台湾紀行

苗栗縣農村活性化シンポジウム


2002年1月28〜2月2日
秋本 治

伊藤さんからの電話
 平成13年の紅葉が終わる頃、静岡の伊藤光造さんから「来年の1月下旬に台湾へ行ってくれないか」と電話があった。伊藤さんは、樺n域まちづくり研究所を主宰し都市計画や各地の地域づくりの仕事に携わっている。以前、国土庁地方振興アドバイザーで、ある町の長期ビジョン策定などにご一緒したことがあった。全国の地域づくり実態に詳しく、鋭い切口で地域のあり方を語る。彫りの深いマスクに長身のスマートな紳士である。電話口では一瞬迷ってしまったが、議会も予定がなさそうだし、通訳がつくということなのでなんとかなるだろうと軽く引き受けてしまった。

 それからしばらく忘れていたが、12月も押しせまった超多忙な時期に「講演原稿を書いて送ってください」と連絡が来た。資料作成するのに翻訳の必要があるからだという。それも一週間以内にということである。まだ、シンポジウムの中身についてもよくわからず講演の内容どころではない。台湾の「黄」さんという方や、たどたどしい日本語で話す旅行会社から電話やFAXが入るようになった。

 これまでシンポジウムで事前に原稿を書いた経験はなく、大体その時々ぶっつけ本番である。事前に用意しても会場の雰囲気や客層、対象者により用意したキーワードが合わない。第一面倒である。台湾もそんなことで気軽に引き受けていたのだ。慌てて簡単なレジュメだけを適当に書いてFAXした。

 それ以後も、目前の時間との戦いに明け暮れて準備不足のまま日程が近づいたある日「OHPを準備したほうがいいですよ」と伊藤さんからアドバイスの電話があった。「えっ、もうそんな時期ですか」、引き受けなければ良かったと思うがあとのまつりである。あわてて熊本市まで出かけOHPのフィルムを買ってきた。今はパソコンのプリンターが安くて高性能になり便利である。写真やグラフ、表などを簡単にOHPに印刷することができる。透明なフィルムに印刷したOHPは会場のプロジェクターにのせればスクリーンに大写しされ視覚的にも有効なプレゼンテーションとなる。スライド映写みたいなものだ。もっとも、最近はパソコンに直接接続して映し出される機器が開発されたのでその方がもっとよい。 

 あれよあれよという間にその時はきた。前日深夜まで留守中のやるべきことはどうにかやっつけ、床に就く間もなく起き出して車のフロントガラスの雪を掻き落し、しらじらとした夜明けの雪道を板付空港めざして走った。幸い雪による通行止めはなかったが高速道も時折風花が舞う寒い朝である。慌しくチャイナエアラインに飛び乗った。



シンポジウムの仕掛人
 タイペイ(台北)の空港では、シンポジウムのスタッフ「リン」さんが待ち受けていることになっていた。入国手続きを済ませゲートに出たが出迎えの列の中に「リン」さんらしい人物は見当たらない。連絡がとれていないのだろうかと急に不安になった。ゲート付近をしばらく行ったり来たりしていたら「秋本治先生」と書いたカードを持つ逞しい青年が視界に入った。彼は隣のゲートで待っていたらしい。

 「リン」さんは荷物を取り上げ、ターミナルビルを出て黙々と駐車場へ向って歩く。後ろから声をかけるが返事がない。日本語が通じないらしい。駐車場に辿りについた時「リン」さんは携帯電話を取り出してどこかへ連絡を始めた。そしてその携帯電話を私に差し出した。受け取って耳に当てると「黄」さんの日本語が聞こえてきた。

 ようやく「黄」さんの電話を介して「リン」さんと意思の疎通がはかられるようになりほっとした。「リン」さんの運転する車中で目的地のミアオリ(苗栗縣)を探していたら以前「三義」という木彫り工芸の里を訪ねたことがあるがその近くにあった。台北空港から高速道路で2時間の距離にある。

 高速道路の車窓から見る景色は、日本の春の田園風景そっくりである。ところどころ菜の花畑が広がって黄色の絨毯が後ろへ流れていく。時々花の色が真っ赤な桜のような花が咲いている。寒緋桜かも知れない。数時間前に雪の中からでてきたのが夢のようである。その内、すっかり眠り込んでいたら車は市街地の街角で止まっていた。

