免許皆伝を受けた記録があることから350年目を記念して公開された。

 秘伝書の内容は椎葉に所蔵されている巻物も鞍岡に所蔵されている巻物も大きさや天狗の絵に違いははるものの文書部分は伝尾判以外ほぼ同じ内容である。巻末の伝尾判の部分が途中から枝分かれしているだけである。

 椎葉、鞍岡を通じて免許皆伝者は鞍岡の山村四兵衛から始まっているが、その後伝授者が複数となりっている。どの巻物が真正であるかは不詳である。椎葉では明治19年まで伝授されていた。天狗神社の巻物は、嘉永8年で終わっている。嘉永は7年で終わっているので、九州山地の奥深くまで元号の改元情報が届かなかったものであろう。

 尚、タイシャの名称については、丸目蔵人13代宗家では、タイは、体、太、対、待を現すのでタイとし、シャは待つことを捨てる自在の構えで「捨」とするといわれている。このため丸目蔵人本家を指す場合はタイ捨とした。当地の棒術では秘伝書に心影無雙太車流とあるのでこのように使うことが望ましいと思う。