禁・無断転載
第6回・霧立越シンポジウム

日本上流文化圏会議1997 in 五ケ瀬

下河辺淳先生の総括

シンポジウム総合司会 鈴木輝隆氏

 鈴木 それでは、おまちかね総括ということで、思い切り歴史をこの地に刻んでいただきたいと思います。

 下河辺 今日はみなさんから素晴らしいお話を伺ったので、総括なんていう野暮なことは止めたらいいと思ってお願いしていたので、鈴木さんの今の話は随分野暮な発言だなあって思ったりしました。そのために、ほんのちょっとだけ私の思っていることを言ってみたいと思います。

 これは、なんとも理解のしようもない、途方もない話ですから、今日の素晴らしい話を位置づけることにはならないかもしれません。それは、この五ヶ瀬は四億年というお話も聞いたわけです。そして、縄文から何千年となって、平家の落ち武者がっていう話は一二、三世紀かもしれませんし、棒術を見せていただくと、一五、六世紀かなあと思うし、それが、二○世紀になって、五ヶ瀬が新しい局面を迎えた。

 そして、二○世紀文明の中で、どうも落ちこぼれて、取り残されてしまったということになった時に、いや、そうじゃないよと、五ヶ瀬はまだ生きているよという話が、今日の話なんだろう、と思うんですね。 そういう時に、私は日本列島の日本民族の住まい方で言いますと、あの素晴らしい縄文文化という時は、日本列島全体で、六○万人と推計されているんですね。だから、この宝の島を六○万人で共有していたら、こんな夢の国はなかったんじゃないか、今、我々は、色々と発見してみて、素晴らしい、羨ましいということを言っていると思うんです。

 そして、今日出た伝統的な話の面白さの大部分は、江戸時代の三千万人くらいになった時に、日本人がつくった知恵の話がいっぱい出ていたと思うんです。これは、ちょっと世界に冠たる素晴らしさではないかと思っているんですが、日本列島全体に三千万人が住んで国土を共有したという条件の下でそういう文化ができたと思うんです。 そして、明治維新があって、産めよ増やせよ、ということがあって、四千万ということで二○世紀が始まりました。猛烈に米作りをやって、どんどん人口が増えても米が食えるということは、非常に大きな日本列島の仕事であって、一億人を超えた辺りで、米は食べたいだけ食べられるという時がきたという歴史が残りました。

 しかし、その後、むしろ米はあまり食べないということにもなり、海外の米の方が安いということにもなり、米の文化、米の農業が衰退という道を辿りつつあるというのが現在です。

 一億人を超え、とうとう一億三千万人まで増えて二○世紀は終わるということで、二○世紀は四千万人から一億三千万人へと九千万人口が増えた。この増えた理由は色々ありますし、良い悪いがありますが、国土の自然と言うことから見ると、一○○年間にこの狭い日本列島に九千万人も人口が増加して、それが殆ど全員車を持って、贅沢な食事をしてという日本ができたということは、それだけで自然の法則には添いきれないという重さが日本列島に被さったなあと思うんです。

 ただ、一つだけ救われたのは、九千万増えたのがどこに住んだかというと、海の近くに全部住んでくれました。昔は海であったところを陸地化して、増加の九千万人が全部住んで、それまでの国土の上流部には人が増えなかったということが言えるわけです。九千万人が、山が良いと狙っていたら、日本の国土はどうなっていたかというと、ぞっとするわけです。

 そして、これだけの近代国家が、全国土の六七%は森林ですなんていうことを世界に向けて平気で言えるということは不思議としか言えない。よっぽど日本人というのは、山を恐れたんじゃないか。山には神がいて、けがしてはいけないということもあって、少ない二、三千万の人たちで山を管理して二○世紀が終わるって私は思うんです。

 しかし、今問題なのは、九千万が海に住んだことの間違いとか、トラブルがいっぱい表に出てきました。九州で言えば、干拓地でムツゴロウを殺す気か、っていう意見が強く出ていて、もっと早く言ってくれればいいのにとさえ思いましたが、九千万人は全部ムツゴロウの上に寝ちゃっているんですから、今さら言ってもっていうくらい事態は深刻な状態にあります。 それだけに、日本人は、日本の全国のことを津々浦々って言うんです。津々浦々に全員が住んじゃうっていうのが、人と自然の関係に対する一つの答えだったんですね。しかも大部分が東京・大阪っていう巨大都市に集中しちゃったということであるわけで、その弊害を修正するのは、二、三○○年はかかります。

