「みやざきサクラマス」

海やまめ・「みやざきサクラマス」の誕生物語

昭和30年代から同40年代にかけて、日本の山村は豊かな森林資源により、最も活力に満ちた時代であったように思います。この頃が、やまめ養殖の黎明期になります。やまめは野性的でとても警戒心の強い魚です。谷川でやまめを釣るには岩陰にしっかり身を隠してそーっと釣竿を繰り出さなければなりません。少しでも身を乗り出して川面に姿を映そうものなら矢のように閃いて深い岩陰に逃げ込み、長い間出てこないのです。
山村の開発は自然の破壊へと進展し、しだいにやまめは幻の魚とまでいわれるように減少しました。そこで、減っていくやまめを増やそうと人工ふ化に取り組んだのが昭和39年(1964)でした。はじめは野性が強くて人間が飼いならすことができる魚になるのかどうかもわかりません。餌や環境に工夫を重ねながら世代更新を続け、完全なる養殖魚となったのは4世代からで8年の歳月が経っていました。

今、養殖を重ねて50年あまり経ち、全国的にもやまめ養殖が盛んで河川にも大量に放流されるようになりました。すると、やまめは川面に姿を映しても釣れる魚に変わってきました。更に放流後のやまめをよく観察すると、産卵前の雄どうしの闘争本能が弱くなっています。雌は、河床に産床を掘る行動が、かつてのやまめのように尾をしならせてキラキラと腹が輝き、砂を叩くあのダイナミックな行動が弱々しくなっていることに気づきました。そして、なにより産卵している魚が少なくなっているのです。

やまめは自然界で産卵できない魚になりつつある。そういう思いがして、その延長線上に見えたのがニジマスでした。ニジマスは河川放流しても産卵して子孫を増やすことができない魚になっています。放流した個体でおわりです。やまめもニジマスと同じような道をたどっているのではないかと思いました

やまめと同じサケ科のニジマスは、明治9年(1876)に北米から日本に卵を運んできて養殖を始めたのが始まりといわれます。養殖の歴史が国内だけでも140年近く経ちます。長いあいだ人間が卵を取り出し、受精させ人工ふ化し、餌付けを行ってきました。そのため、今や人間の介助なくして産卵ふ化できない魚になっているのです。外来種のニジマスと同じような道をたどらせてはならないと思いました。

そこで、野生の天然魚との交配を試みようと思いたちました。平成18年(2006)頃のことです。ところが、今や河川の源流域は、人が入れる沢は、どこまでも養殖魚の放流が行われ、卵の放流までが行われるようになり、もはや野生の天然やまめは絶滅危惧種の存在です。考えるうちに、思い当るところがありました。昔、谷川の奥深くのあるところにやまめが棲んでいたことを思い出しました。誰も行かないところです。出かけてみると、いまでもひっそりとそこに棲んでいました。手づかみできる小さな沢です。

秋、紅葉の季節になって出かけてみると、そこの小さな沢では自然産卵を繰り広げていました。数匹の雄魚を掴み取り、精液だけを搾り取り、保冷容器に入れて持ち帰りました。そうして養殖やまめから採卵し、その卵の上に持ち帰った精液をふりかけました。

それから、発眼、ふ化、浮上稚魚へと進むうち、これまでの養殖稚魚とは異なる動きを見せるようになりました。動きが早いのです。人陰に驚いて逃げまどいます。養殖魚は池底に沈んだ餌はほとんど食べませんが、交配種は池底へ沈んだ餌も拾って食べます。体側の楕円形のマークがすっきりとなりました。なにより、二年目の秋になり放流した交配魚の産卵行動がダイナミックに見られるようになりました。

爾来、毎年秋になると野生種との交配を続けるうちに養魚場のやまめはすべて野生種との交配種に更新できました。ところが、困ったことが起こりました。親魚が小さくなり、孕卵数が1000粒以上もあったものが数百粒と少なくなりました。考えてみれば、約半世紀にわたって卵をたくさん産む親魚の選別淘汰を続けてきたわけです。それが、小さな沢の奥でひっそりと命をつないできた野生種と掛け合わせたものですから魚体が小さくなり、孕卵数が減少したのです。自然界で増殖できるやまめを作ることは放流魚の生産としては重要なことですが、もう一方では、大量の卵を採りたいという思いがあります。この思いが海水飼育発想の原点となりました。

ある思いを持ち続けていると、時として人との出会いにより、新たな進展への道が開けることがあります。平成24年(2012)10月、宮崎県の水産試験場や内水面養殖担当の県関係の皆さん方が巡回指導で来社され、夜は養殖談義に花が咲きました。チョウザメの養殖をはじめないかというお話です。8年〜9年かけて育てれば高価なキャビアがとれるという。

キャビアは20g10,000円、やまめの卵の黄金イクラは20g300円程度でキャビアの30分の1以下です。けれども、やまめは2年飼育で黄金イクラが採れます。キャビアの8年間の飼育はあまりにも永い。養魚池は風水害のリスクも高い。8年後を見越しての生産調整も困難です。何よりやまめの里の自負もあり対抗意識が芽生えます。

