エコ・ツーリズム

霧立越トレッキング
 

2000年版
 

霧立越の歴史と自然を考える会編


もくじ
1.霧立越の概要
2.霧立越を楽しむために
3.お手洗い
4.ダニにご注意
5.マムシ対策
6.スズメバチに注意
7.下山が危険
8.水場
9.霧立越の行程と地名-@カシバル峠
10. 霧立越の行程と地名-Aキンザギリのヨケー
11. 霧立越の行程と地名-Bカラタニとキレンゲショウマ
12. 霧立越の行程と地名-Cゴボウ畠とオタカラコウ
13. 霧立越の行程と地名-Dゴボウ畠から日肥峠
14. 霧立越の行程と地名-Eかめ割りと狸伝説
15. 霧立越の行程と地名-F.白岩山
16. 霧立越の行程と地名-G水呑と水呑の頭
17. 霧立越の行程と地名-H灰木の頭とイワタケ
18. 霧立越の行程と地名-I馬つなぎ場
19. 霧立越の行程と地名-J平家ブナ
20. 霧立越の行程と地名-K扇山の山小屋
21. 霧立越の行程と地名-L扇山山頂
22. 霧立越の行程と地名-M大イチイ
23. 霧立越の行程と地名-N岩をも砕くヤマグルマ
24. 霧立越の行程と地名-Oカモシカを見つけてください烏帽子岩
25.椎葉の駄賃つけ道と百万道路
26.歴史の道-@交易の拠点・馬見原町
27.歴史の道-A馬の鞍を置いた村
28.歴史の道-Bタイシャ流が来た道
29.歴史の道-C薩軍の行軍
30.尾根の道と森の暮らし

1.霧立越の概要
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 霧立越は、九州脊梁山地の向坂山(1684m)から扇山(1661m)にかけて霧立山地の尾根伝いを辿る峠道です。その昔、熊本県馬見原から宮崎県椎葉村まで馬の背で物資を輸送していました。昭和8年、椎葉村に自動車道路が開通してから霧立越を通行する人はしだいに途絶えました。
 当時、霧立越は大変な難所であるといわれていました。標高1,600mもある尾根の道へたどり着くまで、崖や急峻な坂道が続いていたからです。現在は、尾根の近くまで林道が開設されたので、自動車で林道を上がって尾根の楽な部分のみを快適に歩けるようになりました。

 霧立越の全行程は、椎葉村尾前から熊本県馬見原まで約30数Kmに及びますが、トレッキングに利用している部分は、五ヶ瀬町側のゴボウ畠から椎葉村側の扇山登山口まで尾根伝い約12Km間です。所要時間は約6時間、23.000歩ですが昼食休息時間を入れて約7時間が標準です。

 五ヶ瀬町側から入り込みの場合、ゴボウ畠から日肥峠までと「馬つなぎ場」から扇山までの間に数個所短い上り坂がありますが、斜度のきつい上り坂がないので高齢者や子供さんでも安心して歩けます。
椎葉村から入り込みの場合は、内の八重登山口又は松木登山口ともに扇山山頂まで長い急坂が続きますので五ヶ瀬側から入り込み、椎葉側下山がおすすめコースです。

 
2.霧立越を楽しむために
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 霧立越は、尾根伝いに楽な部分だけ歩けることが最大の特徴ですが、尾根伝い縦走のため下山してからの交通機関などに問題があります。例えば、登山口から下山口まで車を回送しますと林道、国道、林道を経由して40kmあまりあります。
 林道は4輪駆動車を必要とするような急坂路で、公共交通の便がまったくありません。登山ルート中、白岩山頂と扇山山頂からは一部の携帯電話は通話できますが、その他の地域は携帯電話の電波が届きませんので連絡手段がありません。道のりが長く、途中で下山する抜け道はありませんので体調の変化や事故などのトラブル発生時は非常に危険な状態になります。
 このような問題点を克服して、どなたでも安全でお気軽に霧立越の体験ができるようにしたのが、ガイド付きの「霧立越トレッキング」です。出発前のオリエンテーション、気象状況の判断、登山口、下山口までの送迎、霧立越の動植物や自然に詳しいインストラクターの案内、無線による本部との通信、非常の際の救援態勢などがセットになっています。
 霧立越は、ブナの原生林で高山性植物の植生が非常に豊かであることから植物の盗栽、盗堀も見られます。特に単独縦走の場合には、まれに収穫を楽しみとされる方も見受けられます。霧立越は、国定公園の特別保護区であり、生物遺伝子資源保存林でもありますので、山のマナーを守り、「持ち込まない、持ち出さない」の原則を厳守ください。「あなたが今、見ることができる花々やキノコは、昨日までの方が採らなかったから見ることができるのです。私たちは、明日歩くの人のために採らないようにしましょう」。
3.お手洗い
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 霧立越のお手洗いは、扇山の山小屋1ケ所だけです。ゴボウ畠から歩いて4〜5時間の地点にあります。できるだけ出発前に用を足してください。トレッキング途中は、インストラクター又は近くの同行者にその旨伝えて、後方の路端で用を足してください。歩行途中、ポイント、ポイントで小休止しながら移動しますのでそのタイミングを利用されたら良いと思います。その場合、藪の中に入らず道の端で用を足してください。
 藪の中にはいろんな生き物がいます。例えば、頭上にはダニがいるかも知れませんし、しゃがんだ時、地面にはマムシがいるかも知れません。確率は非常に低いのですが100%居ないと否定できません。ですから、藪の中に入らず、藪を刈り払ってある道の端で足元をしっかり確認して用を足してください。人間の生活圏を歩くのではなく、多様な生き物の生活圏に入っていることを認識しなければなりません。
 用が済みましたら落ち葉の中に埋めてください。チリ紙は、穴を掘らなくても立っているその位置から手の届く範囲を見回せば必ず枯れた木の枝やスズタケ等が落ちていますので、その棒で紙を地面に押し込んでください。落ち葉の重なった柔らかい腐葉土層ですので楽に地中に押し込むことができます。ポケットティッシュのビニール袋は必ず持ちかえりましょう.
 
4.ダニにご注意
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 スズタケの葉っぱの裏に白い蜘蛛の巣のような固まりを見ることがあります。その中をめくればダニがいるのを確認できます。ダニは、非常に小さくて1〜2ミリ程ですが、動物の血を吸うとお腹が5〜6ミリ、それ以上にも大きく膨らみます。
 ダニは、動物や人が通るとその体の熱を感じて上からパラパラと降りかかって来ます。衣服の上に留まると、そろそろと移動をはじめ、皮膚の上にたどり着きます。ダニは非常に賢く、そこがダニたるゆえんでしょうが、たどり着いた皮膚から更に皮膚の奥へ奥へとそろそろ進みます。そして、脇の下とか内股や胸などにたどり着いてから、やおら噛みついて血を吸いはじめるのです。
 ダニは、虻(あぶ)や蚊と違って人に痛みを与えないようにそっと血液を吸います。ダニに気がつくのは、血を吸いはじめて数時間経過し、ダニが大きく膨らんでからです。山から帰り、お風呂に入っても腋の下などにしっかり付着していて落ちないことがあります。深夜に何かチクチクとした痛みを感じ、触れてみて始めて大豆大に血を吸って大きくなったダニを発見することが多いのです。
 もし、ダニに噛まれているのを発見した場合は、気持ちが悪いからとあわててつまんで引っ張らないでください。落ちついてしっかりつまんで捕らなければ、噛みついている頭部がそのまま残ってしまいます。噛まれている部分の皮膚をつまみ上げ、ダニの頭をしっかりつまんでから取り去ってください。噛まれた痕は少し赤くなっていますが数日で完治します。ウィルスや細菌感染の症例は報告されていませんので心配ありませんが、異常を感じられたら医師に相談されてください。
ダニに噛まれないようにするには、スズタケの中に入らないことです。また、落ち葉の中にもいますので腰をおろして休息する時は、ビニールなどを敷いて座り、立ちあがったらきれいにはたきましょう。
 
5.マムシ対策
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 霧立越はブナの原生林です。多様な生物が無数に生息しており、それぞれがバランスよく調和して自然循環の小宇宙を形成しています。ブナ林は、ドングリなどの木の実をたくさん実らせます。人類は、木の実を木灰で煮て水にさらす「あく抜き法」の発見から、木の実を煮炊きするための土器が発明され、土器文化として縄文時代が発達しました。その縄文土器にマムシが描かれています。ブナ林は縄文時代からマムシの生活圏でもあるわけです。
 
マムシが恐いからと自然界へ踏み入らないことはありません。どうしたらマムシに噛まれないかということをしっかり身につけておけばマムシなんか全く恐くありません。マムシのお話をしますとマムシは恐いからもう山には入りませんとおっしゃる方もありますが、マムシは探して見つかるものではありません。霧立越を何回歩いてもなかなか遭遇しません。けれども、万一の場合を想定して安全対策を講じておけばなお安心ということです。
 