 しかし、逆に言えば、九千万も増えた人口が、大都市にいてくれたので助かったと。増えた人口の収容所であって、刑務所みたいな大都市ができたという風に考えると、山のためには良かったなあということを一つ言いたいと思います。 次はこれからどうなるかって言うと、上流に残った伝統的な文化に学ぶと言うことが、二一世紀への一つの挑戦であります。ただ、同じことをやるとか、懐古趣味になるとか、文化保存に陥るということでは、二一世紀の新しい文化をつくることにはなりません。

 そのために、日本上流文化圏研究所をつくり、あるいは、霧立ち越えのシンポジウムが行われ、日本が持っている歴史的な伝統的な文化の勉強会が、今、これほど大切なことはない。その勉強した、私のような年寄りでない若者たちが、そこからどんな新しい文化をつくってくれるんだろうか、ということへの期待を持つ状態になっていると思っています。

 ただ、日本は海に住んでしまいましたので、上流文化というものを海の文化とどうつなぐ条件を持っているかというところは、これから我々が挑戦しなければならない問題です。その糸口の一つとして、今、全国に呼びかけて、ちょっと始めてみているのは塩の道という考え方であります。 日本列島は、縄文時代以来、ずっと尾根伝いの交通が内陸の交通で、船っていうことで川と海は使っていましたが、歩くということは、川と海ではできませんから、歩く交通は全部峰伝いであります。

 海に近いところは自然条件が悪くて絶えず不安定ですから、歩く道はできなかった。ということであるにも拘わらず、上流地域が塩がなければ生きられないということに早くから日本は気がついたわけで、いかにして塩を自分の山に運んでくるかということは、非常に長い歴史の中で、祖先たちが知恵を出し合っていました。 調べてみたら日本列島に無数に海から上流に向かって塩を運んだ道が歴史として記録されていると聞いて、本当に驚きました。だから、全国塩の道大会を開くというところまで展開してきたわけです。恐らく、ここの地域でも塩を運ぶということは、馬に背負わせながら、非常な苦労をしたというような歴史も持っているに違いないと思ったりしておりました。

 人間というのは、水があって塩があって、米があれば生きられるというのが本来であったかもしれないとさえ思うのですけれども、今は米の文化を捨ててしまった日本人ですから、米を語る資格が無くなってしまいました。けれども、二一世紀には、もう一度、米の文化を日本の文化の中に取り入れることに成功して欲しいなあって思っています。しかも、それを楽観的に思っていいかどうかわからないんですけれども、一億三千万人になった二○世紀は終わりです。産業革命による文明の限界を感じて、変化せざるを得ません。
 そして、人口についてもこれからは、縄文以来、ずっと人口が増加してきた日本の何千年の歴史の中で、やっとピークを迎えて、増加の何千年の歴史を終わる時が来ました。二一世紀中頃から、人口はどんどん減りだすだろうというのが私の見方でありまして、二一世紀の末期には、恐らく七千万人くらいまで減ると、そして二二世紀の末には、四千万人にまで減ると思っています。

二○世紀に四千万人から一億三千万人に増えた日本人が、二○○年で、七千万人、四千万人まで減って、その後、五○○年後くらいには、二、三千万人くらいになって、人間と国土の関係が完全に回復するんじゃないか、ということを信じて死にたいなと思っておるわけです。

 これは、遺言みたいな、ご託宣みたいなもので、変なものですが、五○○年後の日本人が、五ヶ瀬に集まって、そういうことが話題だったよって言えたら、こんな愉快なことはないな、と思ったりしております。今日の私の話は、早川で会議をした時に、千年とか宇宙ということで自分たちを考えようと提案したことともつながっています。

 そうやって考えたときに、二○世紀は人間を本当に駄目にしました。細かい話で言うと、神戸で大震災がありましたが、震災に遭った近代都市の人間の弱さ、哀れさというのは、目を覆いたいようなものです。何をする知恵も能力もない。ひたすら電話をかけて、行政に助けてくれと言うわけだけど、行政はそんなに力はありませんから、首長さんは「ごめんなさい、ごめんなさい」と言い続けるという。その近代都市の人間の弱さというのは、本当に議論し直さなきゃならないと思うわけです。