思いつくままにやまめの海水飼育プランを説明して、受け入れ先を探してほしい旨お願いしました。やまめなどの冷水魚は、積算温度で成長をよむことができます。極端な例では、10℃の水温で1日生きたことと、1℃の水温で10日生きたこととはほぼイコールになるという考え方です。冬季、暖かい海でやまめを飼育すれば、魚体が大きくなり、秋にはたくさんの卵が採れるはずです。この考え方に水試のM氏が賛同され、受け入れ先の調査を約束して帰られたのです。それからしばらくしてM氏から連絡がありました。延岡の浦城湾の生簀が冬季空いているので協力してもよいという情報です。早速、財団法人宮崎県水産振興協会に出向きお願いしました。

12月13日、やまめの里は雪が降っていました。養殖池の水温は2℃、とても冷たい中で70g〜80gサイズのやまめ1,000尾をトラックに積み込み、浦代湾へ運びました。浦代湾の海水温は16℃です。到着するとすぐにトラックの輸送タンクにポンプで海水を汲み入れて水温と海水を馴らします。1時間ほど馴らして、そのまま海水の生簀へバケツリレーしました。2℃から16℃の水温のギャップ、淡水からいきなり海水へのギャップ、この相当なストレスに耐えれるか、生簀をのぞくと緩慢な泳ぎをしていましたが斃死魚はほとんどありません。無事に乗り越えて育ってほしい、そう願いながら浦城湾を後にしました。

その翌々日、霧立越トレッキングのガイドで山を歩いていました。山では携帯電話は圏外の表示が多く通話可能なエリアは極めて限られているのですが、その通話可能なエリアに入った時、携帯が鳴りました。飼育を委託している振興協会の職員からでした。斃死魚が急に増えた、全滅するかもしれないといいます。水温は、と聞くと16〜17℃という。「おかしい、全滅するはずはない、もう少し様子を見てください。」。そうお願いしました。

実は、生存するという確信があったのです。それは、今をさかのぼること三十数年前、雲仙普賢岳の噴火よりずっと以前の話です。ここでも、ある人との出会いがありました。島原市役所の当時水産課長のKさんです。彼は、およそ役所の方とは思えない発想力とフットワークの持ち主で、フグの研究や芽昆布の開発など熱心で百貨店では法被を着て売り場に張り付いていました。

たびたびやまめの里を訪れていましたが、ある時、島原の海岸近くの湧水でそうめん流しをしているところにやまめを運んでくれないかという注文がありました。そうめん流しにやまめの塩焼きを付けたいということです。

島原にやまめを運んだ翌春のことです。Kさんから「漁師の網に見かけない魚がかかった、やまめではないだろうか」という連絡が入いりました。島原は海が近いのでソーメン流し施設のいけすに運んだやまめが池から飛び出して海に降りたのではないかというのです。やまめは池の縁30センチ位の高さは簡単にジャンブして逃げ出します。こうして海に逃げ込んだやまめが海で育ったのでした。

Kさんの軽いフットワークにより、やまめの海水飼育実験をすることになりました。当時は、はまち養殖が盛んでしたが、12月にはお正月用として大部分が出荷して生簀は空になります。そこへやまめを運び込みました。すると翌年4月、700gの巨大やまめに育ちました。漁師さんがきびなごなどを餌にしてしっかり飼育したといいます。

当時の島原市長さんは、この海育ちやまめを島原の特産品にすると意気込んでホテルで大試食会を開催されました。多少気が早いでもなかった感じがしますが、島原の皆さんに大きな夢が広がったのです。種苗の供給は大丈夫かと聞かれます。

試食会が終わって5月になりました。どうも魚の様子が変だとK氏から電話がありました。急いで行ってみると、海上の生簀では大きく育ったやまめが腹を見せて浮いています。海水に手を入れてみると暖かいのです。水温を調べたらたしか23℃位であったと思います。高温の為、冷水魚のやまめは生き残れなかった。ここで島原の壮大なプランはとん挫しました。「やっぱり海水飼育は東北、北海道の寒い地方でなければ九州ではだめなんですね」。こうした情景が記憶の底に沈んでいたのでした。

水産振興協会に協力をお願いした時の「やまめの海水飼育プラン」はこうです。やまめの里から1年魚を12月に運び込んで4月まで飼育する。5月には水温が20℃以上になるのでそれ以前に海水から引き揚げてやまめの里へ戻す。この間、やまめの里の冬季の水温は自然水4〜5℃、湧水12〜13℃、海水は17〜18℃。積算温度で単純計算しても、自然水では4.25倍、湧水でも1.4倍の成長が見込めると考えたのです。島原の失敗をヒントに生まれた発想でした。

長くなりましたが、以下逐次原稿を書き足していきます。

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