 ここには、前日から台湾入りしている伊藤さんと、空港で携帯電話で話した「黄」さんが待っていた。「黄」さんは、面長でほっそりとした長身の紳士だ。時々無造作にかきあげる髪は半分くらい白髪である。差し出された名刺には台湾の国立政治大学地政学教授とある。日本の早稲田大学にも7年前在学していたと言われ、名刺にも「日本早稲田大学工学博士」と併記されている。筆者を誘った静岡の伊藤さんは「黄」さんが早稲田大学にいた時からの友人という。今回のシンポジウムの仕掛け人のようである。

 ここで「黄」さんの車「ベンツ」に乗り換えた。これから明日まで農村各地を訪問し、地域づくりに取り組む人たちと意見交換を行うということである。「黄」さんの運転する「ベンツ」は音もなく市街地を滑るように走り出した。台湾の大学教授は収入がいいのだろうかすごい高級車だ。

 シンポジウムが終わって苗栗縣から台北へ帰る車中で「黄」さんと同じ苗字だという黄 南淵氏は「黄 健二さんの家は、大地主で以前は、千町歩の土地を所有していた。自宅から駅まで長い道のりを車で全部自分の土地を走って行った」と言われる。「今は100町歩くらい残っているが」とのこと。どうやら教授は給料だけではないらしい。そんな話をしてくれた黄 南淵氏は、日本の国土交通省のような政府組織の長官を務めていて最近退職したという、現在は内政部建築研究所の顧問や財団法人中華建築中心評審会主任委員等の要職にある。今回のシンポジウムにゲストとして招かれていた。



煉瓦のまちづくり
ベンツはやがて埃っぽい煉瓦工場に到着した。すると、待ち構えていたらしいテレビカメラや新聞記者らに取り囲まれた。これはかなり大掛かりなシンポジウムらしい。工場では、金良興窯業股?有限公司の經理という「張翼平」氏が会議室に案内して煉瓦を使った町づくりの取り組みについて説明を始めた。煉瓦産業が振るわないらしい。大学や地域づくりグループと共同で煉瓦を使った町づくりを進めたいという。その会議室には、おびただしい数の試作品が並べられていた。煉瓦に人形の絵などをデザインして焼き上げたものがある。

 「高砂族ですか」と聞くと「そうだ」という。台湾には、多くの原住民族がいる。高砂族はもっと南の亜利山付近である。苗栗縣には「客家」という部族が多いらしい。「客家」の民族人形もあるのだろう。「この煉瓦のデザインはどうだ。」「この煉瓦はまちづくりにどのように使ったらよいか」なとど質問される。

 工場見学の次に案内された場所は小高い丘の上で、ここでは農村公園を造成している。強風が吹き荒れてとても寒い。南国へ行くのだからと思ってコートは板付空港で車の中に置いてきてしまった。悔やまれることしきりである。この小高い丘の上には噴水があり、その噴水の水を丘の中腹に流して集め循環させる計画らしい。「この丘は元墓場であった」という。墓地を移転して、その跡地の寂しいイメージを一新するために農村公園としてデザインするという。「この噴水の設計をどう思うか」とか「煉瓦はどこに使ったらいいと思うか」などと質問される。付近にある民家は、人が住んでいるかどうか分らないような古い家は煉瓦づくりで、新しい家は皆コンクリートづくりである。

 そのうち、現地案内をしているグループが二つあることに気づいた。1つのグループは筆者と伊藤さんを囲んで案内する15人ほどのグループ。もう1つは、背の高い赤ら顔の表情豊かな外国人男性とマンガ「アルプスの少女『ハイジ』」にでてくる髭のおじいさんタイプの紳士2人を囲む15人ほどのグループである。

 その外国人は「ボンベックと呼んでくれ」と名刺を差し出した。名刺には、ユニバーシティ オブ ロストック プロフェッサー へニング・ボムベックとある。ドイツのロストック大学の教授だ。デベロップメンツ オブ セツルメンツ アンド ルーラル ビルディングと書いてある。農村地域開発プランナーと訳したらいいのだろうか。もう一人の髭の紳士はダルク アルザス教授でエネルギー問題に詳しい専門家ということである。ともに今回のシンポジウムに台湾が招聘したパネリストである。