それでは、どんな時に一番注意を要するかということですが、先ず、季節と天候によります。季節は4月から10月頃までがマムシの活動シーズンですが、3月や11月でも温かい日は地上に出ていることもあります。一番多い季節は交尾期の7月頃です。10数尾集まっていることがあります。これを地元ではヨリヘビといいます。3月と11月は寒いので行動が緩慢で、あまり活動しませんがマムシは他の蛇より春一番早くから出て、秋一番遅くまで活動します。10月頃のマムシは子供を孕んでいるため気がたって襲うことがありますので気を付けましょう。
 
次に天候ですが、マムシに限らず蛇類は、雨あがりが一番多く地上に出てきます。雨が降るといろんな昆虫や蛾類が孵化をはじめます。そこで蛙などが孵化した昆虫や蛾をねらって地上にでてきます。蛇も、昆虫や蛾や蛙を狙って地上に出てくるのです。雨の後、濡れた林床に太陽光がパーッと差し込み、地面からモヤがたっているような時が地上に出ている可能性が一番高いのです。このような天候の時は特に注意しましょう。
 
マムシを見つけるには、このように季節と天候が重要になりますが、更に臭いでわかる場合もあります。マムシ独特の臭いが漂いますが、天候によりあまり臭いがしない時もありますので歩きながらの臭いの判断はむずかしいです。音で発見する方法もあります。マムシは人が近づくと警戒して尾の先端を震わせています。枯れ葉の上で尾をビチビチビチと震わせると、尾の振動で枯れ葉がビッ、ビッ、ビッと音を立てることがあります。どこかでビッ、ビッ、ビッと音がしている時は要注意です。
 
山に入る時、2番目を歩く人が危ないなどといわれます。マムシは、まさか人が来るとは思っていませんので、のんびり昼寝をしています。そこへ人が通りかかると驚いて警戒態勢をとって動き始めます。マムシは保護色がありますので土の色に近くなっています。先頭の人は、土の色で動かないマムシは発見しにくいのです。2番目の人が通るとき、マムシはびっくりして身構えて動くので2番目以降の人が発見し易いということになります。
 
さて、マムシに噛まれない方法ですが、先ず膝までの長めのスパッツ着用をおすすめしています。トレッキングシューズ等にスパッツを着用しますと、たとえマムシを踏んづけてもスパッツが守ってくれます。マムシは体長がせいぜい30〜40センチ程度で、アオダイショウのような大きな体ではありません。スパッツは靴の中に落ち葉などの異物の混入を防ぎますし、ムカデなどがズボンの裾から侵入するのも防いでくれます。下山後車で帰る途中股の処で激痛がはしり、びっくりして調べてみたらムカデがいたという実際にあったお話しもあります。雨の時以外でも安全のため是非スパッツを着用してください。
 
次に、マムシに噛まれないためには、皮膚で触れないことです。マムシに触れたら100%噛まれてしまいます。触れないためには、山中で腰を降ろして休息したり、食事の時など、あたり一面を良く確かめてから腰を降ろすことです。マムシに限らず自然界にはいろんな生き物がいます。また、ユキザサやカンザシギボウシ、カラマツソウ、キリンソウなどいろんな高山植物が芽を出しています。腰を降ろす前に安全を確認し、また高山植物などを傷めないように注意して休憩しましょう。
 
岩場などで、大きな木の根っこががっしりと岩を掴んでいたり、美しい岩苔がありますと「ワー凄いね」とつい手を差し出して撫でてしまいます。この場合にも、手を差し出す前に良く確認してから手を出しましょう。「ちょっと待った」と手元の確認を致しましょう。岩場も蛇の住処(すみか)です。
 
蛇には関係ありませんが、斜面を登り降りするときに灌木につかまることがよくあります。この時も「ちょっと待った」と手元の確認を致しましょう。手元を確認せずに木を掴んでしまうと、刺のある木であったり、枯れ木であったりすることがあります。刺の木を掴んだら「あっ痛いっ」と思わず手を放してこけてしまいますし、枯れ木であったらパチンと折れて弾みで転落することもあります。いずれも自然界へ入ったら手元、足元を良く確認しながら行動いたしましょう。
 
6.スズメバチに注意
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 スズメバチのことを、地元ではアカバチと呼び、大型のスズメバチのことをクマンバチと呼び分けています。アカバチは、体長3センチ位で赤黒い色に腹部に黒い縞があります。一方、クマンバチは体長4センチ以上にもなり、アカバチより黒褐色の横縞が広く、羽音も不気味なほど大きく聞こえます。刺された時の衝撃もクマンバチの方が強く、激痛がはしり大きく腫れます。時には死亡することもあるという大変恐い蜂です。
 
クマンバチは地面に穴を掘って大きな巣をつくります。アカバチは、主に地上の樹木や岩陰などに巣をつくりますが、台風のあたり年では、地上低く小さな巣を数多くつくります。台風の少ない年は、樹上高く、巨大な巣をかけることがあります。
 
アカバチもクマンバチも蜂の蛹はいずれも珍味です。滋養強壮食品として地元では珍重し、蜂つなぎと称して餌を運ぶ働き蜂に目印をつけて巣の在り処を突き止め、堀取って食用にします。特に、クマンバチは、塩漬けにして保存し、漢方として利用しています。しぶり腹や下り腹に塩漬けのクマンバチを黒焼きにしてお湯に溶かして飲用すると良く効きます。下痢などはぴたりと止まります。
 
さて、それでは蜂に刺されないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。一番警戒しなければならない季節は秋です。9月から10月にかけて大きな巣をつくり巣のまわりには数百匹の蜂が群れています。この時、巣の近くをドヤドヤと歩いたら蜂の集団攻撃を受けます。数十匹も刺されたら死亡することもあります。
 
先ずは、巣に近づかないことが最も重要なことです。では、どのようにしたら巣の在り処を知ることができるでしょうか。地元のインストラクターは、飛んでいく蜂を見て巣の位置の検討をつけますが素人の方には無理です。そこで、地元のインストラクターに蜂の巣の有無を確かめてください。一番安全なことは、インストラクターにガイドしてもらうことです。
 
もし、蜂に襲われたら先ず巣の位置を確認してください。巣の近くほど蜂が群れてぶんぶん飛び交っていますのでその逆の方に逃げます。巣の位置がわからず巣の方へ逃げて近づきますと悲惨です。一目散に逃げると蜂は勢いをまして襲ってきますし、あわてて逃げるとこけて怪我しますので、巣から遠ざかる方向で地面に伏せます。じーっと動かずにしゃがんでいますとやがて蜂は巣に戻りますので、蜂がいないことを確認してそーっと逃げだします。

 蜂が襲う時は、黒くて動くものをめがけて突進してきます。目玉が一番狙われやすいので、襲ってきたら目を手で覆ってさっと伏せてください。この場合、帽子をかぶっていると頭に刺されるのを防ぐことができます。蜂に襲われびっくりして逃げ回るほど、そして動けば動く程、蜂は襲ってきます。大勢の人が大勢で騒ぐほど蜂はびっくりしていきり立って襲ってきます。蜂も人が恐いから身を守るため巣を守るために襲ってくるのです。いたずらに蜂を刺激しないことが大切です。

 次に、春から夏にかけて蜂に遭遇したときの対処の仕方を述べます。春一番には、女王蜂が、営巣の場所を探して山中をさまよっています。この時はほとんど人を襲うことはありません。ただ、自分の方向へブーンと近づいて来たときは、じーっと動かないようにしていなければなりません。あわてて手で払ったりしたら刺されてしまいます。また、集団で歩行中、自分だけがさっとしゃがみこんで避ければ後ろの人に衝突して刺されるかもしれません。蜂が遠ざかるまで、たとえ肌の上に留まったとしても飛び去るまでジーッと動かずにいることです。そうすれば絶対刺されません。

 弁当を食べている時、蜂がきて弁当にとまることがあります。弁当の匂いで働き蜂が餌を求めてきたのです。顔にとまっても決して手を触れないで、そっとしていてください。手で払ったりすると刺されますが、じっとしていると決して刺しません。弁当にとまった場合は、蜂を観察する絶好のチャンスです。塩分の少ない肉や魚であれば、肉片を口で噛みちぎり丸くまとめて飛び立ちます。「蜂つなぎ」はこの時、蜂の体に目印をつけるのです。蜂が餌とりに夢中になっている時は、人の存在も気にせずせっせと仕事をしています。とてもおもしろいです。しっかり観察しましょう。

 夏から秋にかけては、働き蜂の数が増えて、霧立越途中のアザミ、ノダケ、シシウドなどの花に蜜を採集にきています。また、巣を造るため木の皮を剥いだりしています。こうした働き蜂は人を襲うことはありません。ただ、何気なく花を手で払ったら蜂がいたというケースもありますので、やみくもに花をさわらないでください。まれには、人の皮膚にとまって衣服の中に入っていくこともあります。これは蜜を探す行動です。この場合も、蜂が飛び立つのを待っていればよろしいのです。

 筆者もスパッツなしで山中で休息していたら突然クマンバチが足首にブーンと飛んできて、いきなりズボンの中に入り込んで困ったことがあります。その時は、ズボンの上から大腿部を両手でしっかり抑えて、それ以上内に入り込まないようにしてジーッと動かずに蜂が出ていくのを待った経験があります。その時間が長く感じられたこと、恐い思いをしました。また、女性の胸に入り、ソーッと上着を脱いで追い出したということもあります。