 情報化社会がきて、便利になって、世界中の情報を手にすることができるようになって、これほど素晴らしいことはないと、一般的には言われていて、もっと技術が進歩することが期待されています。それは、私は否定はしません。 しかし、私が言いたいのは、そういう文明ができたために、情報に対して、全くか弱い人間に陥ってしまって、自分で情報処理が殆どできないということです。これは、漁民でも何でもみんな、テレビで天気予報を見ないと、天気の情報がわからないところまできちゃっているんじゃないか。山の中の年寄りたちは、テレビ見なくとも、明日の天気予報ぐらいは、簡単にしていたんじゃないか、って思うんです。

 そういうので、情報が商品になって、手軽に買えるようになったから、人間が自分で情報をつくったり、感じたりすることが殆どできない、ということが、これから大問題になるなあって思うんです。

 縄文時代からつながっている情報としては、人間は体の仕草で情報を伝えることの名人だったんです。それだけじゃなくて、着るものから化粧までして、情報を伝えようとする努力をしたんです。そして、言葉というものをつくって、人間らしさをつくったということがあります。それだけじゃなくて、壁にでも紙にでも、絵を描いて伝えるということはずっとできていたわけです。それから、音や声を出して音楽ということでもやったわけです。そして、狼煙を上げたり、太鼓を叩いて、符号として知らせるということもやったわけです。

 仕草とか、化粧とか、言葉とか、音楽とか、画像とか、あるいは符号といった六つの情報メディアが、人間に備わっていて、自然も完全にその形で人間に情報をくれていましたので、人間が発する情報と、自然が発する情報とは、会話が成り立っていたというのが、人間の歴史なのです。

 それが、情報化社会がきたばっかりに、人間がそのメディアを全部失って、お金を払って、電話をかけたりボタンを押したりすると得られるってなったがために、人間が駄目になる。そういう人間には、人間と自然を語ることはできないんじゃないか、っていうことを言いたいと思います。

 北海道のある林業の方と話してたら、その方は私に「林業なんてそんな難しい話じゃないよ。色んな政策もあるけれども、自分が森へ行って木としゃべるだけで木は元気になるし、自分も儲かるだけであって、俺と木との会話さえ続けていればいいんだ」って言われた時は感動しましたね。

 それから、中国へ行って、シルクロード地域のウィグル族と話していました時に、農業の話が出まして、あそこは果物も豊富だし、砂漠地帯なのに豊かな農業地域なのです。彼らは、自分たちの地域の農業の作物は商品として売るということをしたくないということで、漢民族と喧嘩していると言います。「漢民族は、商品化された農産物をいっぱいつくってウィグル族を豊かにしようと言って政策をつくってくれた。しかし、私たちはそれを歓迎しない」というので、「じゃあ、どう考えるんですか」って言ったら、「人間が自然の恵みの中で農産物を作った時に、できた農産物は全部が人間が食べて良いものではない。自然が作り、神が作ったということから、まず、農産物の三分の一は土地に食べさせなきゃいけない。あとの三分の一は動物や鳥や植物に食べさせなくちゃいけない。人間が食べて良いのは、残りの三分の一である」と言う。それを聞いた時には、やっぱり感動しました。

 これは、ちょっと雑談ですが、中国へ行ってVIPとして、天安門あたりで中国の偉い人から食事をご馳走になった時に、この頃は中国も交通が便利になったので、ウィグル族の「ハミウリ」という瓜を食べさせてあげようと、自慢そうに中国の幹部がご馳走してくれたのです。そして、私がこんな不味いウリは食べられないと言ったら大騒ぎになりました。

 「お前は何を考えているんだ」と言われるので、私は「中国の幹部は少なくともウィグル族の村へ行って、完熟したウリくらい食べてから言った方がいいよ」と言ったら、大勢いた中国の幹部の中でウィグルに行ったことがあるのは一人しかいませんでした。それじゃあ、駄目、っていうこともありました。

 実は帰ってきて、威張って「日本の農業はそういうところが駄目で、一切合切東京へ売って稼ごうって言うから駄目なんだ」って悪口を言いましたら、徹底的に怒られてしまいました。「そういう悪い農業が日本にあることは先生の言うとおりだけれども、自分の村はそれをやっていない」という農民が現れました。