地域プランナーとの交流会
 農村公園視察の次には、旧日本人教師宿舎といわれる廃屋に案内された。台湾が日本統治時代、学校に併設した教職員住宅という。まさに昔の日本風木造建築の職員住宅がぼろぼろになって傾いて建っていた。屋根瓦には小さな鬼瓦が乗っている。台所に格子戸や出窓のある純木造住宅だ。ドイツのボンベック先生は、鬼瓦や格子戸、出窓などに「これは日本の文化だ」としきりに頷いていた。室内は襖が外れて倒れ、昔の教科書のような本が散乱し、厚く降り積もった埃の中に見え隠れしている。とても家の中に入れるような状況ではない。

 町づくりにこの廃屋を復元したいというのである。いろんな地域を視察するたびに「日本統治時代は」という説明がよくでてくる。筆者には台湾の人々が日本統治時代を懐かしんでいるように見えた。地名なども日本統治時代の影響を受けている部分が多い。日本統治時代のなごりを引きずりながら、二つの中国の狭間で苦悩する台湾の人々の心情を思うと、なんだか複雑な心境である。筆者は、質問に答えて「この建物は、あまりにも老朽化がすすんでおり、且つ日本文化というほどの建造物ではない。安普請の宿舎であるから復元にあたいしないのではないか」と述べた。

 次に案内されたところは、これも廃屋であるが、赤い煉瓦づくりの豪勢な建物である。7〜8つの部屋が広い中庭を囲むようにして建てられ、正面には素晴らしい彫刻が施された仏壇のような建物がある。長い間、人が居住していないと見えて室内は大きな鏡台などの家具類や蚊帳を吊れるキングサイズのベッドなどが埃だらけになっている。「これは貴重な民族文化ではないか、是非手を入れて復元してください。宿泊施設などにも転用できるのではないか」と言った。

 最後に、近くのお寺(廟)に集合し、地元のみなさんとのディスカッションである。お寺といっても台湾の宗教は道教だ。お寺の概念では説明できないが極彩色を施した装飾や彫刻は見事である。地域のコミュニティのよりどころとなっているらしい。

 先ずは、地域おこしグループのメンバーがそれぞれ自己紹介や地域づくりの取り組みについて説明をはじめた。通訳を通じてのディスカッションが始まったが、言葉の壁はもどかしいことしきりである。終わりに全員揃って記念撮影した。



錦水温泉
交流会が終了して外へ出るとすでに薄暗くなっている。これから1時間ほど山手の?水渓という谷川沿いを車は登り、泰安の錦水温泉飯店というホテルに投宿した。この付近は、標高500mあり渓を跨いで大きなつり橋がかかって、その両岸にホテルが数軒ある。かって日本統治時代は日本軍専用の保養地であったという。今では、この地方最大の観光地となっている。

 夕食はドイツのボンベックさんたちとシンポジウム関係者が円卓を囲んで座った。ボンベックさんたちと話しをするには、日本語を台湾語に翻訳し、更にドイツ語の通訳が台湾語からドイツ語に翻訳しなければ話すことができない。二人の通訳を通しての会話という実にもどかしい晩餐会である。親指ほどのとても小さなグラスを両手で目のあたりにささげては乾杯の繰り返しだ。「ゆっくり好きなだけ飲みたいよ」と思うがままにならない。

 そのうち酔いがまわり、しだいに落ちついてきた。思えば長い1日であった。今朝、雪の中から自宅をでてきたのは遠い昔のような気がした。部屋に返り風呂に入ろうとするが部屋の風呂は巨大でお湯をためる時間を考えるとちょっと億劫になり、屋上の個室沫風呂に入ったが石鹸もなく、ほうほうのていで引き返して就寝した。部屋が寒い。台湾には冷房の設備は完備しているが暖房の概念は無いのだ。おまけに台湾では浴衣などの寝巻きはホテルには一切置いてないから下着のまま毛布にくるまって震えながら寝入った。

