やまめに学ぶブナ帯文化

1.まぼろしの魚

yamame31  昭和三九年の冬。その朝は雪も止み、おだやかな天気であった。私は谷川の小屋をめざして雪をかきわけながら降りて行った。屋根だけを架けた小さな小屋には、木製の水槽を置いて谷川から水を引き、天然ヤマメから採卵した卵を収容していたのである。
 
水槽の蓋を取り、そーっと水中を覗くと水底に薄く沈殿している泥の上で、孵化したばかりのヤマメの稚魚が卵殻のとれたうすいピンクの透きとおったような袋をお腹に抱え、針のように尖った尾をクリクリと振り回しながら動き回っていた。初めて対面したその姿はとても魚とは思えない形をしているのに驚いた。

 ヤマメの孵化稚魚との初対面の日の感動は今でも時々鮮やかに思い出す。ここは、九州山地の奥深く、標高八〇〇b余の山の斜面に二〇数戸の民家がしがみつくように点在している波帰という小さな村である。この集落の下を流れる五ケ瀬川源流の波帰谷は古来からヤマメの宝庫であった。
 
昭和二〇年代、腕白な小学生の頃は、裏山から伸びのよい淡竹(はちく)を切り出して焚き火にかざし、油抜きしながら矯めて真っ直ぐに伸ばし、軒先につり下げて陰干しにして釣竿を作った。朝夕や雨の日には渓に降りてヤマメを釣る。夏は箱眼鏡で川岸からそーっと水中を覗き、金突(鉾)を取り付けた長い竹竿を繰り出して岩陰のヤマメを狙っていた。


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昭和三〇年代になると、こうした山地に森林開発の手が伸びてきた。ヨキと呼ぶ斧と鋸を使う伐採作業は、チェンソーという動力鋸に変わり、木馬(木材を運び出すソリ)や地駄引き馬による木材の搬出は、ワイヤーによる架線索道に変わって飛躍的に森林開発のスピードが進展していった。
 
森のあちこちに蜘蛛の巣を張ったように集材機のワイヤーが張りめぐらされ、チェンソーの唸りがこだまし、路肩のあちこちに木材が積み上げられて木材を満載したトラックが行き交っうようになった。労働力も土地の人では足りなくて、専門の山師さんと呼ぶ山の職人たちが集団で移動して移り住み、飯場と呼ぶ架設の住宅があちこちに建ってい

た。
 
山村の歴史の中で、この頃がおそらく最も経済的に活力が満ちていた時代であったに違いない。お金にならなかった樹木にも高値が付き、木材だけではなく山林や土地も投機の対象となり、札束が飛び交ったものである。そして、民家の茅葺き屋根が瓦屋根に変わり耕運機や車が入った。台所改善、生活改善が高らかに叫ばれた。
 
それまでは寒村に訪れる人もなく、渓谷に棲息するヤマメも地域の人々が楽しむだけであったが、開発が進むと林道が整備され都市からの釣り客がヤマメをねらって入り込むようになった。森林開発は、同時に道路工事や河川工事などを伴い、澄みきった渓谷の清水は雨のたびに濁流となり河床が埋まってきた。昭和三〇年代も後半になるとついにヤマメは姿を見せなくなり、「幻の魚」とまでいわれるようになったのである。
 
減っていくヤマメを増やそう。そんな思いで試行錯誤のヤマメ養殖に取り組んだのは昭和三八年であった。まもなく二〇歳になろうとしていた時である。


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