 万一、刺された場合はインストラクターが同道していればすぐ呼んでください。インストラクターは、蜂やマムシに刺されたり噛まれたりした場合に傷口から毒を吸い出す器具やアンモニア水などを携行しています。できるだけ短時間の間に毒を吸い出し、傷口を消毒することができれば症状が軽くて済みます。
 
7.下山が危険
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 霧立越トレッキングで事故が最も多いところは下山です。五ヶ瀬から入り込みの場合、扇山の山頂まで辿り着けば、もう縦走が終わったような爽快な気分になります。山頂から向坂山を振り返れば、縦走してきた尾根が大きく半円を描いて、はるか彼方に伸びています。「あそこから歩いてきたのか」そう思えば感慨深いものがあり、もう帰り着いたような気分になります。ところが、実は、扇山からの下山が一番恐いということです。

 扇山山頂からの下りは、つづら折りの急な下り坂が延々と続きます。霧立越途中は、腐葉土層の柔らかい歩道を歩いていますが、下山の坂道は、固い岩場や地面が剥き出しで木の枝の階段もあります。階段の杭に足を引っかけて転んだり、地面の小石の上に乗って転んだり、途中の岩場で足を取られて転倒したり、自分の杖に足を絡ませて転倒したりする事故があります。下山では、思った以上に足が疲れているのです。特に雨の日は滑りますので注意しましょう。

 また、下山の長い下り坂を歩いている内に、膝が痛くなることがあります。林道が見え隠れするようになると、ますます歩道は勾配が急になります。そんなとき急な下り坂を大股でトントンと降りて行きますと膝が痛みだし、歩けなくなることがあります。歩幅を小さくしてゆっくり降りましょう。

 インストラクターは、救急薬や痛み止めのスプレー等を携行しています。膝が痛くなった時は道端で休み、インストラクターを待ってください。膝の痛みは、痛み止めスプレーを膝の皮膚にかけて5分もすれば楽に歩けるようになります。ジーパンは、痛み止めスプレーの処置がむずかしくなります。また、きついジーパンは体力を消耗しますので、なるべくゆったりしたものを着用してください。
 
8.水場
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水場は、ゴボウ畠の登山口と水呑と山小屋にあります。いずれも冷たい湧き水で飲用できます。水呑と山小屋の水場は、渇水期には枯れることもあります。水場はトレッキング途中に一服のオアシスとなりますが、水場の水に頼らず必ず水筒を携行してください。疲れをいやすのは、やはり熱いお茶にまさるものはありません。
 イベントのトレッキングでは大勢の人が参加されますが、時折り、弁当や水筒を忘れられる方がいらっしゃって困ります。道中、自動販売機で買うつもりだったとおっしゃっる方がありました。霧立越はそのように人工的に管理された道ではありませんのでしっかりした準備が必要です。
 
9.霧立越の行程と地名
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@カシバル峠
 カシバル峠は、スキー場のリフト乗り場となるパーキングセンター付近です。霧立越は、通常送迎車で林道を登りゴボウ畠から歩いて縦走しますが、カシバル峠から先の国有林林道は関係者以外の車の立ち入りが禁止され、ゲートに鎖が張られています。これは、高山植物の盗採盗掘防止のためでもありますが送迎車だけは大目に見てもらえます。シーズンには、ゴボウ畠にたくさんの車が入り込み駐車して送迎車のUターンやスキー場メンテナンスのための工事用の大型車の通行に支障をきたしています。ゴボウ畠には送迎車以外駐車できませんので、単独登山の方はカシバル峠のパーキングセンターに駐車してください。

 カシバル峠はどういう意味があるのでしょうか。ガンバル峠ではありません。それは「カシキ取り場」からきていると思われます。カシキ採りとは、囲炉裏の薪を採ったり、木の葉や草を刈り取って田んぼに肥料として入れるコイクサ(肥草)伐りなどをすることで、昔はカシキ採りと呼んでいました。「カシキ採り場」のカシキ原がカシバルとなったものと思われます。

 カシバル峠から尾根を下ると中腹にカシバルという地名があります。そこには水田跡や小屋跡などがあります。このカシバルの尾根の基部であることからカシバル峠になったものでしょう。その外、土地の呼称には、アオヤマ、ホンチなどと地力による呼称もありました。アオヤマは収穫の少ない土地、本地は収穫の多い土地を指しています。
 
10.霧立越の行程と地名
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Aキンザギリのヨケー
カシバル峠の別名に「キンザギリのヨケー」という俗称があります。キンザギリとは鉱山に通じる言葉だそうです。カシバル峠の先の谷川(カラニタ)に磁石にくっつく重たい石があります。その昔、鉱山師がこの谷川で鉱脈を探し、手前の峠で休んだことから呼ばれるようになったといわれます。ヨケーとは、ヨコイのこと、つまり休憩場所を意味します。

 当地方には「ジッシン・マンガン」という言葉があります。ジッシンとは、大儲けという意味で「マンガン鉱を堀り当てて大儲け」という意味のようです。その昔、鉱脈を探して多くの鉱山師(やま師)が五ケ瀬や椎葉に入りこみました。大きい鉱山跡は、椎葉の財木鉱山、五ケ瀬の廻渕鉱山などがあります。鞍岡には、長峰に金山がありました。その他、小さな鉱山跡や、試掘跡がいたるところに残っています。まさに、つわものどもが夢の跡です。

11.霧立越の行程と地名
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Bカラタニとキレンゲショウマ群落
 カシバル峠から先は国有林になります。峠から国有林林道を300mほど入ったところに沢があり、この沢のことをカラタニと呼んでいます。カラタニは、渇水期に谷の水が突然地下にもぐり伏流水となるところをそう呼びますが、このカラタニは渇水期でも枯れたことがありません。スキー場の飲料水や人工降雪機の用水としてポンプアップされています。

 この付近一帯は、かってキレンゲショウマの大群落がありました。キレンゲショウマは、日本固有の植物で和名がそのまま学名になっている大変貴重な種ということです。四国山中から、祖母、傾山中、そして霧立越の白岩山までの古成層の一部にのみ産する稀少植物といわれています

 大正4年8月、徳永眞次著の九州脊稜山脈縦断記には、このカラタニのキレンゲショウマ群落に出会って感激した記録があります。「これは分布上最も珍種であって、牧野氏(牧野富太郎博士)はこれが産地を発表しないと云う。この山にして、これほどたくさんあろうとは夢にも思わなかった」とあります。かってのような大群落は今はありませんが、夏には谷間に黄色の花をひっそりと咲かせています。。
 
12.霧立越の行程と地名
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Cゴボウ畠とオタカラコウ
 登山口の俗称「ゴボウ畠」付近は、五ヶ瀬川の水源地帯で、シオジ、クルミ、カツラ、アサダなど湿地帯を好む樹木が繁っています。林道が開設される以前は、この湿地帯の林床には、オタカラコウの大群落がありました。
 オタカラコウは、若芽の時は山葵(わさび)の葉に良く似ていますが、成長するにつれて葉の直径が30p以上にもなり、遠くから見るとゴボウの葉っぱに似ていきます。ゴボウ畠とは、オタカラコウの大群落がまるでゴボウ畠のように見えたことからゴボウ畠と呼ばれるようになったものと思われます。
 オタカラコウのことをこの地域ではサカタブキとも呼び、昔は野苺狩りにこの葉っぱを使って苺を包んで持ち帰っていました。今でも、オタカラコウの葉っぱの匂いを嗅ぐと野苺の味を思い出すほどです。オタカラコウに対してメタカラコウがあります。メタカラコウは、葉っぱの先が尖って全体に小柄で花は同じように黄色の花を夏に付けます。扇山の山小屋の水源付近に群生しています。

13.霧立越の行程と地名
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Dゴボウ畠から日肥峠
 さて、ゴボウ畠で下車したら改めて荷物の点検を致しましょう。弁当や水筒、雨具を忘れていませんか。よほど晴天の日以外は、雨具は必須アイテムです。荷物の確認ができましたら、さあ、いよいよ登山です。そこで軽くストレッチをしましょう。山の事故は木の根や杭、石ころなどにつまずいて転んで怪我することが大部分です。早朝は、体が完全に目覚めていません。準備運動で体を目覚めさせ、柔軟な体にして登ることが事故を防ぐ第一歩です。面倒がらずしっかりやりましょう。すべて準備万端というところで時間の確認をしていよいよスタートです。

 ゴボウ畠から日肥峠までは約600m。この間は登りだけが続きます。朝の内は皆さん元気がよろしいのでダッダッダッと早足で登られる方がいらっしゃいますが、その方に限って後半はフラフラとなられます。ここはひとつゆっくりゆっくり歩いて、ブナやミズナラ、低木のシロモジなど森を観察しながらゆっくり登りましょう。インストラクターも特に説明に力を入れているエリアです。

 スタートして20分ほどで、日肥峠に到着します。日肥とは、日向の国の日と肥後の国の肥を意味します。峠の南側は日肥山とも呼び、その昔、材木を肥後の矢部方面に搬出していました。日肥峠の又の名を杉越えとも呼びます。峠に杉が数本あることからそう呼んだものです。杉は自生のものではなく、目印に植えたもののようです。昔の植林はすべて挿し穂でありましたので正確には植えるというより挿し穂したのでしょう。