 翌朝の景観は素晴らしい。長いつり橋の向こうにホテルの赤い屋根のコテージが見える。散策して橋を渡ると緋寒桜が満開である。桃の花も咲いている。ひとあし早い花見ができた。霧に包まれた渓谷と上流に連なる山脈は、美しい自然景観を作り出している。



モデル地区の参観
 30日は、農村のモデル事業実施地区と県庁訪問である。苗栗県は人口30万。台湾には21の県があり、県の規模は、日本の三分の一から五分の一ほどの大きさだ。その下に「鎮」と「郷」がある。「郷」は日本の「町」や「村」に当るようだ。〇〇郷という書き方は、〇〇町という日本の書き方よりは、なんとなくコミュニティのイメージが湧く。桃源郷のような響きがあっていい感じだ。農村を訪れるとまさに桃の花が満開であった。また、日本でいう「地域」のことを台湾では「社區」と書く。これは「地域」のほうがしっくりする。

 農村のポケットパーク的な公園や陶板で統一したサインの案内板、町並み美観修景事業、ハーブレストランなど質の高い町づくりがなされている。「黄」先生は、日本の町並みという概念が台湾ではなかなか理解できずに苦労したと言われる。泰安の清和村の「客家」と呼ぶ民族地区では、建設局都市計画課職員の案内で町並美観事業実施地区を参観した。赤い屋根の町並みの壁を木の板壁に替えてフラワーポットを入れる木箱を壁に取り付けるなど明るい商店街が山奥の町に出現している。この事業により来訪者が数倍増加したという。

 ある農村で、小さな廟を囲んでデザインした小公園では、大木の周りをコンクリートで固めてあった。これを見たドイツのボンベック先生は、すかさず「これは駄目だ。樹木の寿命を縮める。透水性の素材を使うべきだ。樹木は枝の下まで根があるから。」とさっそくデザイナーにアドバイスしていた。

 田圃の水路に水車をつくって水車景観補助事業なとどと書いてある。また、水田に水をはり芋の苗を植え有機農業指定地区と案内板を設置してある。ハーブ園では実にさまざまな香草の栽培が行なわれていた。また、日本の「道の駅」風に特産品販売所なども設置してある。ただ、商品数が少なく閑散としていたが本日は平日だからという説明があった。

 こうした町づくり事業は、1997年から始まり2001年は、1県8000万で20箇所、清和村では1000万で3箇所整備したという。台湾の通貨は日本円に換算すると約2.6倍である。農村では「WTO加盟の防衛策として観光農園を推進する」という。町づくりで何より日本との違いを感じたのは、大学が地域づくりに積極的に加担していることである。政府は、地域づくりデザインをコンペみたいに募集し、大学ではそのプランを提案する。プランが採用されれば数千万の予算がつくということである。

 今度のシンポジウムもそのようなことらしい。「台湾が今年1月1日からWTOに加盟した。これからの農村は、いままでのようなことでは成り立たなくなる。だから我々は農村のあり方を研究しているのだ」というような説明がよく出てくる。危機意識が非常に高い。日本と中国の賃金格差は、およそ20分の1、台湾は丁度その真中ほどである。その位置付けでWTOに加盟してこれから価格競争が始まるという危機感がある。そこで農村は景観づくりをはじめたのだ。日本のように都市と農村の交流による活性化を模索しているようである。



苗栗縣庁訪問
 泰安虎山の再開発、ハーブ園等いくつかの地域づくり実施例を参観した後、苗栗県の県庁に向かった。県庁では、副県長、つまり副知事の陳秀龍氏が出迎えた。「我県は、1820kuでその85%が山岳地帯である。しかしながらバナナやオレンジの生産は世界のトップにある。今年1月1日をもってわが国はWTOに加盟した。これからは、土壌改良、品質改良、有機栽培等に切り替え、低農薬栽培を目指している。1940年代の日本統治時代日本から学び、更に西ドイツから工業発展を学んだ。台湾の東側は、国際観光団地として、西側低地は工業団地として発展させている。」と説明があった。

