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鞍岡の歴史と無形民俗文化
鞍岡祇園神楽

「鞍岡祇園神楽」の概要
「鞍岡祇園神楽」は、五ケ瀬町鞍岡の「祇園神社」に伝承されているお神楽です。「祇園神社」のお祭り以外では、古くは、地域の小集落ごとに行なわれるお祭りにも民家で舞われていたようですが、今では、大石の内地区の「おてんとさん」のお祭り(例年11月下旬の土曜日)と、やまめの里の神楽まつり(例年10月下旬から11月上旬の土曜日)に奉納神楽が舞われます。
神楽の舞台
神楽の舞台となる「神庭」は、舞台の一角に幕を引いて幕の前に岩戸と榊を立てて天岩戸を定めます。天岩戸が東の座となって東西南北の方位が決まり、その四方に七五三の下がりをつけた注連縄(しめなわ)を張り巡らします。「注連引けばー、ここも高天原なるぞー、集い給え四方の神々ー。」と神楽唄にありますが、注連縄を引いたその中は神聖な場所と見なされて神庭となります。
天岩戸は、天照大神がお隠れになった神話の場所で、古事記に「かれ是に天照大神かしこみて、天の岩戸にさしこもりましき。ここに高天原皆闇く、葦原の中ツ国悉に闇し。」と書かれているところの場面です。「八百万(やおよろず)の神々が神集いに集い給い、神儀りに儀り給いて、常世の長鳴鳥を鳴かしめ、天の真榊を根こじにこじて、笛太鼓手拍子よろしく、天の宇受賣命が伏せ桶を踏みとどろこし、小竹葉(ささば)を打ち振り神懸かりして、胸乳をかきいだし調子面白く舞い給えば、天照大神のお怒りを解き給うなり。」という神話が神楽起源とされる場所になります。
神楽の構成
神楽は、麻苧で編んだ舞衣(まいぎぬ)、狩衣(かりぎぬ)、千早などをまとい、烏帽子(えぼうし)、天冠、毛笠などを冠り、命(みこと)づけの神面(おもて)などを着け、鉢巻や襷を掛けたりして、手には扇、鈴、太刀、鞭、御供鉢、幣などを採って舞います。所謂「採物神楽」と呼ばれる古典的な舞です。
舞いは、東の座に向うことから始まりますが、一人舞いの場合は西の座から東の座へ、次いで南の座から北の座へと定められた足を踏みながら移ってそれぞれの座で所作を行ないます。また、二人以上で舞う舞いは、定められた足を踏みながら東の座と西の座に分かれて向かい合って所作を行い、次に南の座と北の座で向かい合い、最後に下の並び(西の座)上の並び(東の座)と並んで所作を繰り返します。このように東西南北それぞれに所作を行なうことを四方を割るといいますが、これを基本として33番の舞いが構成されています。このため演劇風な要素を取りいれる余地が少ないので、古来の形そのままを伝承されているといえます。
神楽を舞う人のことを舞子と呼びますが、舞子は神楽を舞う時にそれぞれ神の命付(みことづけ)がなされます。すなわち、手力男の命、天照大神、須佐之男命などなど、いろいろな神の身代わりとなって舞います。命付により、舞いはその神を表現することになり、舞いの意味が深くなってきます。「神楽は、神の身代わりをなし、神を慰めるもので、礼儀を重んじ厳粛の中にもまた賑やかでなければならない」とされております。
奏楽は、笛、太鼓、撥、手拍子(シンバル風のもの)の4人により奏します。当地の神楽は六調子が主体となります。神楽笛は、シノダケの一節を切り取って指で寸法を測りながら穴を開けてつくります。太鼓は締太鼓と呼び、山の木をくりぬいて鹿の皮をなめして貼り付けます。笛も太鼓も生きた楽器で、焼酎を吹きかけたり、卵の黄身を塗り込んだりしながら使い込んでいくわけですが、作り方のマニュアルもなく全て口伝で伝承されています。