 北海道の人でしたけれども、人参を作った時に、できた人参をどうするかということを必死に考えると。その時に人参畑でできる人参は自然の植物だから、いくら改良しても形のいい悪いとか、大きさが違うものができるということに注目して、しかも、生活は豊かにしなきゃならないので、姿の良い人参だけをものすごく高い値段で東京に売ってしこたま稼いでしまうと。あとの三分の一は、ひん曲がっていたって却って旨いんだと、地元の人がただ同然で食べられるようにする。残りの三分の一は、そのまま畑に捨てて、来年の人参と繋いでいるということをやっているので、ウィグル族だけ褒めてはいけないと言われて、そうだなと思いました。

 さらに面白かったのは、ウィグルでは、果物がいっぱい穫れてぶどうとかイチジクが断然旨いです。ただ、その時に、ウィグル族は、決して全部一度に穫って食べてしまうという収穫をしません。ぶどうでも房の中の熟したところを食べて、あとは熟す日にちを待って食べていくので、房ごと穫るなんていう人はいない。そして、イチジクも木いっぱいになっていますけれども、完熟した実以外は絶対穫らせない。ということを未だにやっています。

 イチジク畑に行ったときに、我々では完熟がわからないのです。それで、ウィグル族がこれだと言って穫ってくれると、完熟して絶対に旨いのに、自分で穫ると完熟していないのを穫って捨てたくなるような感じなので、ウィグルの人に、どうやったら見分けられるようになるのか聞いたのです。そうしたら「ウィグルにまあ十年は住むんだね」とか言われちゃいまして、「それが、できなきゃどうするの」って言ったら、「鳥のつついた食い残しだけ食べなさい。それは絶対間違いない」と言うのでやってみたら、確かに食い残しが旨いんです。

 これも、帰ってきてから自慢して「ウィグルじゃイチジクをそうやって食ってるよ」と話したら、奈良の農民に怒られちゃいました。「柿というものを一度にたたき落とす農民はいない。完熟が見分けられないようじゃ駄目。しかも、落っこちる寸前で穫るのが名人だ」って言います。それじゃ我々はわからないって言ったら、同じように、鳥の食べ残しをあなたが食べればいいって言われたのです。何だ、これも私が無知であったからで、日本の農業でもそういうことが当たり前だったんだって思った時は、とても感動的でした。

 そういう農業ということを、今日こういう村に来たらお話ししたいのです。それは、これからの農業ということなのですが、明治一○○年の農業というのは、ちょっと言い方が失礼になったらお詫びいたしますが、学校に行っていない方々が中心勢力なんです。小学校中学校、昔で言えば高等小学校をでれば充分という方々が、農業ということを担当して、猛烈な努力で一億三千万人の食い物をつくって下さったんですね。そして、頭脳の部分というのはお役所とか学者がやって、農水省や農協が世話して、という形なので、農民像というものがどうも我々に見えなかったと言って良いかもしれないと思うんです。

 しかし、これは二○世紀で終わるって思うんです。何故終わるって言うかというと、恐らく五ヶ瀬でも、子どもの九割以上は町の高等学校に行ってしまうのではないかと思うんですね。親の側で手伝いをするというのは、特別な親孝行と言ってもいいんじゃないかと思います。だから、尾前さんが「倅が自然がわかってきた」というのは本当にすごいと思います。本当の少数派じゃないかと思っていたので。そういう状態の日本で二一世紀の農業を考えるとしたらどうしたら良いかっていう議論がこれから少し本格的に要ると思うんです。

 その時に、今まで二○世紀後半、戦後、我々の食糧のために奮闘した方々が、高齢化世代に入ってきたわけで、この高齢者に、近代化とか、借金を背負って何かやりなさいとか、言っているわけです。老人介護ということも村の中で重要になっていると思うようにもなってきていますが、新しい二一世紀農業をどうやってつくるかということを、どこの村でももっと真剣に議論しなくちゃいけないと思うようになってきています。

 その時に、高等学校に九五%進学し、その半分は大学を出てということを考えると、そういう学識知識を持った人が、見るからに農業系ということをやりだす時が来たんじゃないかということに注目したいと思うんです。

 林業でも、今、林業では一○万人の方が働いていて年取ってきています。二五○○万ヘクタールもある森林を、たった一○万人のお年寄りに任せられるというのではないことは、語るまでもないわけです。二五○○万ヘクタールの森林は、どうやって維持するんだっていうことについても、若者がどのように参加するかをもっと真剣に議論しないと森は滅びるって思います。 