 ついで知事からの贈り物として木彫りの大黒様とえびす様が贈呈された。苗栗県の三義という地域は有名な木彫りの里でご当地の特産品である。「これを持つとお金が貯まりますよ」と笑顔の副知事は上機嫌で手渡された。
その後、会議室に通され、苗栗県政府建設局長の韓鴻恩氏を囲んで地域づくりについての議論である。日本ではどうか、ドイツではどうか、昨日から参観した地域をどう思うか。とつぎつぎと質問を浴びせられる。会議室を出た時、街はもうネオンが輝いていた。役所も熱心である。昨日からの強行日程で疲れてしまった。

 夕食は町のレストランへ案内されたが、これが実に大変であった。いつまでたっても料理が出て来ない。ビールを飲みながら待つこと1時間。ようやくつまみらしいものが出始めた。かつて中国の広州で有名レストランに予約をして6時に席に付き、料理が出尽くしたのが9時を廻っていたいたことなどが思い出された。どうも日本でせっかちな暮らしを続けていると調子が狂ってしまう。

 食事が終わると、また車で延々と走り、明徳水庫教師会館という教員宿舎のような宿泊施設に案内された。水庫とはダムのことでダムサイトに建つホテルのように立派な宿泊施設である。「黄」先生は、明日のパネルディスカッションで、筆者の講演原稿がないので打ち合わせをしたいと言われる。そこで、部屋に持参したOHPを広げ説明した。

 「日本では、弥生時代以降二千数百年、自然界から遠ざかることから快適な暮らしができる方向へとすすみ、戦後五十数年は究極の都市文明を築いた。都市文明は自然界から全く隔離された暮らしである。人間は基本的には、自然界と関わり合いながら生きていくべきもので、自然のないところでは精神構造もいびつになる。アトピーや花粉症などのアレルギー症もこうした文明病である。

 野生の強いヤマメが養殖することによって自然界で棲息できない種となりつつある。これは都市文明を築いた人類と同じで、種がひ弱になり人間の正しい遺伝子を後世に伝えることができなくなっているのではないか。日本では、公園でバラの花の匂い嗅がせたいと思った都市に住む親が子供にその匂いを嗅がせたら、その子供は「うーん、トイレの匂い」と言ったという逸話がある。トイレの芳香剤が本物で、バラはそれに近いというのである。まさに何が本物か分からないのが今の都市文明の子供たちで、魚の刺身は刺身で泳いでいるくらいにしか思っていないのである。死んだカブトムシも電池を入れると生き返るくらいの発想だ。だから、都市住民に農村や自然の中で過ごす時間を提供しなければならないという農村の役割がある。

 ヤマメは、日本固有の種であるが台湾にも生息しているはずだ。今から30年ほど前、私の知人が台湾の源流域でヤマメを釣ってきた。台湾が正式な南限と思う。ヤマメは源流にブナ林を持つ地域に生息する陸封魚である。したがって台湾にもブナ林があるはずである。このような自然界を見つめることから地域おこしはスタートしなければならない。そこで日本のブナ帯文化の話をしたい。」 

 OHPをベッドの上に広げながらこうした話を説明した。すると翌日は、台湾語に置きかえられて資料としてシンポジウムの会場に配布されていた。「黄」先生は深夜にまとめられたようである。いやはやその努力には頭が下がるばかりである。ところが、ブナ帯文化圏ビジョンの項でその翻訳にびっくりした。ブナ帯文化のことが鮒魚帯文化と訳されているのである。樹木のブナが川魚の鮒と間違えられているのだ。鮒の生息地域にも独特の人類文化があるのだろうか。翌日のシンポジウムでは、ブナ帯文化については一切触れなかった。

 さて、こうして夜は更けたが室温は14℃である。寒い。ここにも暖房がない。エアコンをオンにしても冷風だけがでてくる。ここでも下着のままもぐり込んだベッドの中でがちがち震えていた。朝方室温は12℃に下がった。とうとうあまり眠ることができずにシンポジウムに臨むことになった。



シンポジウム
 翌朝、私たちを乗せた「黄」先生のベンツは、勢い良く会場の苗栗縣国立総合技術学院の講堂に滑り込んだ。会場周辺は学生やシンポジウム関係者、マスコミ関係者でごったがえしている。建物は最近完成したばかりのようで朝日を受けて光り輝いている。活気に溢れてとてもまぶしく見えた。