 近年、日肥峠を白岩峠とも呼ぶようになりました。白岩山の登山ルートにあたるため白岩峠としたのでしょう。最近の国土地理院の地図にはそう記載してあります。これは間違いで、本来の日肥峠でなければならないと思います。霧立越トレッキングで、白岩の場所が白岩峠と白岩山を勘違いして慌てたことがあります。本来の日肥峠に統一すべきだと思います。

 日肥峠は、スキー場から霧立連山の主峰、向坂山(1.684b)経由で尾根伝いに降りてきた歩道と、ゴボウ畠から登ってきて白岩山方面へ向かう霧立越の歩道、日肥山へ降りる歩道の4叉路に分岐しています。この内、日肥山へ下る歩道は、近年は伐開しておりませんので通行できません。迷いますので入らないでください。

 この峠には霧立越関所と標した箱を設置してあります。箱の中には登山者名簿を備付してありますのでこの名簿に記載してください。霧立越利用者の人数の把握、事故、遭難等の万一の事故に備えて、また高山植物の盗栽、盗掘防止、その他これからの霧立越対策資料として活用させていただきます。

 この箱には漫画が書いてあります。正面は、駄賃つけさんが馬を引いて通るところを狸が狙っている絵です。この付近には性質(たち)の悪い狸が出没して化かしたという絵です。箱の左側の武者の絵は那須大八熄@久です。鎌倉幕府の命を受けて平家追討に赴いたということを表しています。もう一つの絵は西郷隆盛で、明治10年4月に西南戦役で西郷隆盛率いる薩軍が退却した道という意味です。箱の右側の絵は、剣豪丸目蔵人のタイシャ流武術がこの道を経て伝わったことからタイシャ流の試合の絵が描かれています。

14.霧立越の行程と地名
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E.かめ割りと狸伝説
 日肥峠から白岩山の方へ約100mほど歩いたところに、歩道の左に高さ4〜5mほどの岩場があります。この付近を地元では「かめ割り」と呼んでいます。駄賃付けの馬がここにさしかかると急に馬が暴れ出し、馬の背に積んだ焼酎の入った甕(かめ)を近くの岩角に当てて割ったことから「かめ割り」という地名になったということです。

 霧立越には、質(たち)の悪い狸が出没するという噂があり、道行く人に恐れられていました。時折、狸が悪さをして通行する牛馬を谷底に突き落としたり、魚を積んだ馬から魚を取り上げたり、馬の背の焼酎かめを割ったりしたということです。焼酎は焼き物のかめに詰めて運び、日本酒は木の樽に詰めていました。

 酒樽を積んだ馬が霧立越を越えて椎葉に到着した時、酒が薄くなったり、中身が減ったりすることがあったそうです。これは、きっと狸の仕業に違いない。狸が駄賃付けを化かして水を入れたり、中身を抜き取ったりして悪さをしたに違いない。そう言われていました。

 1995年5月の霧立越シンポジウムは、まだ国見トンネルが開通していませんでしたので、つづら折りの難所「国見峠」を越えて椎葉村の開発センターに集結しました。パネリストには、かつて霧立越の物流の拠点として栄えた馬見原で、古くから代々造り酒屋を営んでいらした明治生まれの方にも参加して頂きました。
 会場では、狸が化かすと、どうして酒が薄くなったり、減ったりするかということが論点になってきました。代々からの造り酒屋のパネリストはその疑問についてなかなかお答えいただけません。あたりさわりがあるということです。会場から「何があっても、もう時効ですよ」「そうだ、当事者はもうこの世にいませんよ」の声に「それでは」と次のようなお話をされました。

 「酒樽といいますとどのようなものをイメージされますか。今では、お祝いなどの席で行われる鏡割りの樽を思われるでしょう。コモをかけた口の広い樽をエイヤッと槌で蓋を割り、祝い酒をふるまうセレモニー用の樽です。ところが、駄賃つけさんが馬の背で運んだ酒樽は、あのように口の広い樽ではありません。コップのように細長い樽で、2斗(36リットル)入っていました。

 駄賃付けさんは、酒樽を馬の右の背と左の背に一樽づつくくり付け、背中部分には小物を積んで霧立越を越えていました。酒樽が届いた得意先では、樽の下部にある栓を開けてそこから酒を取り出します。空になった酒樽は「戻り荷」として、また酒屋さんへ届けられます。酒屋さんでは、届いた空の樽の蓋をこじ開けて、中をタワシで洗い、熱湯で消毒して再び酒を詰めて固く蓋をします。樽の中を洗う時、桶の輪(たが)の内側に穴の跡が時々ありました。

 あれは、馬方さんが呑んだものと思いますよ。樽を締めている竹の輪をコンコン叩いてずらし、そこに穴を開けて酒を取り出します。その後、付近の木の枝を切り取って穴の大きさに削り、開けた穴に打ち込んで表面をスパッと切り取り、桶の輪をコンコンと叩いて再び元の位置に戻せばわかりません。」とおっしゃいました。

 消費者も薄々は分かっていたでしょうけれど、遠い遠い距離を、狸も出没するという難所を運んできてくれるわけですから、狸のせいで由(よし)としたところがあったのではないでしょうか。馬方さんがあまりにも飲みすぎた時は、途中の水場で水を入れたのでしょう。「うん?今度の酒は薄いぞ。さては、また性質(たち)の悪い狸にしてやられたな」なんていいながら酒を飲んでいたのでしようか。

 かめ割りは、苦労してようやく日肥峠にたどり着き、ここからは楽に歩けるぞというようなホッとする場所にあるのもうなづけます。もしかしたら、焼酎かめの焼酎があまりこぼれないような割り方のノウハウがあったのかもしれません。魚を積んでいれば欲しくなって何尾か無くなることもあったのでしょう。昔昔の良き時代のお話です。

15.霧立越の行程と地名
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F.白岩山
 日肥峠から約30分のところに白岩山はあります。馬道は、岩峰を左に迂回しますが、山頂へは右に45mほど岩場を登ります。途中ロープなども備えてありますので楽に登れます。山頂は石灰岩の岩峰で標高1.620m。ほぼ360度見渡せてすばらしい眺望を誇ります。好天気の時は雲仙の普賢岳も見えることがあります。但し、山頂は狭くて東南側は断崖絶壁です。30人以上は危険ですので人数が多い時は交代で登るようにしてください。

 白岩山は、霧立越トレッキングにとって重要なポイントになります。ゴボウ畠からほぼ1時間、ブナの原生林を白岩山まで歩きますと霧立越の半分を歩いたような気分になります。ところが、白岩山はまだ霧立越の入り口なのです。白岩山から馬つなぎ場まで約1時間30分、馬つなぎ場から山小屋まで、更に1時間30分かかります。白岩山から先は、引き返すことが困難になります。無線も携帯電話も使えないエリアになります。

 そこで、白岩山山頂まで歩いたけれど今日は体調がよくないと思われたら勇気を持ってこの次に挑戦しようと決断してください。普段はとても元気なのに今日に限って体調がすぐれず、ヒザがガクガクして冷や汗が出るなど体調に異常を感じたら白岩山から引き返しましょう。インストラクターが案内している時は、その旨インストラクターに告げてください。

 インストラクターは無線で迎えの車を手配します。車はゴボウ畠まで登って待機することにしています。登られたコースをそのまま逆に下山してください。もし、お疲れの場合は、途中でお休みになって結構です。下山時間を計算の上、遅い場合は白岩山まで迎えに登ります。後は、宿でお休みになって同行の皆さんの帰りを待ちましょう。

 白岩山は、このように霧立越の重要なチェックポイントになっていますが、岩峰付近一帯は高山植物の群落地で春から秋まで数多くの珍しい植物が花を咲かせています。周辺1,5ヘクタールに444種の植物の植生があるといわれ、南限植物や貴重種、珍種も数多く、高山植物群落地として天然記念物に指定されています。植物の種類や開花の時期については、やまめの里のホームページなどで詳しくお知らせしています。この付近一帯は、国定公園の特別保護区や生物遺伝子資源保存林でもあります。盗採、盗堀はもちろんのことチリを捨てたりして汚さないように「持ちこまない、持ち出さない」の原則を守りましょう。

 白岩山の東北斜面の崖に鍾乳洞があります。昔は、地元の子供たちが遠足などでここを訪れて懐中電灯を灯して洞穴に入って遊んだものですが、近年は、風化して入り口付近が崩れ落ちて埋まり、奥深く進入することは困難となりました。この穴は「高千穂峡に続いているゲナ」と語り継がれていました。

 白岩山には、もう一つのポイントがあります。ここはそっと貴方だけにお教えしましょう。岩峰に立ち、南側正面の国見岳を見てください。そしてそのまま眼下の谷底に目を転じてください。谷の一部に草が枯れた部分が見えます。よく目をこらしますと縦横に歩道みたいな線が幾条も見えます。ここは野性鹿のコロニーみたいなところで数条に見える歩道は、鹿が造った道なのです。肉眼ではよく見えないので気がつきませんが、望遠鏡でみると鹿が遊んでいるのが見えます。
 