農業の方も、五○○万ヘクタールの農地というものを六五歳以上の高齢者に任せておいていい状況にはないわけです。そこで、やはり約一○○万人くらいの新しい知識を持った農民像を描いてみないと、いけないんじゃないかということを思うようになってきました。そういうことを言いながら全国を歩きましたら、既にそういう青年が日本中に出てきていることに気がついて、心配しなくてもいいんだなあと、私がそんなことを言うまでもないんだなあと思っていますが、林業でも畜産でも米作でも、さつまいもでも、独特の青年が出始めています。その青年たちは結構儲けています。

 その青年たちに会うと、「みんな大学出て、役所なんか行って、あんな安い月給で、言われたことだけやって、あれで面白いのかね」っていう人もたくさんいました。「俺たちは自分たちの知恵と能力で、稼ぎまくって、家族と共に豊かな生活をしたい」ということを言っていて、その青年たちから私に「農政があるから邪魔だ。農政がなかったらもっと自由にやれるのに」って言われたのにはちょっと弱ったりしました。そういうようなことが、段々でてきたなあと思っています。

 最後にちょっと言いたいのは、戦後というのは、特に東京一極集中で、世界で例がないんです。三五○○万人の巨大都市が、結構活動しているというのは世界にないことです。日本人が二○世紀に、日本列島に三五○○万人の巨大都市を作ったという歴史は千年後の考古学者の非常に大きな魅力的なテーマであることは間違いないです。そして、日本中の青年の三人に一人が東京に来てしまったのです。世界中でその国の青年の三分の一が首都にいるなんていうところは一つもないわけです。よくもまあ、三分の一も東京に来たもんだなあと思っています。

 そうやって集めた東京の青年たちが、実は歳をとって定年退職期が近づいてきたわけです。その時に、ハタと東京に来て良かったのか悪かったのか迷い始めているというのが現在の東京なわけです。特に、団塊の世代は、東京へ来て良かったと思っている人はむしろ少ないかもしれない。仕方がないと思っている人はいっぱいいるかもしれない。

 しかし、定年退職以前に、東京を離れて田舎に住みたいという青年が、日増しに増えていることだけは確かだと思うんです。しかも、団塊の世代よりもっと下の三○歳前後になると、早くも東京を出たいという希望が少しずつでてきています。

 ですから、一○万人の林業や一○○万人の農業に対応すべき若者は、ある程度大都市からも参加するということは間違いないし、今すでに、丸の内の三菱を辞めて畜産を始めた青年も現実にいますし、漁業を始めた青年もいますし、林業も始めた青年もいます。二○世紀後半は、教育のレベルを上げながら、知識を吸収するために村を離れていった人たち、この人たちが二一世紀に戻ってくるということが、これからの上流文化に非常に大きな影響となると思います。

 その時に、上流文化側が、帰ってくる若者たちに、どういう教育ができるか、どういう言い伝えができるかが、勝負でありまして、今の内に早く上流圏なり峰越しの文化というものの解釈がもっともっと深くなって、一度大都市に集中した若者が再び戻る時代に間に合うように対応していただきたいという風に思っています。

 高齢化社会が来ると日本は絶望的なんていう人がよくいますが、私は全くそう思いません。日本が世界の中で一番良い国になる条件は、たった一つだけ、年寄りが増えることです。年寄りが増えることが何故良いかって言うと、自然科学で近代化を推し進めようという時代ではないわけで、歴史とか伝統とか、自然とか人間というものを知り尽くした人がリーダーであるべき一世紀が来たわけです。その時には、一歳でも余計に生きた人が先生というのが当たり前と思っております。

 歳取って、若者に威張れて、「伊達や酔狂で歳取っているんじゃないよと、良く年寄りの意見を勉強しなさい」と言えるような高齢化社会だったらこんな素晴らしいことはないと思います。六五歳の人口が、全人口の何%なんていうくだらない話をするよりも、六五歳以上が、今、一九○○万人日本列島に暮らしています。その一九○○万人を調査しましたところ、体の事情、家庭の事情その他で社会的サービスが必要とされる人というのは、多く見積もっても三○○万人です。

 三○○万人をもっと手厚くすることは、財政がどうだろうとやった方が良いと私は思いますけれども、あとの一六○○万人というのはどうなっているかというと、お金があって家も持っていて、歴史も知っていれば、長い人生の経験も持っていて、おまけに暇も持て余していると。そして、自分じゃろくろくお金を使わないで、何にお金を使っているかっていったら、子どもや孫の教育とか出産とか進学のために使っているというのが日本の高齢化社会です。今後は税金で年寄りの面倒を見なきゃいけないっていう心配は嘘っぱちだって思っております。