 今回のシンポジウムは、苗栗(miao-li)縣の事業で、「苗栗縣社區規劃師培訓計畫 跨縣市觀摩交流研討會」という大会。つまり、「ミアオリ県 地域プランナー育成シンポジウム」とでも訳したらいいだろうか、そのような大会である。

 知事あいさつ(縣長致詞稿)に「城郷風貌在苗栗――苗栗縣社區規劃師列車開動!」と掲げられている。地域プランナー育成コースを設けて、学生のみならず一般にも門戸を広げて150人募集し、8週間の講義を行ない、今日はその卒業式を兼ねての地域づくりシンポジウムである。150名中127名が地域プランナーとして卒業できたそうである。今後は、この学生たちが地域に入って行き、地域のプランづくりにかかわっていくことになる。

 会場はすべての席に一人一人マイクが設置された200席ほどの立派な国際会議場である。午前が卒業セレモニーで、午後からパネルディスカッションとなる。このシンポジウムをプロディユースする若い「王本壮」氏は、国立政治大学地政所博士候選人で国立総合技術学院の選任講師でもある。彼は、「黄」先生の指示で一年間休職してこの大会の準備にあたってきたという。凄い力の入れようである。

 その「王」氏の司会でパネルディスカッションは始まった。苗栗縣政府建設局長、韓鴻恩氏の挨拶と前建設省の局長、黄南淵氏の基調講演があり、国の方針や地域づくりのあり方などの説明があった。続いてドイツのボンベック先生だ。ドイツを独と書くのは日本だけらしい。台湾では徳と書く。旧西ドイツを徳西、東ドイツを徳東と書く。
  


グローバルスタンダード
 ボンベック先生は、ドイツの農村が疲弊しいている状況をパソコンで投影しながら解説、自然生態農業と景観づくりを講義する。台湾語に翻訳した資料では「議題:農村的生態興景観」である。ドイツは、農村のB&B(ベッドと朝食のみを提供する農家民泊)システムを開発したり、クラインガルデンという農村景観を創出したりする農業政策の先進国である。彼は、アメリカのグローバリズムに真っ向から反対している。「グローバル化は地域の文化や農村を崩壊させる。」と明快な思考である。

 筆者も大賛成である。そこで日本を考えてみた。農村におけるグローバリズムは、どこかの一国が勝ち組みとなれば他の負け組みの国では農村が崩壊するのが道理である。それぞれの国には固有の生活文化があり、特有の通貨と経済が成立していた。それを国際標準化していくと、それぞれの国の生産基盤の格差が市場の格差となる。その格差を市場原理にゆだねて為替レートが変動するとグローバルスタンダードに合わせなければ生き残れなくなる。それができない地域は消滅するのを待つのみである。

 日本の消費者は、輸入ものが安い安いと大喜びである。しかし、それによって国内の生産者や製造業者はリストラや賃金カットしなければ生き残れなくなる。すると製造にたずさわる消費者の収入は減少するので消費を控える。するとサービス産業も影響を受け廃業やリストラだ。するとサービス産業で従事する消費者も収入がなくなるのですべての消費者は消費を控える。消費がなければすべての消費者の所得が減少する。不況は製造業から始まってサービス産業まで全産業に広がった。デフレスパイラルだ。

 今、そのつけが不良債権処理問題となった。しかし、不良債権を処理しても消費が伸びることにはならない。消費を伸ばすことができる消費者は、税金で生活を保証されている公務員だけだ。生活が保証されているのだからこの際思いきって公務員は消費行動をおこしたらどうだろう。それにつられて「それなら」と箪笥預金の金持ちも動き出すに違いない。きっかけづくり、呼び水が必要だ。そうしなければますます税収が減りやがて公務員もリストラや賃金カットしなければ国が破綻する。

 こうした経済危機克服への道は、グローバリズムに一時ストップをかけて態勢を建て直さなければならないのではないか。マレーシアのマハティール首相を学ぶべきではないか。マレーシアの経済危機を乗り切ったのは、氏の大胆な固定相場制導入であった。農山漁村や製造業の成立しない国の経済は砂上の楼閣に等しいのではないか。

 確か毎日新聞のインタビュー記事であったと思うが、氏は「今の日本の若者は西側の価値観に身をゆだねている。だから、無責任な行動を起こしているのだ。自国の優れた価値観を、若い世代に浸透させるよう努めるべきだ。そういうことをマレーシアでやりたいと我々は考えている。 」とあった。「NO」と言える日本にならなければならないのではないか。