お神楽33番は、本来、夜を徹して舞いながらしだいに夜明けが近づくと天岩戸準備の舞となり、朝日の昇る時刻に合わせて、天岩戸から天照大神をお連れするという構成です。太陽の象徴である天照大神は稚児が舞います。太陽は、夏に向かって天高く昇り、万物のものを育て、秋にはしだいに力尽きて低くなっていくと考えたのでしょう。太陽の力の蘇りを願うために天照大神は、未来のエネルギーを秘めた子供が舞うことにしたものと考えられます。
近年は、深夜には見物客も途絶えてしまうため、夜半には終了するようになりました。
タイシャ流棒術

タイシャ流棒術の概要
例年7月15日に行われる鞍岡祇園神社の夏祭りでは、「心影無雙太車流」の幟を立て、「棒使い」と呼ぶ六尺棒を持った氏子がお神輿(みこし)のお供をして町を練り歩き、御神幸行列を警護先導します。
お祭りの中心となる御神幸(おみゆき)は、「棒使い」たちが神殿から神輿の間に2列に並んで六尺棒を立て、ご神体の通り道に何物も入れない壁をつくることから始まります。御神幸(おみゆき)の終わりにも同様にします。
この「棒使い」は白衣袴姿で襷を掛け、鉢巻をしてワラジを履いています。行列の進行途中に幾度か御神幸の隊列を止め、「たて」と称して「みち棒」と呼ぶ棒術の型の演武を行います。演武中は、笛と太鼓が音曲を流します。
「たて」は、進行している隊列を止める合図から始まります。締め太鼓の大太鼓がドドドーンドーンと繰り返し打ち鳴らされると隊列が止まる。次はスットンスットントコトコトーンと太鼓の調子が変わると「棒使い」たちはお互いの間合いをとる。すると隊列が長く広がります。
隊列の間合いがとれたところで太鼓はトントトントーン、トーンカッカと打ち鳴らします。この太鼓を合図に「ヤー、エイエイ」と掛け声をかけながら「みち棒」の型が演武されます。この「道棒」と称される演武はタイシャ流棒術の基本型を現わしているようです。近年は、太鼓の調子では理解されずに統率できなくなり、総代さんたちがあらかじめ「たて」の場所を決めておいて行われるようになりました。「棒使い」は、中学生が学校を挙げて参加し、女子は薙刀を使います。
御神幸行列が終わると、お神輿(みこし)から御神体の神面(おもて)を神殿に納め、神殿横の広場でタイシャ流秘伝の奥儀「白刃」の演武を行ないます。この「白刃」は、真剣と棒、棒と棒の試合の型で大きな掛け声や気合を入れて演武を行ないます。迫力のある演武です。「白刃」には女子や中学生などは参加することが出来ないとされています。
このように伝承されているタイシャ流は、その秘伝書が鞍岡に数巻、椎葉に数巻確認されています。その、いずれもが神格化され、波帰では天狗神社のご神体となり、その他の民家所蔵も神棚に供えてお祀りし門外不出とされています。
このため、神格化された巻物は一般に公開されることなく、椎葉では年に一度、定められた日以外に開くことを禁じられているといるそうです。その作法は固く守られているので、古文書としてこれを研究する人もなく神秘のベールに包まれた部分が多いのです。
タイシャ流礼儀秘伝の型は、古くは人吉や椎葉にもあったといわれますが、今では鞍岡だけに残っています。鞍岡では、演武そのものがお祭りとなっており、お祭りにタイシャ流は無くてはならない存在として今日まで伝えられています。椎葉では、昭和31年頃、学校の運動会で演武が披露され、それ以後途絶えたため今日では伝承されていません。