16.霧立越の行程と地名
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G水呑と水呑の頭(かしら)
 白岩山頂から15分くらいのところに「水呑」という標識があります。ここから右へ50mほど入ったところに耳川源流の水源があり、冷たい湧き水が流れています。この付近一帯を「水呑」と呼び、その昔霧立越を行く人々のオアシスであったことが伺われます。ここで、酒樽に水を入れたのかも知れません。昔は、水源の近くには牛馬をつないだ跡と思われる小さな広場があり、登山者はよくここでキャンプをしていました。近年は、土手が崩れて埋まってしまい広場はなくなりましたがその面影が少し残っています。

 水呑の上部には、「水呑の頭(かしら)」に登る分岐があります。この道を15分程登れば三角点のある水呑の頭に到着します。この山は標高1.646mで、実は、国土地理院の25.000/1の地図に記されている白岩山です。いつのまにか水呑の頭を白岩山と呼ぶように変わってしまい、本当の白岩山は地図上から姿を消してしまいました。机上で三角点のあるところが「山」としたのでしょうか。私たちは、日肥峠、白岩山、水呑の頭と昔からの呼び方を続けていくことにしています。

 水呑の頭は、ブナを主体とした原生林に覆われており、眺望は全くききません。三角点の石標を越えて北東斜面に下ればシャクナゲの大群落が広がります。1999年、このシャクナゲ群落の道を整備しました。三角点から木浦林道に下山するルートです。霧立越全コースは体力に自信ないなどとお考えの方はこのルートがお奨めです。

 このシャクナゲコースはシャクナゲの巨木や盆栽風の見事なシャクナゲが林立しています。また、木浦林道に下山して、林道の奥づめに向かって1kmほど行ったところには、林道の上下にアケボノツツジの群落があります。単独では危険ですので地元のガイド付ツァーでご参加ください。このエリアは、盗採盗掘の一番危険な地帯としてマークしており、常時森林パトロールを行なっています。不審な人物や車を見かけられたら近くの霧立越インストラクターまたは、森林パトロールもしくは警察、森林管理署などに通報してください。

17.霧立越の行程と地名
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H.灰木の頭とイワタケ
 水呑からは平坦な道が多くなり、歩道は尾根を右に左にと廻り込みながら変化して実に快適なトレッキングができます。左手前方遠くにそびえて見える山が扇山です。まだまだ道は遠いことが実感できます。やがて水呑から1時間あまり歩いた時、尾根を左から右に跨ぐ岩場の峰に出ます。このところを灰木の頭(かしら)と呼び、歩道から右に10m程登れば眺望のよい岩場の上に出ます。この岩場は特に狭いので5〜6人位づつ交代で登ってください。この岩場も断崖絶壁で危険です。身を乗り出さないようご注意ください。

 ハイビャクシンのことを当地ではフャーギ(ハイギ)と呼びます。灰木とは這木のことでハイビャクシンを意味します。ハイビャクシンは白岩山にはありますが、灰木の頭ではほとんど見かけません。この付近一帯はミズナラの二次林で、その昔は草原であったのかも知れません。ハイビャクシンが茂っていた灰木の頭が草原の火が入った事によってハイビャクシンが消えたのではないかと思われます。

 この岩場ではイワタケを見ることができます。キクラゲのような小さな黒い固まりが、崖の壁に群がって見えます。それがイワタケです。転落しないように注意しながら観察してください。イワタケはこのように絶壁となった岩場で人の手が届かないような場所にしか育ちません。イワタケ採集はこのような崖の場所でロープにぶら下がり、まるでロッククライミングでもしているように決死の思いで採集するのです。

 イワタケは岩の茸と書きますが茸の種類ではありません。地衣類ですから苔の一種です。食用に育つ迄10年以上の歳月を要します。長い年月をかけて岩石のマンガンやカルシュウムなどを吸収して育ちますので、普段摂取できない貴重な微量要素を多量に含んでいることから、古来不老不死の食べ物として珍重されてきました。まさに仙人の食べ物です。

18.霧立越の行程と地名
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I.馬つなぎ場
 灰木の頭から20分ほどのところに霧立越の鞍部「馬つなぎ場」があります。ここは、霧立越中最も尾根の広がりがあるところで、その昔、馬方さんがここで馬を休めたといわれています。現代の霧立越トレッキングでもここで、昼食をとることが多いようです。扇山の山小屋で食事をとるには、お腹が空くということで馬つなぎ場がちょうど中間位で食事の場所となるわけです。

 馬つなぎ場には大きな窪地があります。自然では出来るはずのないような窪地で、人為的に構築されたように見えます。粘土を叩きつけて天水を貯め、牛馬の飲み水を確保した跡ではないでしょうか。かつて椎茸の浸水打木栽培では、ホダ場近くの山中に穴を堀って粘土で表面を叩き固めて天水を貯める方法がありました。そのようにして作った水場と思われます。また、付近には石垣の跡がみられます。かつては人が住んでいた住居の跡かも知れません。

 大正4年8月、植物学者牧野富太郎先生指導のもと、霧立山地の植物調査に従事された熊本の徳永眞次氏の霧立越踏査記録「BOTANY」NO43に次のような記録があります。「8月19日晴。白岩山の険路。尾前を立って鞍岡に向かう。----中略-----行けども行けども上り坂でいつ頂上に着くか分からぬ。----中略-----市房山を初め西方肥方の連峰を臨んだ時は、元気とみに回復して爽快を覚えると共に、今まで平凡であった植物分布状態もようやく興味が加わってきた。広い原野を越えると道はほとんど平坦で更に森林の中をうねっている。」とあるが「広い原野」は、馬つなぎ場の描写であることがわかります。

 馬つなぎ場をよく観察しますと茅の株が僅かに残っているのが見つかります。茅場は、牛馬の飼料として、家の屋根を葺く材料として、炭焼きの炭俵の材料としてなど生活になくてはならないものでありました。霧立越の物流の拠点となって栄えた熊本県馬見原も馬を見る原といわれる程駄賃付け馬が集まり、付近には広大な茅場(草原)があったといわれています。

 駄賃つけは朝暗いうちに家を発ち、峠に上がってから朝日を迎えるような行程で行動していたといわれます。馬つなぎ場で朝日を迎えたり、夕日を見たりしたのでしょうか。馬つなぎ場は駄賃つけさんたちの憩いの場であったのでしょう。こうした駄賃付け唄は、今でも椎葉村で歌い継がれています。

駄賃つけの唄
1.おどま13から駄賃つけなろうたよー  ハイハイ
  馬のたずなで日を送るよー      ハー、シッカリ、シッカリ
2.朝もはよから峠にのぼりよー     ハイハイ
  お日の出を待つ入りを待つよー    ハー、シッカリ、シッカリ
3.馬よ暗いぞ足場はよいかよー     ハイハイ
  鈴の音(ね)おとに追いてこいよー  ハー、シッカリ、シッカリ

 馬つなぎ場からしばらく歩くと、右方向にえぐれた馬道の跡がスズタケの藪の中に見え、三方界と書かれた朽ち果てた案内版があります。実はこの道が尾前に通じる霧立越メインの馬道で、薩軍はここを下りたと思われます。この道は、現在刈り払ってありませんのでここから下山しないでください。下の方は、昔の造林用の道が迷路のように複雑にからまっていて藪になっていますので遭難の恐れがあります。尾前ルートから分岐したこの地点からは松木ルートの馬道となり、これをたどって山小屋を目指します。
 
19.霧立越の行程と地名
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J平家ブナ
 平家ブナは、霧立越道中の内、最大のブナの巨木で樹齢800年以上経っているとみられます。没落した平家一門が霧立越を通った時、このブナはすでにあったのではないかと思われることから平家ブナと呼ばれるようになりました。

 ブナ林の樹木の平均寿命は約300年といわれます。300年以上になると空洞ができ、やがて枯死や倒木となって寿命を終え次の世代にバトンタッチしますが、強風や雷に遭遇する確率の低い地形や周辺の環境によっては、伸び過ぎた枝は風にもぎ取られたりしながら相当長く生きている樹木もあります。

 平家ブナも相当大きな空洞や瘤を持っていますが、上枝を軽くしていることから、長く生きていられるのでしょう。幹のあちこちに壊死した部分があり、キノコのシーズンには、いろんなキノコが幹から生えます。幹の回りを一回りしてみると風雪に耐え、苦労して生き長らえている様子がわかります。1999年の台風で山側の大きな枝が折れてしまい幹にもひび割れが生じています。

20.霧立越の行程と地名
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K.扇山の山小屋
 霧立越のオアシスともいうべき山小屋です。昭和54年、宮崎国体が開催された時、扇山への登山ルートを山岳競技として活用されることになり、それを機にヘリコプターで資材を運搬して建てられた山小屋です。近年老朽化がすすんでいましたが、平成8年秋に宮崎県と椎葉村により再建されました。山小屋には霧立越ルート唯一のお手洗いがあります。小屋の先20mあまりのところに湧き水もあります。屋内には囲炉裏がありますので、寒い時や雨の時は焚き火で暖をとることもできます。また、寝袋を持ち込めば泊まることもできます。