 どこに行ってもホテルの朝食が「ジュースはオレンジ、アップル、トマトから選び、玉子料理は、フライドエッグ、ボイルエッグ、スクランブルエッグから選び、ベーコン又はハムを選び、コーヒー、紅茶をチョイスする。」これがグローバルスタンダードである。そうした食材は、どこの国のものか分らない。どのような防腐剤や処理剤を使ってあるか知る由もない。深く考えさせられた。



次世代エネルギーは太陽光
 次はダルク・アルザス教授である。旧東ドイツ出身の学者だ。哲学者でもある。彼は、地球誕生から人類が出てきて、人類は地球のどのようなエネルギー資源を消費してきたかということを年表やグラフを使って検証する。そして、これからの21世紀ビジョンを明確に示した。それは、「もはや核エネルギーは安全でないことが立証された」ことや「化石エネルギーも50年後には底をつく。」また、「化石エネルギーは地球環境を破壊する」とし、次世代のエネルギーは太陽熱と生物から生成するメタンガスしかない」という。確かにドイツは脱原発を宣言している。

 そこで地域づくりは100年単位のプランが必要で、太陽エネルギーを考えなければならないと説く。太陽エネルギーで発電し、そのエネルギーを水素に転換して貯蔵するという発想である。例えば車のガソリンは1リットルで10kmしか走らないが水素を使うと1リットルで数万km走る。しかも排気物は水のみであると。そして大量生産はサハラなどの大砂漠地帯で行なえる。また、日照時間の少ない地域は、家畜などの糞尿や生物から生成するメタンガスを活用すべきだと論じる。

 200人ほどの会場はさすが専門的に勉強した秀才ぞろいである。次々と質問が飛び出した。筆者にも、「ヤマメの養殖を行なう場合、日本の河川法や漁業法はどうなっているか」とか、「日本では設備資金はどういう制度があるのか」とか、「マーケッティングリサーチはどのようにして行なったか」とか「町づくり事業で成否を判断する基準はどのようにするのか」など冷や汗のでるような質問が続く。

 ダルク・アルザス先生の水素エネルギー問題も「水素を大規模に圧縮すると危険ではないか。」など質問が集中した。特に環境問題については活発に議論がなされた。台湾は目下、河川工事がいたるところで大規模に行なわれている。「コンクリートで固めた護岸工事も壊れている、自然生態系を壊さない工法はどうすればよいか。」とか、「自然生態農法」「有機農業」「低農薬農業」「景観作物」「地産地消」「地域循環経済論」など、ほとんど日本と同じようなテーマでディスカッションされた。

 ドイツの学者は大胆で明確な方針を打ち出す。そしてスマートである。この日も脱帽した。前日までの農村訪問の際には、くだけた普段着であったがシンポジウム会場では髪を整え、バリッとしたダブルのスーツを着て人が変ったように颯爽と登場した。TPOが実に見事だ。質疑応答が夕暮れまで続き、パネリストに最後の一言づつと言われた時、ボンベック先生は、地域づくりプランナーの卒業者にお祝いを述べ、自分の胸につけられていた講師の花をさっと外してスタスタと会場の中に降りて行き、今日の地域づくりプランナー卒業者の最年長の夫人の胸にその花を付けてあげたのである。午前の卒業セレモニーで最年長の卒業者が表彰されたのを彼は覚えていたのだ。会場は大きな拍手のうずに包まれた。心にくいほどの演出である。

 筆者の養殖やまめの野生の退化と人間の文明との比較論にも「とても面白い、是非ドイツにも来てください。」とボンベック先生から握手を求められた。

 台湾のヤマメのことも多少分った。高い山の源流域に「桜花勾吻鮭」(イン、ファ、ゴウ、エン、グエ)と呼ぶ淡水魚がいて天然記念物に指定されているという。数年前の豪雨による災害で姿を見せなくなったそうだ。「桜花と口がかぎになった鮭」と書くので多分これがヤマメであろうと思う。いつか確認したいものである。