タイシャ流は人吉出身の丸目蔵人が開祖で、丸目蔵人は柳生流の開祖、柳生石舟斎宗厳と互角に戦った剣豪といわれ、一時は日本を二分する流派であったと伝えられています。丸目蔵人は、晩年球磨郡錦町に隠遁して水田を開墾したり、夜は兵法を論じてたくさんの門弟を育て89歳で没したとされています。その墓は錦町にあり、錦町では剣豪丸目蔵人顕彰剣道大会などを開催して剣豪日本一の里づくりが行われています。
鞍岡に伝承されているタイシャ流は、丸目蔵人から山伏(修験道)に伝承されたものとみられており、丸目蔵人のタイシャ流は、「タイ捨流」、鞍岡に伝承されているタイシャ流は「タイシャ流」として記録されています。
このような剣の流派(古武道)を辿ってみると古くは鵜戸神宮の岩屋で陰流を開眼したといわれる愛洲移香にはじまります。愛洲移香は鵜戸神宮の岩屋に籠もって剣の修業をしていたある時、蜘蛛がすーっと天井から糸をひいて下りてきました。愛洲移香は、その蜘蛛の動きを見て陰流を開眼したといわれます。以来、武道の流派はこの陰流から始まるとされいます。
こうしたことから、日南海岸の鵜戸神宮は、愛洲移香の陰流開眼の地として知られ、剣道発祥の地として、毎年「剣法発祥鵜戸山顕彰剣道大会」が儀式殿前広場で開催され、祭礼当日の境内は剣客で賑わっています。
陰流を開眼した愛洲移香は熊野水軍ともいわれ海の支配者でもありました。熊野水軍は、紀州が本拠地で、三重県南勢町に愛洲城跡があります。ここには、愛洲陰流開祖移香斎久忠の碑が建立され、愛洲の里とし愛洲一族の栄華を物語っています。毎年、8月お盆明けの最初の日曜日に剣祖祭が開催されており、全国から古武術などの流派が参加して固有の演武が行われています。平成22年8月には、鞍岡タイシャ流棒術保存会からもこの剣祖祭に参加して演武を披露しました。
上泉伊勢守信綱は、この陰流を基にして、新しい陰流「新陰流」を確立しました。この剣法は剣禅一致、刀を使わず勝利を収める活人剣を目指したもので上泉伊勢守が剣聖といわれる所以はここにあります。
上泉伊勢守の新陰流は全国に知れ渡り、全国から武芸者が集まったと言われます。その門下には、疋田文五郎、柳生石舟斎宗厳、宝蔵院覚院坊胤栄などがいました。丸目蔵人も上泉伊勢守の門下となって新陰流を学びました。柳生石舟斎宗厳は新陰流を基にして新陰柳生流を起こし、丸目蔵人は新陰流を基にして新陰タイ捨流を開眼しました。その後、新陰柳生流は徳川幕府になってから、江戸城の指南役となりましたが、東の柳生、西のタイ捨といわれました。
丸目蔵人のタイ捨流の特長は、右半開から左半開へと軸足が動き、全部斜め切りで逆足が入っているということです。また、新陰流は禅宗であるが、タイ捨流は、真言密教であるといわれ、試合を始める前に「摩利支天神呪教」を唱えるといわれています。
タイ捨流13代宗家の山北竹任氏及び錦町教育委員長(熊本県文化財保護指導委員)の渋谷敦氏によれば、丸目蔵人の墓前で自刃した伝林坊頼慶という高弟がいたので、鞍岡の棒術は伝林坊により広めた山伏系棒術ではないかといわれました。
伝林坊頼慶は、中国から渡来した武術家で佐賀にも滞留したことがあり、丸目蔵人が没して七年後、寛永12年頃没したと伝えられています。また、丸目蔵人のタイ捨流そのものが中国の武術をヒントに編み出したものともいわれます。
詳しくは、平成7年10月に開催された第二回・霧立越シンポジウム「タイシャ流棒術350年と霧立越」