 山小屋の利用は、登山者はすべて自由に利用できるようになっています。小屋の鍵は、ドアの近くのチェーンに取り付けてありますので、その鍵で開けてください。囲炉裏を使用する場合、薪は小屋の回りから枯れ木を拾い集めて燃やしてください。あまり大きな焚き火は危険です。焚き火の際は、煙が部屋に充満しますので窓や天窓を開けましょう。

 山小屋の使用後は、きれいに清掃してください。特に囲炉裏の使用後は、燃えさしが残らないようによく燃やし、灰をかけて消しましょう。残り火の薪は外に持ち出して水をかけて消火してください。消火用の水は、あらかじめ備付のヤカンなどで水を汲んで消火場所に準備してから持ち出してください。消火の際は、薪の中心部にも火が残らないようにたっぷり水をかけて完全に消火した後、再び小屋に持ち込んで囲炉裏の端に置きましょう。

 山小屋にはゴミの収集車は来ません。残飯や飲料水の容器その他持ち込んだものすべては各人の責任において全部持ち出してください。次の人が快適に使用できるように「来たときよりも美しく」をモットーに利用してください。最後に備付の登山者名簿に記録し、開けた窓は全部閉めて忘れ物のないように再度点検してから施錠して小屋を発ちましょう。

 松木ルートの馬道は山小屋の前を通っています。松木に下山される方は小屋の前をそのまま真っ直ぐにお進みください。約40分程で林道に下ります。内の八重下山の方は、松木に下りますと方向が違いますので帰れなくなります。間違え易いので気をつけましょう。

 扇山へは、小屋の前から真上方向に急な斜面を登っていきます。登り口は、狭くて獣道のように見えるため見失いがちですが案内板がありますので良く確認してください。他に道がなかったとして内の八重下山予定の登山者が松木の方へ下山されて大慌てした経験もあります。霧立越で間違い易い処はここだけですので十分注意しましょう。

 山小屋から扇山へ向かう急な登り斜面は50mほどで終わります。後は再び尾根伝いとなり緩斜面が多いのでそれほど苦にはなりません。20分ほど歩いたところで尾根のピークの岩場に達しますが、ここは扇山ではありません。ここは山頂の手前のピークですのでもうひとふんばりです。尾根道を下るとシャクナゲの群生地へ入ります。これを過ぎればもう目の前が扇山の山頂です。
 
21.霧立越の行程と地名
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L.扇山山頂(1661)
 山頂一帯は、ミヤマホツツジ、ドウダンツツジ、シャクナゲ等に覆われていますが、風が強いので盆栽仕立てのようになってまるで庭園です。360度の眺望がききますので風景をお楽しみください。山頂から北東方向の遠くに山頂が鋭角に尖った山が見えます。それが祖母山です。祖母山の左に九重山、根子岳、阿蘇山と見えますが、阿蘇の左側に小川岳を見ることができます。この小川岳は霧立連山の一部で扇山までつながっています。小川岳の左には向坂山が水呑みの頭の上に見えます。

 扇山から向坂山を振り返えると、これまで歩いてきた尾根が見えます。日肥峠は向坂山のすぐ下にありますので、そこから延々と歩いて来たその尾根が半円を描いて扇山に繋がっている様子を見ることができます。歩く途中は森の中でわかりませんが、この山頂に立ちますと「あの山からここまで歩いて来たのかあ」としばし感慨にひたります。「お疲れさまでした!」。

 さて、そろそろ下山です。松木へは一旦山小屋へ引き返してから下山します。内の八重へは、登って来た道の延長線そのままに山頂を越えて下山します。下山は下り坂が延々と続き、林道まで約1時間10分ほどかかります。秋は、日が短いのでここでゆっくりしていれば途中の森の中で日が暮れて真っ暗になります。午後4時を下山のタイムリミットとして判断してください。遅くなる場合は懐中電灯が必要です。
 
22.霧立越の行程と地名
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M.大イチイ
 扇山山頂から内の八重方面に下山途中、10分ほどのところの左にイチイの巨木があります。巨木といっても木の中心部分は既に土になり、まわりの側面だけが残って立っている木で大部分が枯れていますが、片側の一部は尚生きているという珍しい樹木です。イチイは、木質が赤くて、すじがよく、非常に長生きする木です。神社の神主さんがお使いになる「錫(しゃく)」を造る木であることから木の位が一番高いという意味でイチイと呼ばれています。地元では、木肌が赤いことからアカギと呼びますが、アララギと呼ぶ地方もあります。

 イチイは、雪が枝に絡んでこびりついたら、風が吹いても落ちなくなります。冬、山中で強風が吹いても尚樹氷を着けている針葉樹はイチイのみです。このため、ますます重たい雪に覆われて、伸びすぎた枝が雪の重量でことごとく引きちぎられてしまいます。

 イチイは、寒い地方の針葉樹ですが、風雪に耐えて育つその年輪は針先でも数えられないほど密になっております。自然のイチイの古木では、1pに25〜30の年輪がありますので、このことから想定しますと、このイチイは縄文時代に育った木といえます。自然界の営みの大きさ凄さを実感してください。尚、イチイは秋に直径5_前後の赤い実をつけますがその実は甘くて美味しいです。
 
23.霧立越の行程と地名
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N.岩をも砕くヤマグルマ
 イチイの巨木を過ぎてしばらくすると歩道は尾根を外れて右に回り込みます。右に回り込んだところの右手の岩には、大きなヤマグルマの木が岩盤の垂直面に根を蛸の足のように岩に張り付けて岩盤をしっかり捉えて育っています。冬になると岩盤の隙間に水滴が入って凍り、隙間を少しずつ広げていきますとすかさずその隙間に根を伸ばし込み、まるで岩を割りながら育つように見えます。樹木の生命力の強さをまざまざと見せつけられるような光景です。ぜひゆっくり観察してください。「岩をも砕くヤマグルマ」です。

このヤマグルマから歩道は急斜面に入ります。ここからが一番事故が起こり易いところですので十分気をつけて小幅でゆっくりと歩きましょう。特に後半、林道が見え隠れするようになってから急坂路が続きます。道はつづら折りになり、人数が多いときは斜面の上と下を両方で歩いていますので、歩道沿いの石を落とさないように気をつけてください。
 
24.霧立越の行程と地名
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O.カモシカを見つけてください。烏帽子岩。
 ヤマグルマから下っていくと人工林に出ます。そこには左下に大きな岩が重なった「重ね岩」が見えます。「重ね岩」を過ぎるとほどなく水場があります。水場付近の岩場は滑り易いので気を付けてください。更に下っていきますと歩道の真ん中に大きな松の木があり、そこから左に岩山がせりあがって見えます。この岩場はまるで,神主さんがかぶっている烏帽子のようにみえることから地元では「烏帽子岩」と呼んでいます。

 烏帽子岩のてっぺんには30mほどで簡単に登ることができますのでお疲れでしょうが、挑戦してみてください。ただし、木の根などにしっかり掴まって登らなければ転落したら命がありません。岩の頂上は大変すばらしい眺めです。

 双眼鏡をお持ちの貴方だけにそっとお教えします。対岸に見える岩場を双眼鏡でそっとのぞいてください。岩場の中腹に動物の姿が時々見えることがあります。この動物は何でしょうか。そうです。カモシカです。もし超望遠レンズをお持ちでしたら絶好のシャッターチャンスです。但し、足元には十分ご注意ください。繰り返し申しますが、転落したら命がありません。

※扇山から内の八重への下山ルートは、内の八重地区の皆さんが扇山登山のために近年新たに開かれた歩道です。
 
25.椎葉の駄賃つけ道と百万道路
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 馬の背に荷物を積んで物資を運ぶことを駄賃つけと呼んでいました。今の宅急便のような仕事です。椎葉の駄賃つけは、昭和8年、椎葉に道路が開設されて自動車が入り込むようになるまで続けられました。霧立越の馬見原ルートは昭和12〜13年頃まで続けられたといわれています。

 椎葉村史によれば、椎葉村は古くから住友財閥との関係がありました。森林開発や電源開発に関して椎葉村と住友財閥はいろんな取引があり、現在でも住友林業の山林が広範囲に渡って広がっています。霧立越を歩くと尾根伝いに国有林と住友林業の境界線の石標を見ることができます。

 椎葉村の道路建設の記録によれば、昭和2年椎葉村に道路を入れる計画が持ち上がり、住友財閥の代表者、住友吉衛門から宮崎県を通じて椎葉村に道路開設費として百万円の寄付があったと記されています。当時としては、相当な金額であったに違いありません。そこで那須橋から下流に向かって耳川沿いの断崖絶壁を切り開き、日向から椎葉につながる道路が完成して自動車が入るようになりました。昭和8年のことです。

 その後、終戦後電源開発のために上椎葉ダムが建設されて道路の改良が進み、日向へ通じる現在の国道327号線が完成しました。昭和初期に開削された道路をもとに進められたので椎葉から諸塚への道路を百万道路と呼ばれていました。百万道路は椎葉村民の誇りでもありました。

