霧立越の歴史と自然

 九州の真ん中に九州山脈の骨格となる山帯が二条、南北に連なっています。その東側の連山を霧立山地、西側の山体を向こう霧立山地と呼び、この二つの山体を総称して「九州脊梁山地」と呼ばれています。

 東側の霧立山地は、北から小川岳(1.542)、向坂山(1.684)、白岩山(1.620)、水呑の頭(1.646)、扇山(1.661)と続きます。この山地の尾根伝いに椎葉から熊本県馬見原まで牛馬の背で物資を輸送した駄賃つけの道がありました。この峠越えの道を古来から霧立越と呼んでいました。 駄賃付けとは

 駄賃つけは、馬の背で椎葉から山産物を搬出し、馬見原からは、酒、塩、味噌醤油などの生活物資を運び込んでいました。秘境といわれる椎葉に道路が開通して日向から耳川沿いに車が入るようになったのは昭和8年ですが、その後も昭和12年頃まで駄賃つけは続けられていました。

 椎葉からは、椎茸やムキタケなどの天然のキノコ類、木炭、毛皮、川のり、のり樽などの山産物を運びだしていましたが、江戸時代の一時期は木地屋の轤(ろくろ)製品の椀ものなども運び出していました。一方馬見原からは、味噌醤油類、酒類、米、衣類などを運び込んでいました。

 霧立越の歴史は古く、壇の浦の戦いに敗れた平家一門が敗走して椎葉に入った道といわれ、平家追討に赴いた那須大八郎宗久もこの道をたどり椎葉に入りました。五ヶ瀬町鞍岡の地名の起こりは鞍岡に馬の鞍を置いていったことから鞍置村が訛ったものといわれ、霧立越が馬に乗って越せないほどの難所であったことが伺われます。

 正保2年(1645)には、丸目蔵人のタイシャ流武術が人吉から椎葉へ、椎葉から鞍岡へと伝わり、今日では鞍岡にその古武術が伝承されています。西南戦役では明治10年4月、西郷隆盛率いる薩軍が行軍し、熊本県人吉に出ました。霧立越は馬見原から人吉へ通じていたのです。

 霧立越は、尾根へ上がるまでの距離が長く急峻なため難所とされてきましたが、近年、尾根の近くまで車で上がり、尾根伝いの楽な部分だけを歩けるようになりました。ぶな原生林の霧立越12kmを歩いて、いにしえの歴史とロマンを探して下さい。

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