 こうして長いシンポジウムは終わった。明日は故宮博物館の案内という。「黄」先生のベンツで夜の高速道を台北に向かいようやくホテルに着いた。伊藤さんと一杯やりましょうと夜の盛り場に出かけたが飲めるところがない。屋台風の麺類など売っている店に入ったがビールもなく酒類は販売できないという。ほとんどのレストランはタバコも駄目で喫煙する場所が無い。灰皿を見たのは副知事の応接室だけである。もっとも外国人のための特別な店では例外だが、普通の市民の暮らしはそうである。雑踏の中で「酒もないのにこの人たちは何を求めて町を歩いているのだろう」と不思議に思えた。ゴミをポイ捨てすると罰金という。理想の町づくりのために人々の自由はかなり制限されているのである。

 台北のホテルは暖房があった。ひさしぶりに暖かい部屋で休むことができる。けれども酒もない夜はなんとなく虚しい。下着のままベッドにもぐり込むと天井の火災検知センサーが赤い光りをぴかっぴかっと光らせる。「そうだ。前回訪れた時も別なホテルであったが、天井のセンサーが光っていたっけ」と思いおこした。これは、センサーが生きているということをいつも確認できるようにということなのだろうか。これも文化の違いか。



機上の話題二つ。
 筆者は、長男の結婚式を2日後に控えているので故宮博物館参観は辞退して機上の人となった。行きの飛行機では、ノートパソコンを持ち込み、締め切りが迫った新聞の原稿を書くことにした。離陸したのでパソコンを使ってよろしいかとスチュワーデス(今はアテンダントと呼ぶそうだが)に聞いた。「パソコンを使っていいですか」。―通じない。今度は「パソコン・オーケー?」とキーボードをたたく真似をした。スチュワーデスはびっくりして今度は、もう一人のスチュワーデスを連れてきた。再び「パソコンを使っていいですか」。と尋ねるが首を横にふって意味がわからないらしい。

 しばらくしたら上司と見られる威厳のありそうな年増の女性が不審そうに座席の番号を見ながら訊ねてきた。「何をおっしゃったんでしょうか」。場合によっては罰を下すぞというような顔をしている。機上で冗談を言ってひやかしたり、騒いだりすれば飛行機は緊急着陸して莫大な損害賠償をとられるのだ。それでもいいかという顔で訊ねた。そこで恐る恐る「上空にきたからパソコンを使いたいのですが」というと、急に笑顔になって「そうですか。どうぞどうぞ」と会釈をした。おお、くわばらくわばらだ。後から分ったことであるが、パソコンとは日本だけの呼称だそうだ。パーソナル・コンピュータと言わなければならなかった。反省。

 帰りの機上もおっかなびっくりがあった。機内のテレビでは飛行機の現在位置や速度、気温、時刻などが表示される。そろそろ福岡空港に近づいたので腕時計の針を1時間バックして時差調整をしていると「飛行機はまもなく着陸態勢にはいります。お使いのテーブルと倒した座席は元の位置にお戻しください。」とアナウンスがあった。スチュワーデスが座席を点検して廻る。座席下の足をのせるアームもたたむように注意して通る。筆者の隣の席には無視している婦人がいるがスチュワーデスはこれを注意しない。

 日本人スチュワーデスの場合は、通路を通る時には、右に左にしっかりと視線をおくりながら客席を点検して歩くが、このスチュワーデスたちは、正面を向いてスタスタと歩くのである。「あまり訓練を受けていないのか、いいかげんなものだ」。そう思っていると、やがて機は着陸態勢をとり機内の照明を暗くした。スチュワーデスも自席に戻り、肩からシートベルトを引きまわしかちっと締めた。

 その後である。通路の後の方に黒い人影が見え、揺れる機内で座席に掴りながら酔っぱらいのような足取りで横を通り過ぎ前方へすすむ男がいる。「危ない」。どうしょうもなく固唾をのんで見ていたらスチュワーデスが気づいてあわててベルトを外し立ちあがった。「シィッダン・シィッダン」と大声で叫びながらその男に近づき腕を掴んで通路にしゃがみ込もうとした。その時である。飛行機はドーンと音をたてて軽くバウンドしながら着陸した。国際線は何が起こるか予測がつかないのだ。                               終わり。