 100万道路が開設されるまでは椎葉には、基本的に4つの駄賃つけルートがありました。ひとつは、百済の里づくりで有名になった南郷村の神門に通じる神門口です。ここも大変な峠越えの難所であったといわれています。もうひとつは米良口です。米良の庄といわれた西米良から西都市に通じる道。もうひとつは熊本県球磨郡に通じる人吉ルート。これは球磨口と呼ばれていました。そして馬見原口、これが霧立越ルートです。いずれのルートも峠越えの大変な難所でありました。

 椎葉山中からは木炭、お茶、カジ皮(ミツマタの皮)、ノリ樽、キノコ類、カワノリ、毛皮、ろくろの木製品など多種多様な山産物を運び出し、馬見原からは、塩、味噌、醤油、米、酒類などの日用品を運び込んでいました。ノリ樽とは、ノリウツギの皮を詰めた樽のことです。ノリウツギの皮は、手漉きの和紙の製造に糊の材料として使われました。今では、トロロアオイと呼ぶ南方産の植物の根を使っていると聞きましたが、当時はノリウツギの皮を使っていたということです。糊になるので木の名前もノリウツギと呼んでいます。

 山で仕事をする人は仕事の種類によって何々山と名前がつけられていました。ノリウツギの皮を採集する人はノリ山です。ハツリ山とは、ハツリヨキと呼ぶ特大のオノで木を削る人、木挽き山は木挽ノコで板を挽く人、伐採山は木を切り倒す人、コバ山は山から木をコバする(落とす)人、先山は伐採の下準備をしてスズタケなどの藪を切り開く人、ゲタ山は下駄の材料をとる人など、何々山というそれぞれの仕事のプロフェッショナルを総称して山師と呼ぶわけです。今日でも、椎茸栽培する人をナバ山さんと呼んでいます。

 山師は、一方ではぺテン師の意味でも使われていますが、これは鉱山の鉱山師(ヤマシ)からきた言葉でしょう。地下のことは分からないから騙したり騙されたりしたのでしょうか。山師とは本来技術者のことで尊敬される神聖な職業とされていたのです。

 椎葉からの山産物のリストにお茶があります。今ではあまりお茶の栽培は見られませんが、これには焼畑との関係があります。「おばあさんの植物図鑑」や「おばあさんの山里日記」などの本で有名になった椎葉クニ子さんのお話しによれば「お茶は、中国から入ってきたというが、お茶はもともと山にあるものだ。焼畑の跡には自然とお茶が出てくる。だから、昔は大きく育ったお茶の木に梯子をかけてお茶をつんでいた」とおっしゃいます。また「山に仕事に入っている時はこのお茶の枝をもぎ取り、火にかざしてパチパチと焼いて、やかんのお湯に入れて飲んだ。それは大変美味しいお茶の入れ方であった。」といわれます。焼畑文化にはお茶があったのでしょう。

 駄賃つけさんは、1人で2〜3頭の馬をひいていたといわれます。一人一頭では効率が悪いからです。また、一人での単独行動は少なく、3〜4人から4〜5人が一緒に組んで行動していました。それは、峻険な長い道のりで馬があばれたり、積み荷が壊れたり、事故に遭った時一人では対応できないためでしょう。狸も出没しますし。ですから、10数頭の馬が集団で移動していたのです。

 昭和初期の駄賃つけ馬の価格は、1頭70円から100円でありました。馬1頭に積む荷の量を1駄といい、酒や醤油は2斗樽を2本、馬の背の両側に乗せて、背中に小物を積むというような量が標準であったようです。安い馬は馬力がありませんので高くても馬力のある馬を買うようにしていたということです。
 
26.歴史の道
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@.交易の拠点馬見原
 熊本県馬見原は、後方に高千穂、五ヶ瀬、諸塚、椎葉の山々を控えた盆地で、古くから物資の集散地として賑わい、番所がありました。後方の山深くからの物資の輸送は、馬の背でなければ運び出せませんが、馬見原の盆地からは、肥後方面に馬車で輸送できたのです。輸送手段の切り替えの拠点でもあったのです。肥後の米や生活用品を山々に送り込み、山からは山産物を運び出す駄賃付けさんが周辺の山々から集まるため、まさに馬を見る原であったのです。

 こうして駄賃付けさんたちで賑わう宿場町として栄えた馬見原には、明治から昭和初期にかけて造り酒屋が7〜8軒、料理屋が10数軒もあり、花園座という廻り舞台付の劇場もありました。馬見原は、駄賃付けさんだけではなく五ヶ瀬に廻渕鉱山、椎葉に財木鉱山がありましたので鉱山の鉱夫たちも訪れて夕方からシャンシャンと三味線や太鼓が毎晩のように鳴り賑わっていたということです。
 
27.歴史の道
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A.鞍岡は馬の鞍を置いた村
 文治元年(1185)3月24日、壇の浦の戦いに敗れた平家一門は、源氏の追討の手を逃れて阿蘇家を頼って阿蘇に入り、九州山地へと逃避行を続けて鞍岡の地に到着しました。更に鞍岡から峻険な山道を越えて椎葉山中に分け入り隠れ住みました。この時、霧立越は難所で馬に乗って越せないと馬の鞍を置いて行ったということです。

 阿蘇神社と鞍岡の祇園神社は、古来から深い関係にあります。阿蘇神社に奉納されている三十六歌仙(柿本人麻呂、紀貫之など藤原公任選による36人の代表的歌人)と同じものが祇園神社にも現存し、神社の神主が協力しあったことが伝えられています。平家の残党が阿蘇神社の手引きを受けて鞍岡の地に入り椎葉に分け入ったものではないかと思われます。

 鎌倉幕府になっても幕府は、全国に散っている平家一門の追討の手は弛めず、元久元年(1204)3月、平賀朝雅は伊賀、伊勢の平家残党を平定(三日平氏の乱)し、翌、元久2年、鎌倉幕府は九州山地に逃れた平家一族の追討を那須与市に命じました。那須与市は体調悪く、大八郎宗久が代わって椎葉へ向かうことになりました。

 命を受けた那須大八郎宗久一行は、椎葉山中へ向かう途中、霧立越が峻険な道と聞き、鞍岡の里で馬の鞍を置いて椎葉に入りました。その時の那須大八郎の乗った馬の鞍が今でも鞍岡の一水さん宅に大切に保管されています。鞍岡の地名のおこりは、「馬の鞍を置いた村」が訛ったものと伝えられています。

 
 尚、鞍岡の里では、平家落人に戦意のないことを悟り、長旅の慰安を兼ねて呉越同舟の踊りを催し、勝者のおごりを捨てて敗者への哀れみをなしたといわれる臼太鼓踊りが伝承されています。その踊りは毎年10月9日の祇園まつりに奉納されます。

 
28.歴史の道
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B.タイシャ流の通った道
鞍岡には、「タイシャ無双流」といわれる棒術が伝承されています。真剣の刀と三尺や六尺棒との立ち合いで、火花を散らすようなすざまじい武術です。毎年7月15日鞍岡祇園神社の夏祭に「白刀どり」と呼ばれてその演武が奉納されます。

 タイシャ流は、人吉の武芸者、丸目蔵人(1540〜1629)が開祖したもので人吉から椎葉へ、椎葉から鞍岡へと霧立越によって伝わった武術です。かっては、人吉や椎葉にもその演武の型はあったといわれていますが、今では唯一鞍岡だけになりました。

 この武術の秘伝書「心影タイシャ無双流極秘師範免許書」数巻が鞍岡にあります。同様の秘伝書が椎葉にもあり3巻程確認されています。いずれもが門外不出とされて神社のご神体として祀られたり、神棚に祀られたりして誰にも見せてはならないものとされています。

 秘伝書には、巻末に伝授者名が記録されています。その伝尾判によると一能院友定から柏村十助殿とされ、正保2年(1645)鞍岡の山村四兵衛に始まり、江戸時代末期まで鞍岡、椎葉、馬見原、と転々と伝授されています。椎葉の秘伝書の内1巻は明治まで書いてあるものもあります。また、鞍岡の1巻は嘉永8年で終わっている巻物もあります。嘉永は7年で終わっていますので元号の改正が九州山中に届かなかったものと思われます。

 丸目蔵人は、相良藩出身で心影流の開祖、上泉伊勢守信綱(こういずみいせのかみのぶつな)に学び、天正13年にタイシャ流を開眼したといわれます。豊臣秀吉の時代から徳川時代にかけて東の柳生流、西のタイシャ流と呼ばれ剣豪日本一を競いました。柳生流は徳川幕府の指南役となったことから有名になりました。

 剣の流派の元祖は愛州移香という武芸者で、鵜戸神宮の岩屋で剣の修業をして陰流を編み出したことから始まります。愛州移香は熊野水軍ともいわれていますが、三重県の南勢町に愛州移香の墓があり、現在南勢町は剣豪の里づくりを行っています。

 心影流(新影流)の開祖、上泉伊勢守信綱は愛州移香の影流を元にして、たくあん和尚の禅の哲学等を採り入れ、新影流を創始しました。上泉伊勢守が剣聖といわれる所以です。そこで、全国の武芸者が上泉伊勢守の門下となり心影流を学び、心影流を基本として心影柳生流、心影タイ捨流などいろんな流派が派生しました。