をご覧ください。
臼太鼓踊り

「鞍岡の語源と臼太鼓踊り」
文治元年(1185)源平合戦で壇の浦の戦いに破れた平家は、全国各地の秘境と呼ばれる山深い隠れ里にちりじりに逃げ隠れました。その内の一門は、阿蘇家を頼って南下しました。阿蘇神社では九州山地の鞍岡祇園神社と深い縁を持っていたので祇園神社のある鞍岡の地へ手引きされて落ちのびたと言われます。
鞍岡は、阿蘇外輪山を越えて五ケ瀬川を遡ればすぐの地です。尚も身の危険を感じて霧立越を越して椎葉山中へ落ち延びました。この時、霧立越はあまりにも峻険であるので馬を捨てて徒歩で山深く潜伏しました。
元久2年、鎌倉幕府は平家追討の手をゆるめず那須大八朗宗久に椎葉山中に落ち延びた平家追討を命じました。鞍岡にたどりついた那須大八朗宗久は、平家落人の戦意のないことを悟り、長旅の慰安を兼ねて呉越同舟の踊りを催したといわれます。その踊りが原型となって鞍岡祇園神社の秋祭りには、「臼太鼓踊り」が奉納されるようになり今日に伝承されているそうです。
那須大八朗宗久も馬で霧立越を越えるにはあまりにも峻険であるとして、鞍岡の地に馬の鞍をおいて椎葉山中へ赴来ました。この時、那須大八朗宗久が置いたとされる馬の鞍が鞍岡に残っています。鞍岡の地は、こうして馬の鞍を置いたことから鞍置き村と呼ばれ、やがてそれがなまって鞍岡村となったといわれています。
呉越同舟の踊りを催したとされる「臼太鼓踊り」は、鐘、太鼓で調子をとりながら踊り太夫を中心にして毛がさや編笠をかぶり、背にご幣や短冊を背負ったり、手にご幣や太刀を持って踊ります。
踊りは、神踊り、荒踊り、山法師踊り、太刀踊り、庭ほめ、酒屋、那須の与市、富士の巻き狩り、四節、羅生門などがあり、なかでも山法師踊りの中の「山法師問答」は、山伏装束の二人が相対して問答を行うもので、源義経の安宅の関(あたかのせき)の場面をあらわしているといわれる。源義経が追われて陸奥(むつ)の国に下る途中、関所の富樫に咎められるところを偽の山伏に成りすまして通過したという場面の人別検めの問答でのようです。
「山法師問答」
問 とうざい
答 えいさあ
問 そうれに見えし山法師は、何山法師にて候(そうろう)
答 たあだ山法師にて候
問 まこと本山の山法師ならば、御身に体(たい)のいわれを御開かれ候
答 体は父の体内より血を丸め、母の体内に九月の宿を借り阿吽という二字をうけ、生まれ出でたるがまこと本山の山法師にて候
問 まこと本山の山法師ならば、御身のかぶったるトキンのいわれを御開かれ候
答 トキンは、峯七つ谷七つ須弥山の山を表ぜたるものにて候
問 まこと本山の山法師ならば、御身の肩にかけたる袈裟のいわれを御開かれ候
答 袈裟は、今日天照皇大神を表ぜたるものにて候
問 まこと本山の山法師ならば、御身の手についたる杖のいわれを御開かれ候
答 杖はつく日の形と申す
問 形とはいかに
答 形とは、良きところにも悪しきところにも杖はつく日のいわれをもって形とは申す
問 まこと本山の山法師ならば、御身の腰に下げたる貝のいわれを御開かれ候
答 貝は法螺貝にて候
問 音はいかに
答 音は、ぽーぽーと聞こえ次第のものにて候
問 まこと本山の山法師ならば、御身の足に履いたるわらんじのいわれを御開かれ候
答 わらんじは神の前でも仏の前でもこれは礼なしのものにて候
問 にせではない。とうざいとうざい。皆を御尋ね御開かれそうろう。仲直りに遊び踊りを一度つかまろうやと若い衆を進めいで、早く急いで急いで
答 さあきから心得ておる