 厚生省が、若者が年寄りの面倒を見なきゃいけないっていう発想から、若者が一人で四人の年寄りの面倒を見なくちゃいけないというバランスになったから大変だって言ったんで、ちょっと待って下さい、逆ですよと、年寄りが子どもを四人見なくちゃいけないのが、一人だけで済むようになって助かったと思っているのが年寄りで、孫が十人できたら面倒見切れないと、それが一人しか産んでくれないから面倒が楽になったというべきである、と言ったら、厚生省が、ぎゃっと言って返事に窮していました。

 「局長さん、あんたも孫の面倒見てんじゃないの」って言ったら、「実はそうです」なんて言っている実態ですから、高齢化社会というのはもっともっと明るく語られるべきであって、しかも、都会よりは上流地域の方がそのことをもっともっと語りやすいのじゃないかという期待を持っています。

 これはまた、余計なことですけれども、東京の年寄りに何が起きているかって言ったら、さっき若者が地方へ出ると言いましたけれども、若者だけではなくて、高齢者が東京をでるということがでてきました。千葉県なんかで調査しましたら、若者よりも六五歳以上の老人の引っ越し率が高いのです。

 それは、なんだって聞きましたら、家を売って出ていくと。出ていく先はと聞いたら、自然の豊かな町村でかつ首長が福祉とか健康に熱心なところを探して引っ越したいというので、三三○○の市町村のどこが良いかっていう情報誌が、東京の年寄りで売れるという時代なんですね。そして、別荘を探すという感覚と違うんですね。福祉・医療を探して引っ越すという。 そしたら、淡路島で事件が起きちゃいまして、大阪や神戸からいっぱい年寄りが引っ越してきて、町の首長が全国でも珍しいほど福祉をやったものですから。そしたら、大都会から来た人がみんな占領して、町営の施設なのに町の人が入れないというので、トラブルになったことさえあります。これから大都市は、年寄りも地方へ移動する可能性を持っているということも申し上げておきたいと思いました。

 長々としゃべってしまいましたけれども、今日こういう形で、みなさんと自然の中で自由なお話し合いができて、みなさんそれぞれに色んな思いが描けたんじゃないだろうかと思います。 このシンポジウムは印刷されるそうですけれども、印刷で記録することも大切でしょう。しかし、それ以上に、参加した方々の体の中に何かが宿ったかどうかが、私にはとても興味があるところです。宿ったものが、今後皆さん方が、長生きしていく中でどのように表現されていくか、こんな面白いことはないと思っております。

 人間というものは、人から情報を与えられることよりも、全身で情報を人に伝えようということで生きがいを感じている動物ですから、今日のシンポジウムを聞かれた中で、いくつかそういうものを見つけられたのではないかと思って、今日のこういうフォーラムを大いに讃えたいと思います。時間をとりすぎてすみませんでした。

 鈴木 どうもありがとうございました。それでは閉会の挨拶とご案内をさせていただきます。

 黒木 みなさん、凍てつくような寒さの中、四五分も延長したにも拘わらず、ぶーいんぐの一つも出ず、素晴らしいシンポジウムを終えることができました。本当にありがとうございました。私は隣村の椎葉村に住んでおります黒木と申します。皆さん方の元気の出るような話をたくさんいただきました。嘆き節の大合唱を続けております椎葉村、五ヶ瀬町でありますが、今日の風人間、夢配達人の皆様方の頼もしいお話を聞きまして元気の出る思いでおります。

 今日は、下河辺先生に国土という大きな立場から私どもの今の地域の視点を明確に示していただきました。御礼申し上げます。一時から始まりましたこのシンポジウムを延々五時間続けられまして、言葉のご馳走をたくさんたくさんいただきました。

 これからの第三ラウンドは、本物の森の恵み、ご馳走をしたたかに、お話に三分の一とありましたので三分の一かもしれませんが、ホテルで用意をしております。今日、大半の方は聞くだけでございましたが、そちらの方は、民俗芸能を鑑賞いただきながら、ご馳走を召し上がっていただき、その後の炉端談義で積もり積もった思いの丈を晴らしていただきたいと思います。今日は、ありがとうございました。
参加者名簿一覧


続く