 鞍岡のタイシャ流棒術は、山伏に伝承されたものが伝わったであろうといわれています。山伏風の武芸者がタイシャ流の巻物を懐にして、あたりの気配を伺いながら霧立越をかっ歩していたのでしょうか。
 
29.歴史の道
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C.西郷隆盛率いる薩軍が行軍
 明治10年3月20日の西南の役で田原坂の戦闘に敗れた薩軍は、退却して4月21日熊本県矢部町で軍議を開き「ひと先ず江代へ出て人吉に退き、日向、薩摩、大隅の兵を募り、機を見て再度進撃に移る」との方針を決定しました。隊を再編した有名な「矢部軍議」です。五ケ瀬町の町史によると、西郷隆盛は兵2千に護られて矢部を出発、緑川の上流を辿って黒峰を越え鞍岡に入って金光寺に一泊、翌日、本屋敷から左して財木越(当時、財木越は椎葉往還と呼び、霧立越は椎葉間道とした)を通過して椎葉に入ったとされています。

 西郷隆盛の行動は、記録に現れていないので佐々友房が一日早く動いているために佐々友房が西郷隆盛を警護したという説を五ケ瀬町史はとっています。ところがこれに異論を唱える方も少なくありません。西郷隆盛は絶えず裏をかいて移動していたので霧立越を越えている筈と言う説です。本隊より一日早く逃げる筈はないというのもうなづける話しではあります。

 さて、町史に戻しますと「西郷隆盛に1日遅れて、桐霧利秋は本隊を率いて本道沿いに馬見原から鞍岡に入り宿営。4月25日は、本屋敷から右して波帰へ上がり、霧立越を越えて椎葉へ出た」とあります。霧立越は連日連夜の風雨と残雪で大変な難行苦行であったと佐々友房の獄中記「戦袍日記」や「硝煙弾雨」などが伝えています。また、これらの記録には、矢部を25日の未明に出発したとありますので鞍岡で野営すれば26日になるはずですが、町史の記録の出典がよくわからないのでなんともいえません。

 「硝煙弾雨」では「連日風雨、道路泥濘、深さ脛を没し、且つ高山にて残雪を見、衣褌全く濡ひ、又寒気に冒され、頗る艱難を極む。山谷の間偶々茅屋あれども、大軍を収容するに能はず。露臥星宿するもの少なからず。終夜火を焚きて暖を取り、予め備えし餅或は焼米等を噛み、以って餓を醫するを得たり。」

 また、「戦袍日記」では、「各々草鞋両3足を齋すに過ぎず、而して山路険悪、加え大雨を以てす。草鞋悉く断絶し、人々徒跣にして走る。余僅に1足を残す、戦死の日に非ざれば、決して此を用いずと・・・・那須越八里の間積雪数尺絶えて人家なし、北村隊弾薬掛山路唯顯凍傷を起こし雪中に仆れ、3日起つ能はず。薩人之を発見し、本隊に送致す。足指悉く腐燗す、降服の後、延岡病院に於いて其十指を裁断し去り、復元指なし。」とあります。

また、町史では「地元の貝長日記は、鞍岡から那須、胡麻山通り3万5千人立ち帰り侯」と記されており、多数の軍隊が霧立越を行軍したことが記されています。この時、波帰の秋山文太という人が荷物を送る夫方に呼び出され、明け荷を担いで人吉までお供をしたと地元の故秋山君義氏から伺ったことがあります。

 薩軍が霧立越を行軍した時は、勝てば官軍といわれる程の勢いがあったといわれます。その後人吉からえびのに出て北上し、延岡の北の和田越えの闘いで切り崩されて敗れ、北川の可愛岳(えのたけ)を突破して五ヶ瀬川を遡り五ヶ瀬町の飯干峠を越えて一路鹿児島に逃げ帰ったといわれています。
 
30.尾根の道と森の暮らし
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 九州の脊梁山地は急峻な山々が連なり、谷はV字谷ですが尾根の近くには緩斜面があります。尾根の近くの緩斜面には谷川の始まりの湧水もあり、雪が降っても根雪にならない地帯です。実は、雪が降って根雪にならない地帯が森の恵みも多く一番暮らしやすいといわれます。かって九州山地の山住みの民は、この尾根の近くで暮らしていたことが伺われます。

 尾根近くの緩斜面は、住まいを建てる敷地を開くに便利です。ドングリや栗の実などの木の実。ウドやタラの芽、ワラビ、ゼンマイ、などの山菜、シイタケ、ムキタケ、コウタケ、シメジなどのキノコ類などブナ林の森の恵みが一番採れるところです。また、豊富な森の恵みは猪、鹿、山鳥、兎などの多くの獣も育ててくれるので、狩りをするにも獲物が豊です。

 山地の民が尾根の近くに住居を持っていたもう一つの理由に茅の調達があります。山地で住居の屋根を葺く材料の茅を確保するには茅場を造る必要があります。茅は、毎年火を入れて野焼きを続けなければ育ちません。毎年火を入れなければ草原はたちまち樹木が茂り消滅してしまいます。

 阿蘇の草原が消えるというお話をお聞きになった方がいらっしゃると思います。阿蘇の草原は火山の噴火によって燃え上がり草原になったところです。近代においては草原で牧畜が営まれ、毎年春には草原に火入れをして維持してきました。ところが、近年は牛の価格が下落し、放牧事業が採算割れを起こすようになりましたので、たくさんの人手を要する野焼きはできなくなりました。

 野焼きを数年休んだらその部分は、すぐに樹木が成長をはじめて、草地は消滅するのです。阿蘇の草原には、日本と大陸が陸続きであったことを証明するような大陸の分布と種を同じくする草原性の特異な植物が広がり、学術的にも貴重であるわけです。このようなことから、野焼きが行われず草原が消滅していくことが危惧されています。

 草原の野焼きは、山の上部から火をつけて囲むようにして焼き下がりますが、下部からも火を立ち上げなければ勢いよく燃えません。斜面の左右や下部から火をかけて迎え火で消していくのです。急斜面の谷間から直接火を入れたとすれば山の稜線まで火は駆け上がり大火事になってしまうでしょう。迎え火で火は火でもって消していくわけですから、尾根を囲んだ地帯で野焼きを行うのが最も効率がよいのです。

 日本神話では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の蝦夷(えみし)平定のおり、駿河で野火の難に合い、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で枯れ草を刈り払って火を放ち、迎え火で火を消して火難を逃れたというお話があります。以後、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになり熱田神宮に祀ったとされています。まさに火は火で消したという神話です。

 山地の民は、尾根を囲んだ地域に草原をつくり、家の屋根の材料となる茅を育て、その近くに住居を構えていた。だから尾根の道があったとも考えられます。「隣半道・そこ一里」という呼び方があります。これは、山の稜線から下る尾根のひとつひとつに家族が住んでいるさまをあらわしたものと思われます。つまり、「隣」と呼ばれる家は、隣の尾根をイメージしますので半道(2キロ)先、「そこ」と指される家は、隣の尾根の次の尾根ですから1里(4キロ)先といわれるわけで、とてもスケールの大きな住まい方で自然の森の恵みで暮らす狩猟採集のための最適密度であったのかも知れません。
 
31.参考
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霧立越インストラクターの携行品
1.携行する救急医薬品
消毒薬      傷口を消毒する。(赤ちん、ヨウド剤など)
油紙とガーゼ   傷口に当てる。
包帯       傷口を包帯する。
はさみ      ガーゼや包帯を切る。
ピンセット    ガーゼや油紙をつまむ。
カットバン    小さな傷口に貼る。
テープバン    包帯を止める。
アンモニア水等  虫刺され薬。虫に刺された時点ける。
毒吸い取り器   マムシに咬まれたり、熊蜂に刺された時、毒を吸い出す。
目薬       目にゴミが入ったり、梢などで目を突いた時。
腹薬       正露丸と胃酸。トレッキング途中お腹が痛くなった時。
ポケットティッシュ。
痛み止スプレー  エアーサロンパス等。下山口で膝がわらって痛む時。
ブランデー小瓶  極度の疲労で衰弱した時。
ポカリスェット  血糖が下がって疲労した時(あめだま)。
2.案内用品
腰鉈       木の枝やスズ竹等の刈払い。緊急用担架造り。獣対策等。
折畳み鋸     道中に出ている木の枝の除去。緊急用担架造り。
ゴミ挟み     道中の飴の皮、空き缶、空きビン等ゴミを拾う。
ゴミ入れバッグ  道中の飴の皮、空き缶、空きビン等ゴミの収拾袋。
ビニール袋    拾ったゴミを入れる袋。
無線機      本部と連絡をとる。
ハンドマイク   7〜8名以上の場合。
ライター     雨の日等山小屋で火を焚く必要が生じた時。
3.必携ではないがあったら便利なもの。
図鑑等      野鳥図鑑、植物図鑑等コンパクトなもの。
巻き尺      樹木の大きさ等を図る。
高度計      標高を図る。
温度計      温度を図る。
メモ       記録する。